急に後ろから髪の毛を引っこ抜かれて、猿飛佐助は刻にそぐわぬ悲鳴をあげた。
涙目で振り返ると、夜目にも禍々しいほど鮮やかな赤毛をてのひらに置いた片倉小十郎 が、いかにも迷惑だとでも言いたげな胡乱げな視線をこちらへ向けていた。

「煩ェな」
「―――誰のせいだ、誰の」

佐助はほおを膨らませ、先刻までは確かに自分の一部であった髪を恨めしげに見下ろす。

「なんですか、急に。俺なんかした?」
「べつに」
「何も理由がないのにあんたはひとの髪を抜くのか」
「うん、―――あァ」

小十郎はすこし考えてから、身を乗り出し、てのひらをぱんぱんと叩いた。
もちろん佐助の髪はてのひらの上から板間へと落ちた。
佐助は呆れた。

「あんたは何がしたいの」
「棄てた」
「ひょっとして右目の旦那、寝惚けてませんか?」

丑の刻もとっくに過ぎて、もうすぐ夜が明ける。
佐助はそろそろ帰ろうかと思っていたところで、むしろ小十郎はとっくに眠っていると 思っていた。たいてい彼はすることだけ済ませると、佐助を置いてひとりで寝てしまう。 もちろん佐助に不満はない。しのびと武士では生きる時間帯がそもそもちがうのである。 だから小十郎はきっと寝惚けている。

「はいはい、よい子はねんねの時間ですよ」

これ以上奇っ怪な行動をさせる前に、寝かしつけなくてはならない。
佐助は小十郎を布団の上に押し倒し、掛け布団を口元まで掛けてやってぐっと押しつけ た。不満げな呻き声が布に阻まれてこもる。佐助はけらけらと笑いながら、おやすみ、 と、辛うじて出ていた高い鼻の天辺に接吻を落とす。
小十郎は鬱陶しげに佐助を手で払いのけた。
佐助は笑みを浮かべながら額宛てを顔に嵌め込み、ふと視線を枕元にやる。するとそこ に自分の髪の毛が数本落ちていた。先刻小十郎が抜いたものである。
痕跡を残さないというのは、もうほとんど癖のようなものだ。
佐助は特に何も意識せず、腕を伸ばして髪の毛を拾い上げた。懐にそれをしまいこもう とすると、布団からにゅう、と小十郎の腕が伸びてきてそれを阻まれた。
佐助は目を瞬かせる。

「どうしたの」
「何をしてるんだ」
「え、べつになにも」
「髪」
「へ」
「置いていけ」

佐助は自分のてのひらを眺めた。
確かに自分の髪の毛がある。

「あんた先刻棄てたじゃねえか」
「ここに棄てたんだ。おまえに持って帰れとは言ってねェだろう」

なにがちがうのか解らない。
小十郎は佐助の手から赤毛を奪い取ると、再び枕の向こう側に放り投げた。益々理解不 能である。これは本格的に寝惚けている。むしろそうでなくては困る。
正気であれば、と佐助は思った。
この男は自分の髪の毛をどうするつもりだろう。

「―――俺様の髪の毛をどうするつもり?」

佐助はすこし怯えつつ問いかけた。
そんな趣味のある男だとはついぞ思ったことがないが、ひとは見かけによらないという 言葉もある。本人よりも髪の毛に興奮するとか、髪の毛を自分の代わりにして興奮する だとか、そういう趣味が小十郎にないとも限らない。
正直、それはきもちわるい。
とてもきもちわるい。
佐助はじりじりと小十郎と間合いを詰める。
事と次第、答えによってはすぐさま髪の毛を回収して逃げよう。
佐助の押し殺した殺気には気付かず、小十郎は再び枕に頭を沈め、ふん、と鼻を鳴らした。

「棄てるに決まってんだろう。塵じゃねェか」
「はあ」
「起きたらすぐに掃き捨てる」
「じゃあ俺が持って帰ってもいいじゃん、べつに」
「それは駄目だ」

佐助が首を傾げると、小十郎はほうと息を吐いた。
切れ長の目が、ゆっくりと閉じられる。

「おまえはいつも、起きると居ねェからな」

朝になると昨夜のことは夢だったか現だったか。
よく解らなくなっちまう。

「証がねェと、俺がおかしな夢を見たみてェになるだろうが」

胸糞悪い。
小十郎は黙った。
佐助はぼう、と弛緩して、それから耳を擦った。熱い。

「―――そっか」

次いでへらりと笑みが浮かんだ。

「そっかそっか。成程ね。そりゃ仕様がねえや、うん」

俺様の証。
置いてってあげるよ、と言うと布団から足が出てきて膝を蹴りつけられた。偉そうで 腹が立つと言う。どうにも面倒な男である。
でも佐助は上機嫌だった。
成程成程。
証ね。

「おやすみ、右目の旦那」

佐助は目を閉じた小十郎の瞼を軽く吸った。
それで小十郎がうっとうしげに顔を逸らした 隙に、枕元に散らばる自分の髪の毛を一本 拾い上げ、小十郎の 左手の小指にきゅっと結びつけてやって、それから片倉の武家屋敷 を佐助は鼻歌交じりで後にした。
















020:思い出す



本人が感知しないデレ。


2010/07/10



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