髪を梳く指の感触で、片倉小十郎は目を覚ました。 思い瞼を持ち上げると、いやにあざやかないろが視界に入り込む。目を凝らしてみると それは赤毛と、同じく赤い目のいろなのだった。その持ち主はほおづえを突いて、先刻 から小十郎の髪を黙って梳いている。口元には薄い笑みが浮かんでいて、丸い目はつい と細められていた。 猿飛佐助だ、と思う。 思うとおんなじに、起きた、という声が降ってくる。 「お早う」 低く、甘ったるい声が耳を侵す。 小十郎は唸り声をあげて、仰向けに寝返りを打った。 「―――朝か、昼か」 「朝だよ、まだいちおう」 「糞が」 悪態を吐くと赤毛のしのびがけらけらと笑った。 「お寝坊さん」 「誰のせいだ。阿呆」 「やあ、申し訳ねえ。無理させちまいましたね、昨夜は」 でも、と佐助はころりと寝転がって上目に小十郎を見上げてくる。 でも俺様だけのせいじゃないと思いますけどね。 「お互い愉しかった、ということで」 「知るか。忘れた」 「うふふ」 まあいいさ。 佐助は謡うように言って、小十郎の腹にだらりと体を横たえてくる。 重いと唸るが笑うばかりで退こうとはしない。小十郎は早々に腹の上に乗る重みを撤 去することを諦めた。すこし身動ごうとしたところで、痛烈な腰の痛みを感じ、怒鳴 ろうとしたところで、喉の痛みにそれを遮られたのだ。 諦めて弛緩する。 佐助は腹の上で笑っている。 何が愉しいのか、やたらに上機嫌である。 「ね、起きないの?」 「誰かさんのせいで、体中が痛ェ」 「おや、誰のせいだろう」 「殺されてェか」 「うふふふ」 佐助はやはり笑いながら起き上がり、また小十郎の髪を梳き始めた。 細い指の感触がぞっとするほどに心地良い。小十郎は拒絶する素振りを見せるのも面 倒になったので、黙って佐助のすきなようにさせた。 そのうちにまた睡魔が襲ってくる。 とろりと瞼が下がりそうになると、察した佐助がくつくつと笑った。 「寝汚えおひとだ」 「煩ェ」 「寝る?」 「―――眠い」 「ならおやすみよ。仕事も今日はないンでしょう?」 そうだった。 今日は登城はしないのだ。 だから昨夜は、―――嗚呼、もういい。 小十郎は唸りながら眉を寄せ、そして目を閉じた。厭そうな顔で寝るなあと佐助が笑っ た。低い笑い声はまるで水先案内人のように、小十郎を眠りの淵へ的確に導いていく。 佐助のぬるまったい温度を感じながら、小十郎は意識を手放そうとした。 瞬間。 ガラリ 障子の開く音、 次いで、ぱたぱたと軽い足音が聞こえた。 「ちちうえっ」 高い声が間近に聞こえ、小十郎は一気に覚醒した。 跳ね起きると、赤い目をきらきらと輝かしたおさなごが佐助の肩越しに此方を見下ろし ている。小十郎は顔を歪めた。赤毛の双子は閉ざされた小十郎の寝所に足を踏み込むよ うな不作法ははたらかない。 しかし奔放な末っ子についてはまったくべつの話だった。 佐助は困ったようにひきつった笑みを浮かべている。 赤い目のおさなごは―――十助は、驚いたように目を丸めていた。 「ははうえ?」 「―――なんだ」 小十郎は唸るように応え、緩んだ襟を正した。 十助は佐助の肩から身を乗り出すようにして小十郎を覗き込み、それから小首を傾げて 口を開いた。 「ははうえ、カビがはえてる」 「はあ」 佐助が素っ頓狂な声を出した。 小十郎も声は出さないまでも、意味が解らず目を瞬かせた。 カビ。 黴か。 「それどういう意味?」 佐助が問う。 十助は佐助のほうを見て、それから小十郎の顔を指さした。 「ほっぺに、カビがはえてる。ちちうえみえない?」 「ほっぺ?」 佐助も小十郎の顔を見る。 それから、「あ」と声を漏らし、すこし間を置いてからげらげらと腹を抱えて笑い出し た。小十郎は意味が解らず、笑い転げる佐助と不思議そうに自分の顔を見詰める十助を 見比べるしかない。布団に突っ伏して笑っている佐助を乗り越え、十助がとたとたと小 十郎の膝元まで寄ってきた。 手を伸ばし、ちいさなてのひらがほおに触れる。 そして十助ははっと驚いたように手を引いた。 「ははうえ」 「なんだ」 「たいへんです」 「だから、なんだ」 「カビ」 じょりじょりする。 いたい。 「びょうき?いたい?」 心配そうに十助の細い眉が寄せられるのを見ながら、ようやく小十郎は、天真爛漫だが 些か頭の働きが鈍い末っ子の言葉の意味を理解した。 佐助はまだ肩を揺らして笑っている。 十助はどうやら真剣に心配しているようだ。 「病気でも黴でもねェ」 怒鳴りつけることも叱りつけることもしかねて、辛うじて小十郎はそう答えた。 笑いながら起き上がった佐助が、十助を膝に乗せてそうそうと頷く。 「小汚いから十助にはあれが黴に見えちゃったンだよねえ」 「びょうきじゃないの?」 「ちがうちがう、あれはね、おひげだよ」 「おひげ?」 「そう。大人の男のひとはね、朝になるとおひげが生えちゃうもんなんだよ」 父上にも生えてるでしょう、と佐助は十助のてのひらを自分のほおに持っていかせる。 十助は佐助に向き合い、てのひらで佐助のほおをするすると撫でている。小十郎から見 ると佐助の顔に髭は見当たらない。髪が赤いので、おそらく髭も赤いのだろう。それに もともと佐助は体毛の薄い男なので、なおさらそれは見えにくかった。 十助はしばらくして、また首を傾げて口を開いた。 「どう?おひげ、生えてるでしょ」 「ちちうえのおひげは、ふわふわする」 「ふわふわ?」 「うん」 十助はへらりと笑って、伸び上がり、佐助のほおに自分のそれを合わせた。 「ふわふわしてきもちいい」 十助はしばらくその感触を愉しむようにほおを擦り寄せ、それからふと気付いたよう に体を離し、下から覗き込むようにして佐助の顔をじっと眺めた。 最初は右から、次は左から。 何かを確認するように目を細めている。 「どうしたの」 佐助が首を傾げると、十助はまた何かを発見したように、ぴょんぴょん飛び跳ねなが ら、今度は小十郎のほうへ駆け寄ってきた。 「ははうえ、ははうえ、たいへん!」 「―――なんだ」 「ちちうえのおひげ、きらきらしてる!」 腕を引っぱられ、佐助のすぐ近くまで引きずられる。 近くで見ると確かに佐助のほおには、かすかではあるものの髭が生えているようだっ た。でもそれは小十郎が思った通り、薄く、赤いので、髭というよりは産毛というほ うが適切な代物である。 それが朝日を受けて、きらきらとひかっている。 きれいねえ、と十助が言った。 「ちちうえは、おひげもきれいねえ」 うっとりと笑う。 小十郎はむっつりと黙り込んだ。此方は黴で、彼方は綺麗だという。 どうも納得がいかない。 まったく。 「母上、父上。お早う御座います」 涼やかな声がして、振り返ると障子の向う側で幸が手を突き、頭を下げていた。 すぐさま顔を上げ、佐助の腕のなかに居る十助の名を呼ぶ。 「あねうえ」 「十助、此方へお出で」 邪魔をしてはいけない、と言う。 十助はほおを膨らませ、きゅっと佐助の腕を掴んだ。 「とすけ、じゃまなんてしてないよ」 「母上は今日はおやすみだ。起こしてはいけない。父上もお疲れだ」 「でも」 「弁天丸も呼んで、一緒に町に出よう。そうしたら飴を買ってあげる」 「あめ?」 「そう」 「あめほしい!」 「よし、―――母上」 幸が急に此方を向き、そっと何かを差し出した。 見ると、手水と剃刀である。小十郎はまた仏頂面で黙り込んだ。 剃れということか。 何奴も此奴も。 「さ、十助。行こう」 「うんっ、―――あねうえ、あめ、いっこだけ?」 「欲しいなら幾らでも買ってあげる」 「やったあ!」 ぴょん、と十助は佐助から離れ、廊下に出る。 幸は十助の手を取って立ち上がり、小十郎と佐助に向けて軽く頭を下げた。 「畑の草取り、水やり、収穫はもう済ませてあります。朝餉は昼餉と一緒にお取り になると思ったので、その時間に持ってこさせるように伝えておきました」 では、 ごゆるりと。 カラリ、と障子が閉まる。 先刻まで騒がしかった室内に、唐突な沈黙が落ちた。 小十郎は板間にぽつりと置いてある手水と剃刀をしばらく睨み付けてから、何も言わず に布団の上に戻り、上掛けを頭から被って佐助に背を向けた。腹が立つが下らなすぎて 何も言う気になれない。 寝てしまおう。 「ちょっと」 佐助が肩を揺さぶってくる。 小十郎は黙って腕で佐助を振り払うが、佐助は構わずに上に覆い被さって、在ろう事か 上掛けを乱暴に剥ぎ取り、くしゃりと丸めて座敷の隅に放り投げてしまった。 そのままくるりと仰向けにさせられる。 ほおに佐助の大きなてのひらが押し当てられた。 「俺様を置いて寝ちまう気?」 怒ンないでよ。 ぬるまったい感触に嫌々目を開くと、どうせ笑っているんだろうと思っていた顔は、予 想外に強張っていて、どうも本気で目の前の男は自分に眠ってほしくないようだった。 先刻までは眠ればいいと言っていたのだ。 おかしな男だと小十郎は思った。 「寝る。眠い。離せ。そして何処へでも去ね」 「いやだよ。あんた怒ってンでしょう」 「だったらなんだ」 「一緒に居るのに、腹立てられてンのなんて、かなしいじゃないか」 「知るか」 「ね、小十郎さん」 佐助のてのひらがするりとほおの上を動く。 へらりと目の前の顔が笑みで崩れた。 「俺はね、あんたのおひげ、すきですよ」 「痛くて、汚ェそうだが」 「おばかさん。そこがいいんじゃない」 「意味が解らん」 「だって」 あんたがこんな顔見せる相手、俺ぐらいだろう? 「あんた格好付けだから、戦場でだってこんな面見せやしないでしょう。朝になりゃ 誰よりも早く起きて剃っちまうンだし、夜のうちには見れないしさ。となるとだ、あんた のこの薄汚い面見れるのは、足腰立たないくらいに無理させた次の朝の俺様だけじゃあ ないか」 佐助はいとおしむように小十郎のほおを撫でている。 小十郎は黙ってそのてのひらの動きを受け入れる。 なにも嘘を吐く必要もないので、ほんとうなのかとも思うが、だとしたら随分と酔狂だ。 しかしそれも今に始まったことではない。佐助は酔狂だし、愚かだし、物好きで、そうし て同じ事はまったく自分にも当てはまるようになっている。 考えるだけ無駄かもしれない。 「そう考えると、いっそ、そそるよね」 「阿呆か」 「うふふ」 じょりじょりする。 佐助は愉しそうに小十郎の髭を指先で確認している。 小十郎は考えるのが心底から馬鹿馬鹿しくなったので、自分も手を伸ばして佐助のほおに てのひらを当てた。赤い目のおさなごが言うよう、佐助の髭はふわふわとやわらかい。下 から見上げると差し込むひかりがことさらに映えてひかりが散っているように見えた。 「おい」 「なあに?」 「おまえの髭は」 「うん」 「誰が見ることができる?」 「―――嗚呼、」 佐助はうっとりと笑って、小十郎のてのひらの上に自分のてのひらを重ねた。 「勿論、あんただけだよ」 接吻が額に落ちてくる。 佐助が顔を上げるのを見計らい、小十郎は首にかけ直した腕をぐいと引いて、笑みの浮か んだその唇に思い切り噛み付いてやった。
026:拗 ね る
ついったーで歩さんがつぶやいていた髭ネタを借用。 小松菜ネタの落ちが毎回おんなじようなものになってますが、好きなので仕方がない。 2010/08/26 プラウザバックよりお戻りください。 |