いつもならば無言で鞄を嫁に突き付ける旦那が、その日に限ってうつろな目をしてすっと 隣を横切ったので、それはとても奇異なこととして嫁の目に映り込んだ。

「片倉さん」

旦那は寝室のドアを開けて、やはり黙ってそこに消えていった。
追いかけてみると、ベッドの上に鞄を放り出して、クローゼットの中をなにか物色してい る。丸まった背中を覗き込みながら、佐助はふとそこには何がしまいこまれていただろう と思いだそうとした。でもそれは上手くいかなかった。佐助はだいたいにおいて、この家 のどこに何がしまわれているかをあまり把握していない。
小十郎は大雑把に箱や引き出しを散らかして、なにかを一心不乱に探している。

「あんた、大掃除でもするおつもり?」

佐助は眉をひそめ、腕を組んだ。
小十郎が綺麗好きなのは十分知っているが、いくらなんでももうすでに日付が変わったと いうこの時間に急にクローゼットの整理もないだろう。小十郎はでも、それでも答えよう とはしない。佐助が息を吐くと、それはがさごそという音に紛れて消えていってしまった。 しばらくして、小十郎が「あった」とちいさな感嘆の声をあげた。
小十郎と目線を合わせるようにしゃがみ込むと、暗がりのなかでも彼の手のなかになにが あるのかよく見えた。
佐助は目を細めた。
それから口をぱかりと開いた。

「はあ」

ナニコレ。
唸るようにつぶやくと、帰ってきてから初めて、旦那が佐助の顔を見た。

「あァ」

今帰った。
今更のように言う。
佐助は呆れながらも、おかえりなさい、と一応言ってやった。

「ま、それはいいから。これ、なんです」
「見りゃ解るだろう」

マサムネサマだ。
小十郎が腕をもたげ、両手で支えたそれを佐助の顔の前に突き出すので、佐助はうっとう しげにそれを振り払い、首を左右に振った。

「言ってることも意味不明ですし、あんたが帰って早々にそれを引っ張り出す理由はもっ とぜんぜん解ンねえよ、―――だってそれ、」

熊じゃん、と佐助は言った。
だってそれ、熊のぬいぐるみじゃん。

「なんでそんなもん持ってンの」

小十郎は目をひとつ瞬かせてから、自分の手のなかにある、大きな、二三歳のこどもほど はある熊のぬいぐるみを後ろへ傾かせ、いとおしげに切れ長の目を細めて見せた。
よく見るとぬいぐるみの右目には包帯が巻かれている。

「政宗様がお小さい頃、くださったものでな」

小十郎はしあわせそうにその包帯をなぞる。
俺が大学生かそこらの頃で、勉強と輝宗様の仕事の手伝いとで寝る暇もなかった頃、相当 酷い顔をしてたんだろう、心配なすって、態々すくない小遣いをはたいて買ってきてくだ すったんだぜ。
まだ十にもならねェ、
そんな幼い頃から、下々への視線を立派に持っておられた。

「俺は一緒に寝てやることはできないが、これを俺だと思ってちょっとは寝ろってな。 一緒に寝ればぐっすり眠れるだろうと仰った。まったく、今から考えても信じがたいご 聡明さとお優しさだとは思わないか」

旦那は見た事もないような晴れやかな笑みをたたえ、嫁に同意を求めた。

「へえ」

嫁はそれに極めて冷徹に応えた。
けれどもそんなことは旦那にとってはどうでもいいことでしかなかったようで、笑みを崩 さないままに彼はぬいぐるみを脇に抱え、そのままベッドに直行し、そしてまるで民衆に 倒されるスターリン像のように、ぐらり、と革命的な唐突さで前のめりにシーツに倒れ込 んだ。
ばすん、という鈍い音で嫁はようやくはっと顔を上げる。

「ちょっと」

駆け寄って肩を揺するとうっとうしげに旦那が唸り声をあげた。

「大丈夫?」
「眠いだけだ。放っておけ」

不明瞭な声で応えると、旦那はぬいぐるみに顔を埋めるようにして体を丸めてしまった。
佐助は呆れてベッドに腰を下ろした。

「お風呂は」

顔を上げないまま旦那が首を振る。

「晩ご飯はいいの」

いらねェ、と短い返事があがった。
佐助は旦那の硬い髪を梳いてやりながら、着換えくらいしないの、と一応問いかけるが、 もう返事は返ってこなかった。眠っているらしい。一瞬だ。佐助はうんざりと息を吐き、 梳いていた髪を一本抜いた。
隆々とした強面の男が、熊のぬいぐるみに顔を埋めて眠っている。
世の中にこれほどおぞましい光景が他にあるだろうか?
嫁は不快げに顔を歪めながら、ふとそういえば明日は午前五時には家を出なくてはいけ ないと旦那が言っていたのを思い出した。
時計を見ると、すでに一時を回っている。
三時間後にはもう旦那は起き出さなくてはならないだろう。

「で、コレかよ」

佐助は旦那のベッドのすぐ隣にある自分のベッドに寝そべって、憎々しげに熊のぬいぐ るみを蹴りつけた。
マサムネサマだと。
馬鹿じゃないの、と佐助は唸りながらそのぬいぐるみを旦那の腕のなかから奪い取った。 それから旦那の顔を睨み付けようとして、思わずもともと丸い目をさらにまんまるく見 開いてしまった。
旦那は眠っていた。
見たこともないような、安らいだ顔で眠っていたのだ。
佐助は一瞬呆けた。それからぬいぐるみを床に放り投げて、這いつくばるようにして旦 那の顔に自分の顔を近づけ、じっくりとその寝顔を眺めた。いついかなるときにも消え ることのない眉間のしわは薄くなり、切れ長の目は閉じられているとその鋭さを隠して しまっている。吊上がった眉尻も若干下がって、なによりもいつもはきゅっと真一文字 になっている唇が、かすかに開いているのがおさなげにすら見えた。
結婚して二年経つけれども、佐助は今までこんな顔で眠る旦那を見たことがない。
ましてや、今日はまだ週の真ん中の水曜日で、あと三時間しか眠っていることもできず、 夏だというのにシャワーすら浴びないで、空腹だって限界だろうに、この男は大切な社 長から貰った社長の名前のついたぬいぐるみひとつで、こんな満ち足りた顔をすること ができるのか。
佐助は思い切り眉を寄せた。

「―――まったく、やってらンねえっての」

どこもかしこも社長だらけだ。
そんなことは今更だけれども、やっぱり嫉妬はせざるをえない。佐助は唇をひん曲げた ままころりと自分のベッドから旦那のベッドへと移動して、ぬいぐるみが消えた分空い た旦那の腕のなかのスペースに潜り込んだ。一日着換えていない旦那のワイシャツから は香水と汗とどこからか移ったのだろう煙草のにおいがした。あまりいいにおいではな かったが、佐助はそれでももぞもぞと胸元に自分の体を収めた。

「本人に負けるならともかく、ぬいぐるみにまで負けるなんて冗談じゃないよ」

旦那の背中を引き寄せ、ふん、と鼻を鳴らす。
旦那の安らいだ眠りなんてどこかへ飛んでいってしまえばいいんだと嫁は思った。


















寝苦しさにふと目を開くと、目の前で赤いなにかがふわふわと揺れていたので小十郎は 目覚めて早々にすこしぎょっとすることになったが、落ちついてよく見てみると、その 赤いなにかは嫁の髪だった。
嫁が自分の腕のなかに居ることに、旦那はまたすこし驚いた。
確か昨夜はあまりにも疲れて、しかもすぐに起きなくてはいけないからと昔政宗からも らったぬいぐるみを引っ張り出してそれを抱いて眠ったのではなかっただろうか。辺り を見回すとそのぬいぐるみはなぜか床に転がっていた。小十郎はまた驚いて、起き上が って腕を伸ばそうとしたが、腰に巻き付いてくるぬるまったい感触のせいでそれは適わ なかった。
見ると佐助がタコのように体に巻き付いている。
眠っているとは思えないほどの力強さで、ぎゅうぎゅうと背中の腕が抱き締めてくる。

「おい」

声をかけるが返事はない。
たぶん、眠って居るのだろう。時計を見ると三時だ。あと一時間眠ることができるが、 どうもここまで密着されていると暑くてしかたがない。どいてほしかったが嫁は梃子で も動きそうもないので、旦那は諦めてベッドサイドのリモコンを取って、エアコンの電 源を入れた。しばらくすると涼しい風が室内を旋回し始める。すると嫁の体温も不快で はなくなってきた。
小十郎は息を吐き、枕に頭を戻す。
どうしてこういう状況になったのかはよく解らない。明日の夜にでもよく問いただして く必要があるだろう。まさか自分があの大切なぬいぐるみを放り出すわけがないのだか ら、十中八九犯人は腕のなかで間抜けな寝顔をさらしているこの赤毛なのだ。
でもとりあえず、今は残り一時間の睡眠を貪るべきだと小十郎は判断した。
ぬいぐるみの代りに嫁の赤毛に顔を埋める。共用のシャンプーのにおいと、かすかに夕 食のカレーのにおいが―――カレーだったのかと小十郎は思った―――する。
一時間の睡眠のお伴としては、そう悪くない。
タコのように巻き付く嫁をその形のまま抱き込んで、旦那は再び深く眠り込んでいった。















027:奪 う



「熊のぬいぐるみに政宗様と名付けて一緒に笑顔で眠る片倉さんの夢を見ました。責任
とってください」というコメントを頂いたので、責任をとってみました。


2010/08/16



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