猿飛佐助は底抜けに疲れていた。
その疲れようは、世界から忘れ去られた海辺の片隅にある海草のような、かなしくなるほどの停滞感と絶望的なまでの孤独にいろどられたものだった。他国への一月の潜伏と、その後は上田での間諜騒ぎを三人ほど殺すことで収め、武田に報告をして帰ると主の真田幸村は自分の国でなにが起こったのかも知らぬ顔で安らかに眠っていた。
ほぼ一月ぶりに見る主の顔は殺したくなるほどに無邪気なこどものそれで、佐助は安堵があんまり極まりすぎて頭がおかしくなりそうになった。ふと気がつくと手には苦無が握られていて、あとすこしばかり我に返るのが遅ければ幸村のなだらかな喉を一息に突いていたところであったことに気づく。
佐助は悲鳴じみた声を飲み込み、上田城を出た。
そのとき主に向けた感情がなんであったのかはよく解らない。

ともあれ佐助はできるだけ幸村から遠くへと、逃げた。






























常のように夜遅く忍んできたしのびの様子がちがうことなど、もちろん片倉小十郎にはすぐに解った。まず、血のにおいで目を覚ます。そこがちがう。容易く自分の体臭をまき散らすほど愛想のある男ではない。小十郎はうっすらと目を開けてみた。
足下のほうに、ぬうと大きな黒い影が見える。
辺りにはひどい血のにおいと、気配を消す気もないらしく垂れ流された殺気が漂っている。

「何してやがる」

声をかけても黒い影は動かない。
小十郎は深く息を吐いた。枕元の行灯に手を伸ばそうとすると、がたんと大きな物音がする。行灯のあったはずの場所に手を伸ばしても何もない。しのびが倒したのだろう。
今晩の男はどうやら手負いらしい。
小十郎はむくりと半身を起こし、胡座を掻いた。

「おい、しのび」

何処にいるのやもしれない相手に声をかけるのはなにやら阿呆らしい。
それでも小十郎は律儀に声をかけてやる。殺気ばかりが蔓延して、肝心の男の気配はしないのがまた面倒だ。幾度か声をかけても蔭はしんと静まり、ただ血のにおいばかりが鼻をつく。
小十郎はそれでも、苛立ちはしなかった。
気を抜けば笑ってしまいそうな心地ですらあった。
髪を掻いて奥歯を噛む。自然と眉根が寄ってしまうのは、自分の甘さにうんざりしたからに他ならない。常のように所構わず喋り散らす男の沈黙はひどく希有なもので、小十郎はまったくそれを厭うてはいなかった。ときどきこうして手負いのしのびが自分の元に忍んでは拗ねたこどものように黙りこくっているのを、小十郎は密かにあいらしいとすら思っているのである。拗ねたこどもとは言えぬほどに物騒なのが玉に瑕だろうか。しかし小十郎は手のかかるものが、なんにせよすきなのだ。
我ながら質の悪い癖である。
手を差し伸べ、息を吐く。
蔭がすこしだけゆらりと揺れた。

「おいで」

指先に冷えた感触が当たる。
ちりと痛みがはしり、それが苦無であることを小十郎は知る。それでも何も言わないでやると、だんと背中を布団に押しつけられ、冷えた感触をそのまま喉へと押しつけられる。小十郎は目を細め、天井を仰いだ。ようやく目が夜に慣れてきて、蔭の形を明瞭に知ることができるようになる。
きらりと苦無がひかる。
その先にある男の目がぎらぎらとやたらにひかっているのも見えた。
小十郎は手を伸ばし、男の髪をぎゅっと掴んだ。苦無がすこしずれて、刃の部分が喉をゆるく裂く。蔭が息を飲むのが気配で分かった。
小十郎はその隙を捉え、男の体をぎゅっと胸に抱き込んでやる。
ぽんぽんと赤い髪を叩いて、そこに鼻を埋める。小十郎は顔をしかめた。

「臭ェな。後で水を浴びろよ」

血と汗と埃。
それに腐った肉のようなにおいすらする。
自分の夜着にもきっと移ったろう。布団に痕でもついたやもしれない。明日家人になんと言ったものだろう。面倒だと小十郎は思ったが、腕の力をゆるめはせず、ことさらに強く内側の生き物を抱いてやる。
そのうち、それがうなり声をあげはじめた。
低く意味のとれない声に、小十郎は目を閉じて髪をなでてやる。うう、うう、と唸り声は続く。それは夜の闇や漂う生臭いにおいと相まってひどく不愉快な音だった。獣のそれともちがう耳障りな音に、小十郎はそれでも静かに耳を澄ます。泣いているのではない。何かを訴えているわけでも、小十郎に縋っているのでもないのだ。ただ腹のうちでぐるぐるとうごめく醜いなにかを静かに静かに、ゆっくりと吐き出すためだけの排気音である
小十郎にも覚えがあるので、解らないではない。
もちろん彼がそうなってしまう理由など知らないけれども、そんなことはどうでもいいことである。
手甲やら具足やらをつけたままの男の抱き心地は決していいとは言えぬ代物であったけれども、それでもうめきながら小刻みに震えるものを抱いているのは、悪くない。実際、小十郎はこうしているこの男がいっとうすきだった。
いつかの、―――そう、まだ主の幼い遠い昔を思い出すようだ。
戦に出たばかりの頃、よく彼の方もこうして自分の猛りを殺すのに苦心していた。その度に自分は気を荒くする主の気が済むまで体を押さえ込んでやって、いつも体に生傷を作っていたものだ。
小十郎は口元に薄く笑みをひく。腕にも自然、力がこもる。
嗚呼、なんていとおしい。
唸り声がやんだので、うっすらと目を開く。
赤い目と、ひたりと焦点が合った。

「猿飛」

男の名を呼んでやる。
ひくりと男の体が揺れる。赤い目には相変わらず殺気が浮かんでいる。小十郎は舌打ちをしてからくしゃくしゃと赤毛を掻き混ぜ、男の手にいまだ握られたままだった苦無を後ろへ放り投げると、体を反転させて赤毛を枕に押し込んでやった。抵抗する男の肩を押さえ込み、布団をかぶせると横に素早く潜り込んで、再び体を抱き込む。
間近にきた赤い目が見開かれているので、小十郎は薄く笑った。

「とっとと寝ちまいな、阿呆が」

そう言って、鼻先を軽く吸ってやる。
すると男は途端に目を細め、そのまま事切れたように眠ってしまう。ようやっと張り詰めていた神経が落ち着いたらしい。小十郎はだらりとやわらかくなった男を改めて収まりのいい場所へと抱き込み、自分も目を閉じた。






























目を覚ますと小十郎に抱かれていた。
佐助は目を幾度か瞬かせ、それからひっそりと混乱した。目の前には目を閉じて静かに寝息をたてる小十郎の顔が間近にあって、混乱はさらに加速していく。身じろぎをしようにも太い腕がしっかりと自分の体を巻き込んでいて、びくともしない。
みぎめのだんな、と名を呼んでみる。
小十郎はすこし眉をひそめたが、目を覚ましてはくれなかった。
どうしたものだろう。そもそも、なにがあったんだろう。佐助は途方に暮れたが、久々に触れた小十郎の肌の感触はおそろしく心地のいいもので、いっぱいにひろがる彼のにおいも涙が出るほどに懐かしいものだった。佐助は硬い胸に自分のほおを寄せた。まるでそれに呼応するように、小十郎が佐助の頭をやわく抱え込んでくれる。
障子から差し込むひかりはまだ朝のそれではない。

「―――またやっちまったかしら」

佐助はひっそりとつぶやき、嘆息した。
きっとまた夜のうちに小十郎の寝所に潜り込んだのだろう。気が猛り過ぎると、夢遊病のようにしてここに来てしまうことがままあるのだ。佐助は後悔した。小十郎の腕はまったく自分を離してはくれない。
そうやってここを訪れるときだけ、小十郎はひどく佐助にやさしい。
たいていの場合佐助をむげにする男が、どうしてこのときだけ甘くなるかなど佐助は知らないし、知りたいとも思わない。重要なのはここに自分を抱く腕があるということ、それ自体なのだ。佐助は後悔しながら、同時にひどく安堵した。目を閉じ、小十郎の腰に手を回す。すると頭上で、くすりと笑う感触が降ってきた。

「起きてたの」
「今、な」

まだ眠そうな声である。佐助は声を潜めた。

「俺様ったら、またやっちまった?」
「おう」
「なんかごめんなさいね?」
「あァ、まったく、手のかかる野郎だ」

そう言いながら小十郎の腕の力は弱まらない。
もう起きるかと問うとまだ眠いと言うので、佐助もそのまま一緒に眠ることにした。おやすみ、と言うと、おやすみと返ってくる。ぬるい腕に包まれて、目を閉じる。小十郎が佐助の名を呼んだ。佐助はうっとりとそれに耳を澄ませ、自分に腕を貸す男の胸中がなんであれ、その相手が片倉小十郎であったことに深い喜びを感じながら、眠りのなかにゆったりと体を横たえた。
















029:抱 き し め る



こじゅさすの日を記念して。え、なんですか日付越えてるとか聞こえない。
内側の感情を問題にしない行為の重要性というのは、とても佐助と小十郎ぽいと思うのです。

2011/05/14



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