嗚呼これでようやっと解放して差し上げられる。 混濁しつつある意識のなかで、自分は確かにそう思った。息を吐く。すると肺が軋むよう な感触がある。鼓動がいやにゆっくりになっている。元より、病を得てからは体内の器官 はどれもこれもが他人のもののように思うようにならず、一時はそれを絶望のように感じ たこともあったけれども、慣れてしまえば日常でしかない。 むしろそれこそが絶望だろうか。 ゆっくりと浸食する変化と、それに慣れていく緩慢な惰性こそ、一瞬で与えられる絶望よ り余程残酷なのかもしれないと、そう思う。 嗚呼、まだかと思い直す。 思うだけ余裕があるのである。 首を傾ける。開かれた障子の向うには中庭があって、そこには木蓮が植わっている。あと 三月もすれば花も咲くだろうが今は蕾すらない。果たして自分はその花を見ることが適う のかどうかは定かではない。しかし見れなかったとして、ことさらに不満に思うほどには 木蓮という花への愛執もなかった。そのためにこそ、むしろそのためにだけ、そこに木蓮 はあるのである。過ぎゆき、そして訪れるであろう春秋のどれもをあいすることがないよ うに、自分はもっとも関心のない素っ気ない木をそこに植えたのである。 元は桜が植わっていた。 桜は駄目だ。 桜はいろいろなものを含み過ぎている。 冬の終わり頃には蕾をつけ、春になれば爛漫に咲き誇り、夏には青葉を繁らせ、秋には紅 葉し、冬には虚しく散っていく。そこにはさまざまな約束があり、過去があり、未来をも 含みえてしまう。かつてあったものと、あるかもしれなかったものと、今との間にある、 ぎょっとするほど広い溝に落ち込んでしまいそうになるのだ。 桜はいけない。 病を得て五年になる。もし依然としてそこにあるのが桜の木であったなら、一年も経たぬ うちに自分は気が違ってしまったにちがいなかった。世の中に執着があり過ぎるのだ。桜 が散るのさえ、息苦しくて見ていられない。 息を吐く。 それすらもう、自分の体は不自然なのだと叫んでいる。 不思議なもので、思う上ではとっとと終わってしまえばいいんだと信じてやまないのに、 体は延々と長らえることを望んでいるようだった。なかなか、それは訪れない。解放を献 上するのも、もうすこし先のことになるようだった。 とても申し訳ないと思う。 思う上では、それは自分の本心であると信じられる。 冬までにはそれを差し上げたいと思う。遅くとも年が明けるまでにはと思う。かのお方は 泣くだろうかと思う。泣かないといいと思う。 泣かないだろう、もうわらべではないのだ。 しかしたとえ泣いたとしても、それは一瞬の非日常に過ぎない。 それが過ぎたあとは解放が訪れる。あくまでも日常として。自分がかの方に与えることが できる、それは真実最後のものになるだろう。 嗚呼息が苦しい。 咳き込むと体がばらばらになるようだった。 おそらくは事実、そのひとつの行為は自分を確実にそちら側へと引き付けつつある。一呼 吸ごと、一鼓動ごと、自分はすこしずつここにあるものでなくなっているのだ。それは喜 ぶべきことだ。ここに居る限り、自分はかの方にとって、どのような意味においても良き ものにはなりえないのである。 果たしてそういうものに、在る意味などあるだろうか? 否、と思う。 否、ならば消えるべきだ。 どのような意味も生まず、どのような痕も残さず、どのような過去とも接続せぬように、 自分は完璧に消えなくてはならない。 雪の一欠片のように。 消えるのだ。 そこに名付けがあってはならない。 それは現象として、処理されるものであるべきなのだ。 自分はそれに何をも感じることがあってはならない。今ここにあり、ここにあるまでの過 去だけで、もう十分に充足すべきである。そもそも何か思うことすら、過ぎた行為であり、 また許されぬ傲慢である。自分はもっと純粋に、単なる「もの」であるべきだったのだ。 嗚呼、と息を吐く。 どうして「もの」のように生きられなかったのだろう。 今更悔いたところでそれは無意味なことでしかないけれども、思わずにはいられなかった。 「もの」はうつくしい。「もの」にはそこに在る意味しかない。単純な用途としての意味 しか持たない。だからその意味が、用途としての利便性が消滅した途端、「もの」は不要 物として、持ち主になんの感慨も残すことなく消えるのである。 自分はまず間違いなく、そういう「もの」であるべきだったのだ。 しかし実際はどうだろう―――自分はなんという薄汚い獣だ! ひとにすらなれず、「もの」になど程遠い。 それを解りながら、「もの」の振りをしてきたのである。 ならばせめて「もの」として消えるべきだ。完璧に。何の意味も残さず。雪の一欠片のよ うに。一振りの刀のように。生まれ、消える。あくまでも、それだけの現象として。 ずっと、そういうものである振りをしてきた。 ならば最後までそれは貫かれるべきだろう。 「嗚呼、どうかお泣きになどなりませぬよう。これは目出度きことなのです。さァ、お喜 びくだされ。そしてせめて、お褒めくださいませ。俺は、―――」 咳が言葉を阻んだ。 しかしもとより言葉も声として出ているかどうかは定かではない。耳も、目も、とおに使 い物にならなくなっている。 それでもまだここに在る。 嗚呼、なんと薄汚いのだ。 そうまでして生にしがみつく、この滑稽さをなんと呼べばいいのだ。 息苦しい。体は破裂して、もう散り散りになってしまったようだ。引き裂かれるその感触 すらありありと浮かび上がる。それでいて体はまだひとつである。意識はすこしずつ自分 から離れている。その頻度は日に日に増している。きっと近く、離れた意識が永劫に戻ら ぬ日が来るだろう。 その瞬間だ。 その瞬間。 「あなたの手を、放すことができるのです。どうぞ薄汚ェ獣のことなど忘れて、何処へな りともお行きくださいませ。忘れて、思い出さず、御身のうちから消して下さい。そして どうか、他のうつくしい誰かの手を携えてくださいませ」 口に出すと、途端にそれは偽りものめいた。もちろんそれは偽りでしかなく、真実そう思える ようであれば、かの方への献上物はもっと早くにこしらえることができたのである。 しかしもうすぐだ。 笑ってみると、散り散りになった体がますます細かく千切られていくようだった。もうす ぐだ。もうすぐに、その偽りからも遠い場所へ自分は行くことが出来る。他ならぬ自分の 薄汚ささえ、永久に手放す日はもうすぐそこなのだ。 目を閉じる。 意識が遠く、離れていくのが解る。 しかしこの期に及んでなお、これがその瞬間であることを、自分は最後まで願うことはできなかった。
033:放 す
まだ死んでないので死ネタではないという主張。 今年は命日ネタやんないと言ったくせに、結局やってしまいました。 2010/12/05 プラウザバックよりお戻りください。 |