つまるところもうすっかり厭になってしまったのだと、猿飛佐助は思った。
目の前には広い背中が広がっている。いやに真っ直ぐで、やたらに堅そうで、異様なほ ど振り返る気配がない。
だんな、と佐助は呼んでみる。

「だんな、だんな、みぎめのだんな」

返答はない。
解り切っていたことだ。
佐助は布団の上で寝そべりながら、ごろりと寝転んで腹を天井へ向けた。しのびにある まじき無防備な姿であるけれども、任務でもないのにそんなことを逐一気にしても仕様 がない。だいいち、ここは目の前に居る壁のような背中の持ち主の屋敷である。貫かれ るとしたらそれは自分の腹ではなく、この背中だろう。
佐助は息を吐き、目を閉じた。
夏なので生きているだけで汗が滴ってくる。
蝉の鳴声も聞こえるがまだ慎ましい。しかしもうすぐにでも、うっとうしいほどの音の 洪水になる。いっそそうなってしまえばいいのにと思う。沈黙が重くて曝された腹が突 き破られそうだ。佐助の腹は何にも覆われていない。
もっと言えば真っ裸である。
目の前の背中は、先刻単衣を着てしまった。
彼とてその前までは裸だったのである。それがもう、何の名残もない。不思議なことに 夏でも涼しげな顔を崩さない背中からは、倦怠も熱の名残も何ひとつ漂ってはこない。
何もなかったかのようである。
何もなかったのかもしれない。

「―――、」

佐助は起き上がった。
急にすっと熱が醒めてしまった。
しのび装束を着込み、額当てを付ける。背中はまだ背中のまま、文机に向かってなにや ら書き付けている。佐助の前で書くということは、おそらく重要な文ではない。重要な 文でもないもののために、佐助は先刻から延々背中ばかりを見せつけられている。

「そろそろ帰るよ」

すきにしろ、と背中が言う。
佐助は無言で背中を蹴りつけてから座敷を立ち去った。


















何が始まりだったかなど覚えていない。
たぶん、気紛れだ。どちらの気紛れだっただろう。それも覚えていない。どちらかの気紛 れだったのだろう。二つに一つだ。でもどちらにせよそんなに大差があるわけではない。 あちらかの気紛れにせよ、こちらの気紛れにせよ、要するに相手が乗ったからこの奇妙に 無意味な関係は今も継続しているというだけのことだ。
いずれ、気紛れというのは愉しくなくてはいけないと佐助は思う。
世の中には気紛れという範疇に収めることができる行為はひどくすくないものだ。大抵、 そんな自己意志とは無関係に世界は進行していく。佐助のような虫けらにも等しいしの びという生き物であればなおのこと、気紛れで何かしたいことをすることができるなど、 ほんとうに希有なことなのである。
だからきっと最初は、と思う。
愉しかったのだ、きっと。
気紛れで始めたのだから。

今はもう、愉しくない。

最近、会う度に佐助は背中ばかり見ている。
体は重ねるものの、逢うのは大抵夜なので、顔は見えない。ふと我に返るともう目に入る のは広い背中だ。比喩ではなく、佐助の目にはあの背中が壁に見える。此方には来るなと 強烈に主張されている気がする。
そしてきっとそれは事実だ。
つまり壁とまぐわっているのだ、ぞっとしない。
いくら悦があったとしても、そんな気色の悪い趣向を佐助は持ち合わせていない。ならば 面倒がすくないぶん、そして奥州と甲斐という距離がないぶん、商売女のほうがどれだけ いいかしれない。遠路遙々不快になるために佐助は奥州まで行く。そして帰ってくる。帰 り路では案の定不愉快な気分で体が満ちている。
とんでもなく馬鹿馬鹿しい。
いったい最初から、壁だっただろうか。
それも覚えていない。興味がなかったのだろう。それは佐助の責でもある。しかしそのと きに戻って顔を覗き込むわけにもいかない。だからもうどうしようもない。
どうしようもない。
どうしようもなくなったのだ。
柿が腐るようにひとが死ぬように季節が巡るように、駄目になってしまったのだろう。
そういうことはままある話だ。佐助はもとより、どちらかといえば物事に執着をしない質 なので、前日まで熱を上げていた女に対して、夜が明けたら何の感情も抱けなくなること など珍しくもなく、今回のこともつまりそういうことなのだろうと思えば納得も容易い。
壁を見て居るのが愉しかったこともあったのだろう。
でも今は愉しくない。
そういうことである。

そういうことにした。


















奥州を訪れなくなって半年後、佐助は戦場で偶然、壁と再会した。
しかしそのとき壁は壁ではなかった。壁の壁たる所以である無意味に広く真っ直ぐな背中 は、彼の主のそれを守るようにそちらへ向けられていて、佐助のほうは向いていなかった。 それで随分久しぶりに、佐助は壁の正面を見ることが適った。
そこで佐助はそういえば壁は壁ではなくて、片倉小十郎という男だったということに思い あたった。左ほおに傷のある、やたらに物騒な顔をした男である。佐助は戦場を遠巻きに 眺めながら、その実小十郎ばかりを見ていた。
そうすると急にいろいろなことが思い出された。

「嗚呼」

そういえば。
そういえば俺はあのおひとの顔がすきだったんじゃないか、だとか、そういえばあの眉が ひょいと片方だけ持ち上がるところが気に入っていたんだ、だとか、そういえば、そうい えばたまに見せる笑顔は大層おさなかったな、だとか、そういえば。
そういえば、そういえば、そういえば、
そういえば。
そういえば、あれは片倉小十郎だったのだ。
戦が終わって、両軍が引き上げていくのを見届けてから佐助はその場を立ち去った。
そして伊達軍の陣に向かい、日が暮れるのを待ち、小十郎がひとりで兵の配置図を眺めて いるところへ忍び込んだ。息を殺し、気配を消せば、いかに龍の右目といえども佐助の存 在に気付けるわけはない。小十郎はもちろん気付かなかった。床几に腰を下ろしたまま、 じっと配置図を睨み下ろしている。横側がおそろしく鋭い。よく研がれた刀の切っ先のよ うにも見える。佐助は知らず笑みを浮かべた。
配置図は台に乗っていた。
佐助はその台に音もなく降り立った。
小十郎がはっと顔を上げる。切れ長の目が大きく見開かれる様を、佐助は陶然と見下ろし て満面の笑みを浮かべた。正面で顔を見るのはいつぶりだろう。まったく思い出せない。 しかし思い出す必要もないだろう、と思う。
今こうして、目の前にあるのだ。

「お久しぶり、右目の旦那」

へらりと笑いかけると、小十郎が不快げに舌打ちをした。
何をしにきたと言う。あんたに会いにさと佐助は答えた。小十郎の顔がさらに歪む。佐助 はますます増していく満足感に、思わずふるりと背中を震わせた。
死んだんじゃなかったのか、と皮肉げに小十郎が言う。
顔を見なかったから、てっきりおっ死んだんだと思っていたぜ。

「そりゃ、あんたと会ってても愉しくなかったからね、会いに行かなかっただけだよ」

けらけらと笑い声をたてて、佐助は台の上にしゃがみ込んだ。
小十郎の顔を覗き込む。小十郎が顎をかすかに反らした。佐助はにんまりと笑みを浮かべ る。嗚呼、そうだ。この男はこういう顔をしていたのだった。
昔に戻って顔を覗き込めないなら、今こうやって覗き込めばよかったんじゃないか。
佐助は手を伸ばして、小十郎の顎に指を添えた。

「ね、解ってンでしょう?」

顎の線をなぞる。
小十郎が佐助の手を振り払おうと腕をもたげた。佐助はその手首を取ってやって、きゅ、 と捻り上げ、自分の体のほうへと引き寄せる。

「あんたの背中はもう見飽きちまいましたよ」

小十郎の顔が間近い。
なにもかもがよく見える。佐助はうっとりと笑みを濃くした。

嗚呼、なんて愉しいんだ!

小十郎の解りにくい表情が、かすかに変化する。
それは嫌悪のようにも不快のようにも拒絶のようにも見える。それらすべてを混ぜ合わせ たようにも見える。一見では判断できないと思う。そして一見で判断する必要もないのだ と思う。佐助は笑みを浮かべたまま、小十郎の額に自分のそれを合わせた。
会いたかったよと佐助は言った。
それを聞いた小十郎の顔がとんでもなく歪んだので、佐助はきっとこの顔が始まりだった にちがいないと確信した。
















074:飽 き る



自分的に大変さすこじゅさすっぽい話だと思っています。
これの対応でそのうち、91もあげます。


2010/07/24



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