「小松菜?」

猿飛佐助はソファの上であぐらをかきながら、首を傾げた。
部屋の奥の細長いキッチンから、ワイングラスを二つ持って出てきた片倉小十郎が、いつにな く機嫌がよさそうな顔をして、あァ、と頷いて見せる。

「どこにあンの、そんなもの」
「ベランダだ」
「ベランダ?」
「見てみるか」

ワイングラスには赤ワインが入っている。銘柄は知らない。たぶん大したものではない。
佐助は小十郎からそれを受け取り、ちらりと自分の目の前に立っている男の顔を見上げた。切 れ長の目は黒目の部分が多すぎて、そこに浮かんでいる感情がどういうものなのか、たいてい の場合佐助はそれを見逃してしまう。でも今夜に限って言えば、その夜のような解りにくいい ろの目は、あきらかにあることへの期待を孕んでいることがあんまり明白だった。
佐助はワイングラスにすこしだけ口をつけてから、へらりと笑った。

「じゃ、見せてもらおうかな」

そういうと、小十郎の薄い唇がかすかに持ち上がる。
佐助はワイングラスに慌てて口を付けて、わざとらしくないよう彼から目を逸らせた。
小十郎はソファを横切り、カーテンを除けると窓を開けた。窓の向こうは川があり、その先に は住宅街がある。ちらちらと控えめに瞬くひかりをバックにした小十郎が、振り返って佐助を 手招いたので、それに従って立ち上がってやった。
小十郎の隣からベランダに顔を出すと、そこにはいくつかのプランターが並んでいる。

「へえ。こんな狭いベランダでも、野菜の栽培なんて出来るンだね」

狭苦しい土から生えている緑色の菜っ葉の名前を佐助は知らない。
彼が言うからにはきっとこれは小松菜なのだろう。
でもさも感心したように言ってやる。そうするとすぐ上の小十郎の顔が、すこしだけ、ほんと うに解りにくく笑みで崩れた。

「だろう」

低い声にもどことなく嬉しそうないろが滲んでいる。
耳が熱くなる感触に、佐助はすこしうんざりした。

「でも小松菜ってなにに使うの」
「何にでも使えるだろう。味噌汁にでも、煮物にでも、パスタにでも」
「へえ、俺様料理しねえからなあ」

さっぱり、と大げさに肩をすくめながら窓から離れる。
ワイングラスの中身を一気に飲みほす。無造作に冷蔵庫に入れられてきんきんに冷え切って風 味が死んだ哀れな赤ワインの甘みがなんとはなしに切なかった。
ほんとうは畑がどこかで借りれるといいんだが、と後ろで小十郎がつぶやいている。
佐助は思わず笑いながら振り返った。

「そんなもの借りてどうすンの。そんな暇ないでしょうに」

同じ会社に勤めている小十郎は、企画部に所属している。
営業部に所属している佐助ほどではないが、休む暇などほとんどないのは変わらない。小十郎 はうんざりと息を吐いて、乱暴にソファに腰掛けた。ふてくされたような顔でワインを飲んで いる。佐助はけらけらと笑いながらちいさなテーブルを挟んで、彼の向かい側のクッションに 腰を下ろした。殺風景な部屋の中で、腰掛けたクッションだけいやに鮮やかな青をことさらに 主張していた。

「ま、夢見るのはタダですけど」
「うるせェ」
「とりあえず年末越してからだよねえ、話は。もっとも東京のどこにそんな場所があるンだっ て話ですけど」

小十郎はますます不機嫌そうなしかめ面になる。
佐助はにんまりと笑みを浮かべ、テーブルにほおづえを突いた。

「でもいいよな、そういうの。田舎とかでさ、五時あがりの仕事して、土日は休んで畑耕すと か。あこがれちゃうわ」
「おまえがか?」

馬鹿にしたように小十郎が鼻で笑う。
佐助は唇を尖らせ、わざとらしく眉を寄せた。

「俺だってスローライフしてみたいって思いますよ」
「ふうん」
「ほんとだよ、なんなら」

佐助はすこし言葉の間を置いた。
それから飛び切りの冗談めいた笑顔を浮かべ、また口を開く。

「なんなら、あんたが畑を借りたら、一緒に耕してやってもいいんだぜ?」
「そいつは有り難ェな」

小十郎はまた馬鹿にしたように鼻で笑う。
この一言を言うのに、どれだけ佐助の心臓が酷使されたかなんてもちろん知らないのだ。いい 気なものだ。佐助は内心でそう思ったけれども、当然口には出さなかったし、出せなかった。 小十郎は佐助の言葉を本気にはしていないようだったけれども、悪い気もしていないようだっ た。ワインを飲むペースはいつもより早く、寡黙なはずの口もよく回った。
機嫌がいい。
小松菜の話題一つで、なんて簡単なんだろう。
佐助はワインでくらくらと揺れ始めた頭でそう考えた。そんなに簡単にこの男の機嫌をよくし ているのが自分なんだと思うと頭の揺れは一層にひどくなった。
ワインを飲んでもまったくいろを変えない仏頂面で、野菜が芽吹いたときの愛らしさについて 熱弁を振るう同僚を、なんて馬鹿なんだろうと思いながら、でもそういう同僚の姿をあんたの ほうがよっぽどかわいいと考えている自分はその百倍馬鹿だと佐助は心底から軽蔑した。
機嫌のいい強面の同僚は、帰りがけに小松菜の苗をくれた。
土と一緒に、牛乳パックを半分に切った簡易のプランターに詰めてある。道ばたに生えている 雑草とまったく見分けのつかない緑色の菜っ葉を見て、正直なところ、佐助はこう思った。
うわあ、ちょういらねえ。
でも佐助はへらりと笑って、それを受け取った。

「ありがと。収穫したら、あんたが料理してくれる?」

小十郎はやっぱり上機嫌で頷いた。

「あァ、枯らすなよ」

すこしだけ笑う。
メダカの笑顔だってきっともっと解りやすいはずだと佐助は思った。でもその、メダカよりも 解りにくいそれで十分に佐助は有頂天になれたし、だいいちこれをきちんと育てれば彼が自分 の家に料理を作りにきてくれる―――かもしれない――−と思えば、多少室内のインテリアが 崩されることや、名前の知らない菜っ葉を育てなければならない面倒くささなんてまったく取 るにたらないことだ。
十月の深夜、外は思ったよりも寒い。
佐助はそのぼんやりとした寒さの中を、スキップでもしたいような気分で帰路についた。恋は ホッカイロよりもときどき役に立つみたいだった。佐助にはビニール袋のなかでかさかさ音を たてている菜っ葉がいやに尊いものに思えた。パーカーのフードに顔を埋める。
ああまったくなんてばかばかしい。

「―――かわいいなあ」

頭に虫が巣くっているからそんなことを思うんだ、と思う。
でもしかたがない。佐助は小十郎に、恋をしているのだ。
男同士で、同僚で、そしてたぶん小十郎は佐助のことを完全に「いい友達」だと思っている。 ふたりはときどき居酒屋で飲んだり、夕食を一緒にとったり、お互いの家に行き来をしたりす る。そしてその関係はそこで心地よく帰結しているので、完璧に凝り固まってしまって動く気 配すらない。セメントみたいなものだ。最初は液体なのに、気がつくと驚くほどもう固まって しまって、そこから液体に戻ることはない。「いい友達」というのはある意味でどんな関係よ りも、恋愛においては絶望的だ。敵国同士だとか、死ぬか殺すかの関係だとか、そっちのほう がよっぽどましだろうと思う。すくなくとも関係が流動的で、悪くなる可能性もあるけれども よくなる可能性だってないわけじゃない。
佐助は牛乳パックプランターの入ったビニール袋を揺らした。

「ね、君なんとかしてくれない?」

もちろん菜っ葉は答えてはくれない。
佐助はほうと息を吐いて、星のすくない夜空を仰いだ。


















翌朝、佐助は目を覚ましてから、すぐさま目をこすり、そうして再び枕に頭を押しつけた。
ああなんだ、まだ夢が続いている。俺は寝てるのか。
そう思った。

「おはようございます、父上」

耳元で、あいらしい少女の声がする。
うん、なるほど、昨夜寝る前に偶然目に入ったアニメの夢でも見ているんだろうか。少女の 声はおさないが、少女というにはどこなく大人びていた。賢そうな声だなと目を瞑りながら 佐助は思った。アニメには詳しくないけれども、有名な声優なんだろうか。

「おい、いつまで寝てんだ、おきろっ!」

乱暴な声が続く。
うるさい。佐助は眉をひそめた。

「休みだからってこんな時間まで寝てんじゃねえよ、起きろ、ばか」
「弁天丸、あまり大きな声を出してはいけない。父上はまだ寝てる」
「もう十時だぜ。寝かせてていいのかよ」
「お休みの日には寝坊することも大事」
「でもさ」

声はとてもはっきりしている。
佐助はぱちりと目を開いた。夢にしては声がクリア過ぎると思ったのだ。唸りながら身を起 こし、あたりを見回す。テレビ画面は暗かった。
あれ、とつぶやく。
あれじゃねえよという返事が返ってきた。

「父上、こっち」

佐助は視線をテレビ画面からぐるりと巡らせ、窓縁に焦点を合わせた。
昨夜小十郎からもらった牛乳パック入り菜っ葉を置いておいた場所に、人形が置いてある。 佐助はまた目をこすった。人形。そんなかわいらしいものを自分は持っていただろうか。夢 の続きかな、とまたつぶやいてみる。まだ寝ぼけてんのかおまえ、という声がまた返ってき た。こっちの声はぜんぜんかわいくない。
瞬きをする。
窓辺の人形の輪郭がはっきりと見えた。

「―――アリエッティ?」

佐助は思わず、最近見たばかりのジブリ映画のヒロインの名前をつぶやいた。

「やっぱり馬鹿だ、こいつ」

小人は二人居た。
二人のうちのかわいくないほうが呆れたように吐き捨てる。そういう言葉遣いはよくないと かわいいほうが窘めた。かわいいほうもかわいくないほうも、両方ともなんだか見慣れたい ろをしている。どこで見たのかな、と首を傾げると、はらりと前髪が目の上に落ちてきて、 ああこのいろじゃないかと佐助は思った。
小人も佐助と同じく、髪が赤い。
かわいいほうの小人が、お辞儀をした。

「初めまして、父上。幸と申します」

赤毛をくくっている淡いピンクのリボンがひょこんと揺れた。
佐助はこの期に及んでまだ寝ぼけていたので、そのあいらしいいろと動きにほんのりとやわ い笑みすら浮かべた。かわいい。朝からかわいいものが見れるのは悪いことではない。おは よう、と佐助は呆けた声で挨拶をした。すると人形みたいだった顔が、こちらに倣うように ふわりと、微かに、解りにくくやわらぐ。
ますますかわいい、と思いながら、佐助はふと思った。
あれ、この子誰かに似てる。
誰だっけ?

「父上」

ていうか父上って誰?
佐助はまた瞬きをした。瞬きをすることで、頭のなかに詰まっている眠りがすこしずつ外へ と排出されていく。父上。またかわいいピンクのリボンがしゃべっている。父上、これから よろしくと言う。何がよろしくなんだろう。佐助は首を傾げた。
こいつ駄目だぜ、まるで寝ぼけてやがる。
かわいくないほうのアリエッティが唸った。

「つうか、母上はどこだよ」
「母上?」
ますます解らない。
かわいくないほうの小人がぴょんと窓辺から飛び降りて、タンスを伝ってベッドサイドまで 駆けてくる。佐助はまだ寝ぼけていた。
なので、意外とこっちもかわいいなと思った。
小人はベッドサイドから飛び降り、ぼんやりと座り込んでいる佐助の膝元まで近寄ると、ぴょ んと子ネズミみたいに跳ねて、髪の毛に飛びついてきた。ぐっと体重がかかり、何本かの髪の 毛が頭皮から抜け落ちるいやな感触がした。
鋭い痛みに佐助は悲鳴をあげて、完全に覚醒した。
またぴょんとシーツの上に飛び降りた小人が得意げにふんと鼻を鳴らす。

「起きたか、寝坊助め!」

そして佐助はようやく、事態の異常性を悟った。

















小十郎は朝食を済ませ、コーヒーを飲みながら朝刊を読んでいた。
昨夜佐助と深夜まで飲んだので、すこし頭にまだ酔いの名残が残っている。ぼんやりとした 気怠さを振り払うように熱いコーヒーを喉に流し込み、小十郎は昨夜のことを思い出してすこ しだけ眉の間のしわをゆるめた。
果たしてあいつはきちんと育てるだろうか。
案外律儀な男だから枯らすことはないだろう。冗談だろうけれども、慣れたようならほんとうに いつか畑を持ったら手伝わせてもいいかもしれない。器用だし、あんなに細い体に似合わず、存外 力も強いのだ、猿飛佐助という男は。
ぼんやりとそんなことを考えていたら、テーブルの上の携帯が震えだした。
表示画面を見ると、佐助の名前が点灯している。

「おう、どうした」
『あ、か、たくらさん?』

電話に出ると、なんだか上ずった声の佐助が返事を返してきた。
小十郎は眉をひそめる。

「なんだ、朝っぱらから。素っ頓狂な声出しやがって」
『や、いや、大変なんだって、朝とかそういう問題じゃねえンだって』

佐助はやたらに動揺していた。
そして背後から他の人間の声が聞こえる。朝から佐助のアパートに彼以外の誰かが居るようだ。 昨夜も深夜過ぎまで飲んでいたのに、二つ年が違うだけなのに若いなと小十郎は感心するように 思った。佐助は電波を通した向こう側でまだ騒いでいる。
そしてその騒いでいる内容が完璧に小十郎の理解の範疇から吹っ飛んでいた。

『昨夜あんたから貰った小松菜からアリエッティが二人生えてきて、それが俺様のこと「父上」 、あんたのこと「母上」って言って、「ふつつか者ですがこれからよろしくお願いします」って 三つ指ついてお願いしてきてるンだけど、俺どうしたらいい?』


小十郎は終わりまで一応聞いてやってから、おもむろに携帯の通話を断ち切った。
ぽいと携帯をテーブルに投げ出し、一旦閉じた新聞紙を再び開く。一面には惨たらしい育児放棄 による陰惨な事件が大きく取り上げられていた。小十郎は痛ましげに顔を歪めた。親になる資格 のない人間が、生半可な覚悟でこどもを持つからこういう事件が起こるのだ。ほんとうにやりき れない。いい年をして、なぜ自分のセックスの後始末くらい自分で責任を持てないんだろうか。
再び携帯が震え出す。
小十郎はすこし間を置いてから、ぱちりとそれを開いた。

「もしもし」
『ちょっと、今なんで切ったの?』
「寝ぼけているようだったから。もう一度寝たほうがいいんじゃねェか?」
『―――そうだね、信じられないのは解りますよ。俺だって正直、まだ信じられない』
「猿飛」
『なに』
「寝ろ」

また通話を切ろうとすると、慌てたように佐助が叫んだ。
『ちょっと待って、もうちょっとだけ俺様の話を聞いて』

小十郎は舌打ちをした。
携帯の向こう側で、ああ今舌打ちしたでしょうひどくないそれ、と佐助が喚いた。
切っちまおう。小十郎が再びそう思い、またそれを実行に移そうとした瞬間に、こんこん、と 窓を叩く音がした。小十郎は首を傾げた。小十郎が住んでいるのはマンションの十五階だ。 窓から何か入ってくるわけがない。
喚く携帯を左手にぶらさげて小十郎はカーテンを開いた。
小十郎はカーテンを開いた格好のまま、ぴたりと固まり、そして携帯を耳に当て、口を開いた。

「猿飛」
『え、なに』
「悪かった」
『はあ』

窓がこんこんと鳴っている。
鳴らしているのはカラスのくちばしだった。割れないように絶妙に加減された叩き方は、そこらの 鳥とはあきらかにちがう。けれどもそんなことはどうでもいいことで、小十郎の視線はカラスのむ しろ上部に集中して注がれていた。
カラスの羽根の上、背中にまたがるようにしてそれは座っていた。
そして小十郎と目が合うと、へらりと満面の笑みを浮かべて言ったのだ。

「ははうえ!」

小十郎はカーテンをさあっと閉じた。
それから携帯に向かって、おまえの話を俺も信じるしかねェようだ、と唸った。















086: 受 け 入 れ る



まだ既成事実が出来てないのにおこさんがやってきてしまった現代小松菜in牛乳パック。
ついったで黒葉さんちの小松菜が牛乳パックで栽培されてると聞いてやってしまいました。ネタごちです。
このあとは佐助の片思いを三人のアリエッティが頑張って成就させるんだと思います。



2010/10/10



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