猿飛佐助は、いつも仕事の帰り際にかげつなに電話をかけることにしている。
駅前のスーパーで何か買うべきものがあるかどうかの確認のためだ。もっとも、とても優秀な主夫で ある雀は、大抵の場合佐助の質問に「なにも」としか答えない。
そうして通話は途切れる。
ツーツー。
でも佐助はやっぱり電話をかける。
それは二年以上一緒に生活しているふたりにとっては、「平穏」を意味づけるために必要なある種の 儀式のようなものなのだ。すくなくとも佐助はそう思っている。何の愛想もなく途切れる通話と、次 いで耳に流れ込んでくる電子音は、佐助に「帰宅」を実感させるためのファクターとして機能する。 だから佐助はその日も、最寄り駅に着くとすぐに携帯電話を取りだし、自宅に電話をかけた。
いつもよりすこしだけ、長い間がある。
でもそれをおかしいと思う前に、かげつなが電話口に出た。

「もしもし、かげつなさん?今駅なんだけど、何か買うものある?」

佐助はいつもの質問をいつものように携帯電話に向けて喋った。
けれども、電波を通した向う側に居るかげつなは、いつものように「なにも」とは答えなかった。低 いくせによく通る声の代りに返ってきたのは、しんと重たい沈黙だった。佐助はふと眉をひそめ、プ ラットホームの階段を上ったところで足を止め、人の波の邪魔にならない場所へと移動し、「もしも し、かげつなさん?」と再び電波の先にいるはずの雀を呼んだ。
返事はない。
佐助はすこし不安になった。

「かげつなさん?」

不安には実体がない。
なぜならば、電話に出ている以上向う側に誰かが居ることは確実だからだ。そしてそれはかげつなで しかありえない。もしかげつなではないとしたら、それは泥棒か、あるいは浮気相手かということに なるんだろうけれども―――泥棒ならかげつなが撃退するだろうし、だいいちどちらにしても電話に なんて出ないだろう。
だから心配にはならない。
でもなんとなく、いつもの儀式が遂行されないことは佐助を薄っぺらい不安で覆った。

「どうしたの?風邪でもひいたの。喉痛い?」
『―――あァ、』

やっと返ってきた声は、確かにすこし擦れていた。
佐助はとりあえずの安堵に胸を撫で下ろしながら、けれども眉をひそめ、首を傾げる。

「何か薬買っていこうか?ああ、と―――風邪薬って、うちにあったっけ」
『いや、』
「あ、風邪薬ある?じゃあ、ゼリーとか果物とか買ってくわ」
『そうじゃねェ』

風邪じゃねェ、と言う。

『なんでもねェ。何も買ってこなくていい』
「でも声擦れてるぜ?」
『寝ていた』
「はあ」
『で、寝惚けた』

だから気にしなくていい。
その一言を最後に、通話は切れた。
ツーツー。
佐助は電子音を聞きながら、また中身のない不安に襲われた。
いつもの習慣のなかに、いつもと違う行程が含まれるというのは、やはりどこかいつもと違う何かが あるということだ。その「何か」がなんなのか、佐助にはまったく解らない。解らないだけ、不安も 増えた。けれども相変わらず中身はないので、それは佐助の腹のなかでふわふわと不安定に揺れるば かりだった。佐助はその風船のような掴み所のない不安をとりあえず押さえるために、駅前のドラッ グストアで咳止めの飲み薬と、のど飴を買うことにした。
秋から冬へと移り変わる季節のなかで、空は大分短気になっている。
橙の夕方はすぐに行ってしまう。電車から見たときはまだ薄い紫だった空は、佐助がドラッグストア を出たときにはすでに黒で覆い尽くされていた。
駅からかげつなの待つマンションまでは、歩いて十分ほどかかる。
佐助はドラッグストアのビニール袋でかしゃかしゃと音をたてながら、マンションへと続く道を空を 眺めながら歩いた。駅の南口には繁華街が広がっているが、北口を出るとすぐに住宅街へ繋がってい る。佐助は北口を出て、その先の橋を目指して歩いている。
橋を渡るとその先にマンションがある。
佐助は横を通り抜けていく車を見るともなしに見ながら、歩道を進んだ。ちょうど橋の中頃に、柵に 肘を突いて川を眺めている人影が見えた。そこそこ寒いこの季節に物好きなヤツも居るものだと思っ て見てみると、それはどうも家に居るはずの自分の恋人のようだった。
佐助は驚いて、ビニール袋を落としそうになった。

「かげつなさん?」

名前を呼ぶと、寒そうに首を竦めてかげつなが振り返る。

「おう」
「どうしたの、こんなところで。寒かったでしょ」
「べつに」

駆け寄って見ると、 かげつなは厚い皮のコートを着ていた。確かにそれは過剰なほどの防寒だったけ れども、それでも雀は寒そうに見えた。佐助は自分の首に巻いてあるマフラーを外し、かげつなの首 にかけてやる。かげつなは黙ってぐるぐるとマフラーを巻かれている。
佐助はマフラーの端っこを手で掴み、恐る恐るかげつなを見上げた。

「どうしたの、かげつなさん。電話のときから、あんたちょっとおかしいよ」

かげつなはやっぱり、黙り込んだまま佐助を凝視している。
ふたりの横を車が通り抜けていく。ライトが行ったり来たりする。その度にかげつなの顔が明るく照 らされたり、夜のなかにすっと溶けていったりする。佐助はゆらゆら揺れる雀を眺めながら、いつに なく神妙な様子の恋人に、不安げに顔を歪めるしかなかった。

「さっきな」

十台目の車が横切るのと同時に、かげつなが口を開いた。

「ソファでうたた寝をしちまったら、夢を見た」
「夢?」
「あァ」
「どんな夢?」

しかしそれは今ここで話すようなことなんだろうか。
佐助はかげつなに問いかけながらもそう思った。季節は冬で、当然寒いし、だいいち夜だ。夢の話な んて、そんなぼんやりとした話は、食事のときにでもゆっくりすればいいんじゃないか。佐助はそう 思った。それでも聞いたのは、どうでもいい夢のために外へ出てくるほど、この寒がりの雀は物好き ではないということを佐助はよく知っていたからだ。
かげつなは首を傾げて、うん、とすこし間を置いた。

「おまえが家から出て行く夢を見た」

そしてそう言った。
佐助はぱちぱちと目を瞬かせ、かげつなとおんなじ方向へ首を傾げた。

「あんたじゃなくて?」
「おまえだ」
「なんで俺が―――つうか、あそこ俺様の家なんですけど」
「知るか」

かげつなはひょいと首を竦めた。

「兎も角、出て行っちまったんだ。荷物は後で取りに来るから、取り敢えずさようならと言って出て 行った。ドアを閉めるからすぐに開けたんだが、不思議なことにもうおまえは居なくなっていた」

まァ夢だからそんなものだろう。
かげつなは淡々と言う。

「で、まァしょうがねェから部屋に戻ってソファに座ったところで目が覚めたんだが、そうしたら夢 だったんだか、ほんとうだったんだか、判断がつかなくなってな」

だから電話に出たときも、ぼんやりしていたんだと雀は言った。
ああそうだったのか、と佐助は思った。思ったけれども、よく解らなかった。かげつなは相変わらず 佐助をじっと凝視している。寒いからか、耳が赤くなっているのが見えた。
雀は傾げていた首を元の位置に戻し、今度は反対方向へ傾ける。

「電話の声はおまえだったが、目の前に居ねェものはどうも信用ならねェだろう?」

そういうわけで、確かめに来た。
と、かげつなは、やはり淡々と、買い物のリストを読み上げるような声で言う。佐助はまた目を瞬か せた。かげつなのてのひらがほおにひやりと触れる。指先が特につめたい。親指が佐助の形を確かめ るように、慎重に、丁寧に、鼻先から目の下にかけてのラインを辿っていく。
雀に似つかわしくない動きに、佐助は戸惑ってかちりと固まってしまった。
ふうん、とかげつなは鼻を鳴らし、佐助の耳から顎にかけての輪郭をてのひらで覆った。

「本物だな」

今度は右手が佐助の髪をくしゃりと掻き上げる。
ほう、と息を吐く。佐助は自分の耳がかあ、と熱を持つのを感じた。

「猿飛」
「え、あ―――な、なに?」
「帰るんだろう」
「か、帰るけど」
「そうか」

ならいい。
雀は頷き、くるりと踵を返した。
すたすたと迷いのない足取りで前を歩いていくかげつなの背中を、佐助はしばらくぼうと突っ立った まま眺めていた。そのうちにかげつなが振り返り、立ち止まった。そして立ち止まったまま、突っ立 っている佐助を眺め出す。佐助はふと我に返り、慌てて小走りでかげつなの場所まで駆け寄った。
拳一つ分高い場所にあるかげつなの顔を、佐助は目だけで見上げる。
かげつなは何も言わないで佐助を見下ろしている―――雀にあるまじきこの静けさ!

「かげつなさん」

佐助はようやく、「平穏」な「帰宅」のために今ここで自分がなすべきことを了解した。
辺りを見回し、人影がないのを確認すると、雀の首に引っかかったマフラーの端を引っぱって素早く 唇を重ねる。雀がぱちぱちと瞬きをする。佐助はへらりと笑いかけて、かげつなの左手を自分の右手 で握ってやった。ひやりとつめたい手をぎゅっと握り締める。

「起きた?」

首を傾げて問いかけると、雀はこくりと頷いた。

「今起きた」

と、言うので、佐助はけらけらと笑った。
そのままかげつなの手を引いて橋を渡りながら、佐助は振り返らず、前を向いたままで口を開く。

「俺もね、前にあんたが居なくなっちゃう夢を見たことがあるンだけど」
「ふうん」
「凄い淋しくて、死んじまうかと思った」
「そりゃ大変だな」
「つくづく俺様って、あんたが居なきゃ駄目なんだなあって思いましたよ。癪だけど」
「そうか」
「かげつなさん」

佐助はくるりと振り返った。

「あんたはどうだった?」

首を傾げて見せると、かげつなはすこし考えるように俯いてから、ふいと顔を上げた。そしてため らいもせずに、

「大体、同じことを思った」

と言った。
佐助はやっと訪れた幸福な「平穏」にとろりとだらしのない笑みを浮かべた。
















095:夢 見 る



雀、さみしがるの巻。



2010/11/05



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