昔馴染んだ男が病で倒れたという話を、猿飛佐助はひどく無感情に聞いた。

「国中から薬師を呼んでいるようだが、芳しくないという話でござる」

主はそうつぶやき、息を吐く。
屋敷の外では蝉が鳴いている。雨が降ったばかりなのでにおい立つような草の香りがする。 夏だ、と佐助は庭を見ないままに思った。主は首を傾げ、物憂げに眉根を寄せている。ど うかしましたかと問えば、うん、とあいまいに唸る。
主の声も昔とはちがう。
随分ときが流れたのだ。

「さぞや、政宗殿は落胆しておられるだろうと思うてな」
「でしょうね。あそこの主従は、まあ、粘着質だから」
「佐助」
「失敬」

佐助は笑いながら立ち上がる。
ぬるまったい空気が首筋に粘り付き、残る。

「見舞いは?」
「もう行かせた」
「ふうん、そう」
「佐助」
「なんです」
「暇を遣ろうか」

佐助は目を瞬かせた。

「何故」
「行きたいのではないか」
「何処へ?」
「片倉殿の元へ」

仲が良かっただろう、そなたらは―――と。
主は言う。
佐助は腹を抱えて笑った。

「止しておくれよ。埃被った昔話ですぜ、そいつは!」
























いらないと言ったのに主が押し付けてきた暇をつかって、佐助は奥州へ向かった。
仲が良かった、などという主に笑みが漏れた。そんないいものじゃない。まったくそんな いいものではなかった。碌でもない、どう仕様もない、そんな関係でしかなかったのだ。 もちろん主はそんなことは知らないし、知る必要もない。
佐助は病の縁で佇んでいるであろう昔馴染みを思う。
彼の名は片倉小十郎といった。
彼らが馴染みであった頃、小十郎は彼の主である伊達政宗を気が狂うほどにあいしていて、 佐助は主である真田幸村を矢張り呼吸が困難なほどにすきだった。
つまるところ吐き出しようのない感情を吐き出すための穴を互いに欲していたのであり、 穴が誰だろうがそんなことはどうでもいい問題でしかなかった。
すくなくとも、と佐助は思う。
小十郎は、そうだった。

「政宗様がいつか、俺を必要としなくなる日が来るのが恐ろしい」

小十郎は佐助を抱きながら、よくそう言った。
反対に佐助に抱かれることもあった。そういうときは小十郎は何も言わなかったので、佐 助は出来るだけ彼を抱くようにしていた。小十郎は主をあいしていた。見ていて滑稽なほ どにあいしていた。佐助はよく彼の滑稽を笑った。小十郎は笑われても平気な顔をしてい た。佐助はそのうち、彼の主への感情の重みが息苦しく感じられるようになった。小十郎 は佐助をまるで底のない地割れかなにかだと思っているのか、際限なく主への愛を語った。 それはひどく直向きで、手前勝手で、臆病な恋慕だった。
佐助が小十郎と馴染んだのは五年ほどだったろう。
そのあいだ、彼の感情は如何程にも変化しなかった。
佐助の主への感情は変わった。息苦しい慕情は、すこしずつやわらいだ。重みは変わらな いままに形が変わり、凝り固まって折に触れては佐助を刺した角は軟化した。主が笑うの を見てしあわせだと単純に思えるようになった。主が変化していくのを綺羅綺羅しいもの としてただ愛でることができるようになった。
小十郎はちがった。
相も変わらずに湧水のように彼の恋慕は溢れ続けた。
佐助はなにかそれを、奇怪なものだと思わざるを得なかった。恐ろしいと思った。嫌悪感 もあった。哀れだとも思ったし、怒りのようなものも感じた。
おんなじものだと思ったから、佐助は小十郎と寝たのである。
しかしそうではなかったのだ。
彼は自分とはちがうものだったのだ。

「あんたのそれは、もう、病だ」

彼から逃げる直前、そう言ってやると小十郎は愉快げに笑っていた。
だから佐助は、今回の小十郎の病の由も知っている。

主への深すぎる恋慕が、とうとう彼の体も蝕んだのだ。
























小十郎は白石の居城の、自分の寝所に居た。
布団から身を起こし、中庭のほうを見ている。佐助が音もなく中庭に降り立っても、彼 の目は動揺を映しこみはしなかった。

「よう、久しいな」

そう言っただけだった。
その挨拶は佐助を過去へとぐいと強引に引きずり込むほど、昔そのままだった。
しかし小十郎は随分と衰えていた。かつては佐助より一回り大きかった体は薄くなり、 黒々と艶やかだった髪にはしろいものが混じっている。未だしのびとして各地を飛び回 る佐助のほうが、今では彼より腕も胸も厚いかもしれない。
小十郎ほそれほど、衰えていた。
細い顎の線が痛々しく、惨めだ。

「随分老い耄れちまったね、龍の右目が」
「おまえは化け物のように昔と変わらねェな」

小十郎は皮肉げに笑い、咳き込む。
何をしに来た。咳き込みながら小十郎は言う。小十郎の背中に手を伸ばしかけていた佐 助はぴたりと体の動きを止めた。腕を引いて目を細める。引いた腕を腰に伸ばす。
するりと苦無を引き抜き、小十郎の右目の下にひたりと押し当てた。
小十郎の視線が持ち上がる。
佐助は喉の奥で笑いをかみ殺した。

「潰してあげにきたのさ、あんたの右目を」

どうせ戦にはもう出られないんだろう。
どうせ独眼竜には二度と会うつもりはないんだろう。

「そうしたらもう、誰もあんたの望みを阻みはしませんよ」

小十郎はずっと、主の右目を潰したことを気に病んでいた。
佐助からするとそれは気に病むというよりは、その事実の罪を背負うことによって、一 層主との間柄を深めようとしているようにしか見えなかった。だから小十郎がその話題 を口にする度に、佐助は腹の底からそれを腹立たしいと思った。
だったら自分の目でも潰してしまえばいいんだとずっと思っていた。しかしそれは出来 ないと言う。主がかなしむから出来ないと言う。糞くらえだと佐助は吐き気を催しなが ら思ったものだ。
ずっと潰してしまいたいと思っていた。
あれが無くなれば、彼の主への執着もすこしは薄れるのではないかと思っていた。
小十郎ははじめ、佐助の言葉の意味が解らないような顔をしていた。しかしそのうちに 感づいたのか、ふと一瞬だけ目を丸め、それからまた軽く咳き込んだあとに静かにゆる ゆると、瞼を閉じて見せた。
そうして口角を片方、持ち上げる。

「そうか」

悪いな。
手早く、頼むぜ。
小十郎はそう言った。そうしてくつくつと喉を鳴らした。おかしなものだなと言う。何 十年も会わずにいたというのに、おまえは俺の望みをよく知っている。
佐助は苦無を握りなおした。
ぞっと背筋がつめたくなる。

「―――だが、」

小十郎が目を開いた。
夜の淵のような、深い黒がぽかりと広がる。

「何故かな。俺も、望みを叶えてくれるのはおまえだと思っていた」

満ち足りた顔で笑う。
佐助は歪んだ笑みを返した。

嗚呼矢っ張り変わっていない。

苦無をやわらかな眼球へと差し込み、佐助は目を閉じた。















096:叶 え る



なにやら病んだ感じになりましたが基本うちの片倉さんはこんなんです。



2010/07/29



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