01 相合傘 恒例の夜のゲーム大会で、やはり恒例的に沢村栄純は完膚無きまでに敗北した。 折しも五号室には二三年含め八人が集まっていて、その敗北の重さは普段とは比較にならないほど 大きいことは言うまでもない。倉持の甲高い笑い声をバックミュージックに床に腕を突き、沢村は 海よりも深くうなだれる。 「―――あの時御幸が俺の邪魔さえしなければヒゲ先輩には勝てたのに」 「なあに言ってんだよ。ありゃあチームプレイっていうの。あ、馬鹿には思いもよらねえか?」 はっはっは。 癇に障る独特な笑い方がどこからか聞こえる。それが御幸一也のものであることは即座に解ったけ れども、もはや彼がどこに居るのかを探す気にもなれなかった。異常に人口密度が高い部屋の真ん 中でよろよろと立ち上がった沢村は、まだ笑い続けている倉持の腰に必死で縋り付いた。 「うああ、お願いしやす先輩っ。この人数のジュース買ったら俺の今月の財布がっ」 「げっ、何すんだてめェッ、暑いだろうが離れろっ」 「倉持せんぱーいっ」 「はっはっは。熱いねえおふたりさん。妬けるじゃんか」 「御幸は黙ってろっ」 しばらく騒いでいたけれども、沢村の懇願はもちろん聞き入れられることはなかった。意地の悪い 笑みを浮かべた倉持から長々とした買い物リストを手渡され、沢村はぎょっと目を剥く。 「ひとりじゃ絶対ェに無理じゃないッスかっ」 「ヒャハハッ、やる前から諦めンのかよ沢村ァ」 「らしくねえなあ。未来の青道のエースの言葉とは思えないぞ?」 二年生ふたりの意地の悪い言葉に沢村は腹を空かせた犬のように唸った。 もちろん一年生に選択肢など残されているわけがない。沢村は一頻り文句を怒鳴り散らしてから、 結局倉持に叩き出されて夜道をひとりコンビニまで歩くことを余儀なくされた。 梅雨が明けるか明けないかという、半端な季節の夜空はやはり半端に曇っている。 月はない。星もない。もっとも晴れ渡っていたとしても東京の空はたいして明るくはない。沢村の 故郷である長野に比べてしまえば、太陽と蛍光灯くらいにちがう。月はぼやけていて星はまばらだ。 それでも見えないよりは見えたほうがいいに決まっている。薄暗く雲のかかった重い夜空を見上げ、 沢村はますます陰鬱になる気分をそのまま口から吐き出した。 雨でも降ってきそうな空だ。 「雨降ってきそうだな」 不意に後ろから声がかかった。 振り返るとすぐ後ろで、さっきまでひとを笑い物にしていたチームの正捕手がポケットに手を突っ 込んで空を見上げていた。 「御幸先輩」 「おう」 「何してんスか」 「空を見てる」 「はあ」 意味が解らない。 胡乱な顔をすると御幸が顔を元の位置に戻してにんまりと笑った。 「見て解んねえか。あ、そっか、おまえ馬鹿だもんな」 はっはっは。 例の笑い声が夜に消えていく。 沢村は下唇を突き出して仏頂面でひとつ上の先輩を睨み付ける。蹴りつけようとしたらさっと避け られた。更に殴ろうと腕を振りかぶって突進すると、ぱん、といい音をたてて御幸のてのひらに沢 村の拳は吸い込まれた。 きゅ、と手首を掴まれる。 「おまえさあ」 「なんだよ」 「もうちょっと大事にしろよな」 呆れたように御幸は沢村の左手をひょいと引っ繰り返した。 投手にとっちゃあ、腕は命なんだぜ。御幸は放り投げるように沢村の腕を解放し、拳ふたつ分ほど 低い場所にある頭をぽん、とやや強めに叩いた。 「つうかおまえゲーム弱すぎ。もうちょい頑張れよなあ。嵌めるにしても張り合いねえったら」 「な、―――、そんなこと言うならもうちょっと援護してくれたっていいじゃねえかよ。捕手は投 手の女房役じゃねえのかっ」 「そりゃマウンドではな。そこ以外でまでおまえみてえなオコサマの面倒看てられっかよ」 「―――あんたほんとに嫌な奴だよな」 「おいおい、沢村」 「なんだよ」 「そんなこと言っていいのかな?」 「はあ?」 「だからさ、なんで俺がここに居るかって話」 御幸の言葉に沢村は首を傾げた。 「空見に来たんじゃねえの?」 「おまえほんとうに馬鹿だよな」 「馬鹿馬鹿言うなっ」 「はっはっは。そりゃしょうがねえだろ。だって馬鹿じゃん」 手伝ってやろうってんだろうが、と御幸は笑いながら何度も沢村の頭を叩いた。 頭を押さえ、御幸の手を振り払いながら沢村は目を瞬かせた。手伝う、とつぶやく。そう手伝う、 と御幸は笑った。手伝ってやろうってェんじゃん、荷物持ちを。 沢村は知らず足を止めた。 不思議そうに御幸が振り返る。 「どうかしたか」 「え、なんで?」 「おまえの左手はおまえだけのものじゃねえからな。さすがにその量は片手じゃ無理だろ」 ペットボトル五本なんて持たせられっかよ、と御幸は首を竦めた。 そしてまた歩き出してしまう。しばらく沢村はぼうとその背中を眺めていたが、御幸が横断歩道に さしかかりそうだったので、慌てて後を追って駆け出した。 コンビニでリストの買い物を済ませてから沢村はきょろきょろと店内を見回した。 御幸が居ない。荷物を持たせられるかなどと格好付けたことを言っていたくせに居ない。ほおを膨 らませながら見渡すと、御幸は雑誌のコーナーでアイドルが表紙になっている漫画雑誌をにやつい た顔で立ち読みしていた。沢村は眉を寄せて、後ろからスニーカーを蹴りつける。 「御幸先輩顔きもいッス」 「なんだと、おまえには長澤ちゃんの魅力が解んねえのかって、ああ、終わったのか」 「とっくだっての。あんた後ろに居ねえんだもん」 「いやいや、ついな。視界に長澤ちゃんが映ったらふらふらと体が勝手に―――お、」 御幸の視線が雑誌から窓へと移った。 沢村もそれを無意識に追う。すると窓に叩きつけられている雨が目に飛び込んできた。うわあ、と 沢村が情けない声を出すと、御幸もうんざりしたように雑誌を棚に戻した。 梅雨はやはりまだ明けていないらしい。雨は大降りで、通り雨だとしてもしばらくは続きそうだっ た。待っているにしても時間の見通しがつかないし、それになによりもそろそろ就寝時間が来てし まう。御幸が息を吐いて、傘買うか、と髪を掻き上げた。 「余計な出費は痛ぇけど、しょうがねえな」 御幸は髪を掻きながらレジに向かって、ふと思い出したように先に外に出てろと沢村に告げた。言 われた通りに外に出て、沢村はふとはて自分の分の傘はどうなるんだと思ったけれども、出ていろ と言うからにはきっと買ってきてくれるんだろうと楽天的に考えなおすことにした。 しばらくしてから自動ドアの開く音が背後でしたので、沢村は振り返り、それから目を開いた。 「どうした」 不思議そうに御幸が首を傾げ、ビニール傘をばさりと開く。 沢村は顔を歪めて隣に居る先輩を睨み上げた。 「俺の傘はどうしたっ」 「はあ、知るかよそんなもん」 「うう、あんたを信じた俺が馬鹿だった」 「なんだ沢村。おまえ知らなかったのか、自分が馬鹿なこと」 「うううっ」 「はっはっは」 唸っていたらぽんぽんと頭を二回ほど叩かれた。 アスファルトの上に置いてあったコンビニの袋をひとつ持ち上げ、左手に持ち替えると御幸は傘を 沢村の頭の上に傾けて、にい、と笑みを浮かべる。 「相合傘しようぜ、沢村」 「はああ?」 「嫌ならいいけど?」 「うう」 「ほらほら、とっとと帰るぞ」 「あ、おい、待てよっ」 「先輩にタメ語駄目、絶対」 はっはっは。 御幸は笑いながら雨空の下に踏み出してしまう。 沢村は慌てて右手でビニール袋を持ち上げて広い背中を追いかけた。水たまりを踏んだのでスニー カーに泥が飛ぶ。追いつくと意地の悪い笑みで見下ろされたので、濡れたスニーカーで御幸のスニ ーカーを踏んでやった。 「おいてめー。何すんだ。これ高いんだぞ」 「知るかよ。置いてこうとするからだろ。せっかく見直そうと思ったのに」 「んん、御幸先輩やさしいっ、すてきっ、とか思っちゃった?」 「思うかァっ」 叫きながらひとつの傘で、肩を寄せ合って道を進む。 そろそろ雨も止むかもしれない。小雨にはなっている。止むかなと沢村はつぶやいた。止むかもな と御幸が答えた。だったらもうちょっとコンビニで雨宿りしてりゃよかったッスねと沢村が言うと、 まあいいじゃねえかこういうのも、と御幸が笑った。 御幸は右手で傘を持って、左手でコンビニ袋を持っている。コンビニ袋にはペットボトルが入って いるのでときどきがしゃがしゃと音がする。沢村の持っている袋にはアイスが二三個入っているだ けであんまり重くない。なんだか急に申し訳ないような気分になった。 すこし高いところにある御幸の顔を見上げて沢村は口を開く。 「御幸先輩」 「うん」 「捕手って大変ッスね」 「おう、どうした。いきなり礼儀正しいな」 「だって」 自分のような下っ端にもこんなに気を使うのだ。 青道にはピッチャーが四人も居る。 「全員分の荷物持ちしなくっちゃなんねえなんて、大変ッスね」 「おまえ相変わらずちょっとずれてるよなあ」 御幸が困ったように笑った。 沢村はほおを膨らませる。せっかくこちらが珍しく神妙になったのにこの男はほんとうに暖簾に腕 押しだ。なんだよと唸るとまたあの独特の笑い方で笑われた。 「俺もさすがに全員分はしねえよ。めんどいじゃん」 「そう、―――なんだ?」 「そらそうだろ。てか、こんなにゲーム弱いのおまえだけ」 「むっ」 「それに」 「そ、それに?」 御幸が急に声のトーンを落としたので、沢村は知らず息を詰めた。 「おまえ以外だったら、傘は相手に持ってもらうわ。身長的に」 けらけらと御幸は笑って、おまえちっこいもんな、と沢村の頭を叩いた。 かっと顔を赤らめて噛みつこうとしたら、お、と声をあげて御幸が空を見上げた。思わず釣られて 空へ目をやると雲の切れ間から月が顔を覗かせていた。雨もいつのまにか止んでいる。御幸は傘を 閉じた。すっと体が離れていく。 沢村はさっきまで重なっていた左肩をてのひらで撫でた。 まだ熱が残っているような感触がある。 「どうした、沢村」 「あ、いや、なんでもないッス」 「ふうん。行こうぜ。また雨が降ってきたら面倒臭いし」 「うん」 御幸のすこし後ろを歩きながら、沢村はまた空を見上げる。 雲はどんどん切れ間を大きくして、月はぽっかりとそのまんまるい姿を顕わにしていた。沢村はむ うと眉を寄せる。もう一回雨が降ればいいのにという思考が一瞬脳内を過ぎって、けれどもどうし てそんなことを考えてしまったのかよく解らなかったので、沢村は首を傾げて、気付くと大分間の 空いてしまっていた御幸との間を埋めるために大股で足を踏み出した。 おわり |