・・・ 赤えいの魚 ・・・
その話を聞いたとき、佐助は心の臓が止まるかと思った。 「なんでも物書きの旅人がひとり、あの島について嗅ぎまわっていたらしい」 こいつア、あの先生のことじゃねえのか。 佐助の長屋へと情報を持ってきた長曾我部元親は眉を寄せながらそう言う。佐助はしばし呆然とした。それから、そ れは確かか、と元親が首を振るのではないかという、とてもかすかな希望を込めて問うた。 元親はさあな、と肩をすくめる。 「妖怪話探す物好きな旅人なんざァ、俺にはあの先生しか思いあたらねェがな」 「――――――なんてこった。俺もだよ!」 佐助は手元の商売道具である札をぐしゃぐしゃと握りつぶす。 落ち着けよ、と元親に諌められて佐助は驚いた。 「落ち着けって、誰に言ってんのさ」 「おまえだ。馬鹿」 「俺が、落ち着いてないとでも」 「あきらかに動揺してるだろうが」 呆れたように元親が息を吐く。 佐助は憮然とした顔で元親から視線を外す。あの島。仕事で調べたあまりに禍々しいその島の情報が佐助の頭を巡っ た。潮の流れで一定期間しかその島へと行くことはできず、強引に行こうとすれば波に飲まれて船は転覆する。運が よければその島へと流れ着くことも出来るが――――――それも運がいいと言っていいかは分からぬ。 島では流れ着いたものは供物として、要するに物として見なされる。絶対的な主が居て漂流物はその主の所有物とな る。そんな狂った規律が芯まで染み渡っている。 異常な孤島である。 そこに、小十郎が行った。 「――――――あの馬鹿ッ」 知らず佐助は怒鳴った。 元親があわれむような目で、まだ救いはある、とらしくもない気休めめいたことを言う。かの孤島では流れ着いた者 は物であるが、みずから辿り着いた者は客となる。小十郎が漂流していなければ、あるいは。 佐助はすく、と立ち上がった。 「鬼の旦那」 「おお」 「行くぜ。もたもたしてる時間はねぇみたいだわ」 かの島への道が開けるのは三月に一度。 それはもう、すぐそこへと迫っている。逃せば小十郎を助けるのが三月延びる。三月延びて、其処に居る小十郎が佐 助の知る小十郎である確率は恐ろしいほどに低い気がした。 御行包みをまとい、鈴を手にする。 長屋を出ると、風があざ笑うように佐助を包んだ。 月が気色悪いほどにひかっている夜だった。 その島へと辿り着いた佐助と元親は、崖にかすかにある道を上って上を目指す。ともすれば滑り落ちていきそうな急 な坂道である。ふいに元親が佐助の袖を引いた。なんだと問うと、元親は唇に指を当て、 「誰か来る」 と言う。 佐助は木の陰に体を隠しながら耳を済ませた。成る程足音が近づいてくるのが聞こえる。しかも、あまり穏やかでは ない。あきらかに走っている音である。気づかれたかとも思ったが、そうであったとしても佐助たちはこの島の規律 に照らせば「客」である。命は取られまい。 佐助は元親に耳打ちをする。 「島のもんかね」 「さぁな。が、俺たちは客だ。そう焦る必要もねェ」 「だーよね」 足音はどんどん近くなる。 佐助は闇の中、目を凝らした。足音の主がかすかに見える。ずいぶんと長身の男のようであった。身一つで、そこま で暑い季節でもないのに襦袢しかまとっていない。起きたままの姿で出てきたという風である。 あ、と言ったのは元親が早かったか佐助が早かったか。 同時だったやもしれぬ。 「――――――っちょっと待った!」 飛び出したのは佐助だった。 佐助たちの横をそのまま走り抜けていきそうだった男の足が止まる。長い距離を駆けてきただろうに、息ひとつ切ら さずに男はただ、ああ、とだけ呟く。佐助は思わず肩を落とした。 男は片倉小十郎であった。 襦袢がかすかに乱れている。 小十郎はそれを直しながら、佐助のうしろの元親に軽く頭を下げた。 「久しいな」 「お、おお」 「片倉の旦那」 佐助はふるふると震える肩を抑えることもせずに小十郎を睨み付ける。 小十郎は特に表情を変えることなくそれを受け入れた。そのことで佐助は逆におのれの醜態を悟る。小股潜りがなん て様だろう。佐助は目を閉じ、それから開く。 そして笑った。 「こいつは奇遇だねえ、小十郎さん。 まさかあんたがこんな島に居るなんざ思いもよらなかったよ」 「ああ。少々しくじった」 「本当にね!あんたってひとはとことん予想外で面白い。面白すぎて」 死んでしまいそうだ。 佐助はことばを飲み込んで、小十郎から視線を外した。 小十郎は元親から島のことを聞いている。それが終わると次に小十郎が島でのことをふたりに話し出した。幸いにも 小十郎は客として島に辿り着いたらしく、それを聞いたとき佐助は崩れ落ちるほどに安堵した。 とりあえず屋敷に戻ろうということになって、三人は歩き出す。 小十郎の隣を歩きながら、佐助はちいさく問うた。 「あんたさ」 「あぁ」 「なんで走ってたの」 「ああ。あんまり気色悪ィもんだから耐えられなくなった」 「そんで」 「泳いで帰ってやろうと思ってな」 小十郎の答えに佐助は笑う。 「無理だし」 「冗談に決まってるだろうが」 「なんだよ――――――ほんとはじゃあ、なんで」 迷いのない走り方だった。 片倉小十郎という男がそういう男だと言ってしまえば、それまでだが。小十郎はちらりと佐助を見た。 それから、息を吐きながら言う。 「来るかと思った。そろそろ」 「は」 「阿呆だと思う。てめェでもな」 「なんの、はなし」 佐助は首をかしげる。 小十郎は困ったように眉を寄せた。 「おまえが」 来るかと思ったんだよ。 「――――――――――――――――――――は」 たっぷり間をおいてから、ようやく佐助の口から出たのは意味を成さぬ声でしかなかった。 小十郎は言ったことを後悔しているかのように口元に手をやっている。佐助はほうけた。意味が分からなかった。 分かるのが怖かった。 (このひとはなんてことを) 小股潜りになにを期待しているのか。 小十郎がこの島に佐助の仕事が絡んでいたことなど知るわけもない。ならば仕事が絡んでおらずとも佐助はおのれを 助けに来るとでも思っていたのだろうか。なんという思い上がりだと佐助は思った。愚かしいとすら思った。 なので、そういうことを言ってやった。 「そうだな」 小十郎も頷く。 が、そのあとでにやりと口角をあげて、言う。 「が、おまえさん来たじゃねぇか」 佐助は黙った。 黙ってから、偶然てのは怖いね、とちいさく笑った。 2007/07/22 プラウザバックよりお戻りください。 |