或 る 男 喜多にとって、父の異なる末の弟はつねに気がかりな存在であった。自分の腹からそれを産み落としたはずの母は、どうにも 武家の女らしからぬひとで、ずいぶんと辛い人生を潜ってきたはずなのだけれど、おっとりとたおやかで、喜多が見るに、そ のまんまるい角のない性質は、彼女があらゆるものに目を瞑ることによって形成されたものであるようだった。喜多は母のそ の処世術自体を否定しようとは思わない。しかしそのことによって暗がりに放り出され、なかったことにされた弟は、いかに もあわれであった。 弟はまだおさない頃に、家を出された。 ちいさな片倉の家では、長男以外は冷や飯喰らいの穀潰しになるほか生きる道がない。そうして嫡子のいない藤田の家に代理 として養子に出された弟について問うと、母は決まって、 「あの子は大丈夫でしょう。昔からわがまま一つ言わない、面倒のない子でしたもの」 そう、微笑むのだった。 実のところ、喜多から見れば末の弟はめっぽう面倒な質で、弟は単にそれを隠すだけの生きる術を備えているに過ぎないのだ けれど、母のぼんやりとけぶった物憂げなまなこにそんなものが移り込むはずはなかった。誰より面倒を抱えているからこそ、 母の視界に弟の入る余地は存在しない。 あわれな弟だ。 その弟が、先頃家に帰ってきた。 ぱっと血飛沫を一面に散らかしたように、そこここで唐突に曼珠沙華が咲き乱れる季節に、弟はふらりと帰ってきた。藤田の 家に嫡子が生まれたのは桜の頃であったので、半年の間弟は姿を消していたのである。どこに居たのか、今になってどうして 帰ってきたのか、弟は一切を語らずにいた。喜多以外の家族はそもそも問おうともせずに、消えたはずの末弟の存在にただた だ戸惑うばかりであった。母は兎のように やたらに瞬きを繰り返した。そうすることで、いずれ見慣れぬ息子が視界から消えることを期待するように。 喜多はといえば、弟が帰ってきたのが嬉しくてたまらなかった。 喜多はこの、父のちがう弟をあいしていた。どの兄弟より彼が際立って聡く、うつくしいことを喜多はよく知っていた。喜多 の知っている弟は感じやすく、傷つきやすい少年で、この血腥い世の中で彼が生きにくいことはあきらかであったが、それで もあわれでいとしい少年を喜多は貴いものだと思っていたのである。 それで、帰ってきた弟は喜多の知っている彼ではなかった。 唖者のように押し黙り、家族に親しもうとするでもなく、何処か仕官先を探すでもなく、戻ってきたくせにほとんど家には寄 り付かず、朝に白粉のにおいと酒の気配をたっぷりと漂わせてふらりと現れたかと思うと、昼過ぎにはもう姿を消していた。 ときには傷を負って帰ってくることもあった。そういう時、弟の目は決まって底抜けに暗く、枯れた古井戸のように不気味な 黒を湛えているのだった。 そういう弟の姿に、喜多は特段幻滅することはなかった。 「小十郎さん、あなたまるでつい先刻、卒塔婆の下から這い出してきたような顔をしてるわねえ」 そう言って笑ってやると、弟は、小十郎はぎょっとしたように目を丸めて、得体野知れない化け物でも見る目でしげしげと喜 多を眺めるのだった。 こんなことがあった。 小十郎が戻ってきて、一月ほど経った頃だっただろうか。秋の満月が冴え冴えと夜の天辺で鎮座していた。虫の声も絶えるほ どの夜の底で、喜多はふと、覚醒した。物音もひとの気配もない。喜多はゆっくりと布団の上で半身を起こした。障子ごしに まぶしいくらいの月灯りが差し込んでいて、板間にくっきりと格子の模様が映し出されている。 血のにおいが、かすかに鼻先をついた。 ぞっと背筋がつめたくなる。枕元の羽織をたぐり寄せ、喜多はそっと障子を開いた。カラリ。常よりその音が大きいようで、 ひくりと肩が小娘のように震える。濡れ縁を玄関に向けて忍び足で歩いていくと、粗末な庭の楓の根元で、かさりと何かがう ごめく音がした。 弾かれたように、誰です、と声をあげる。 音はぴたりと止んだが、血のにおいは一層に濃い。喜多はじっと目を凝らして楓を睨んだ。暗闇に目が慣れ始めると、まだ紅 葉していないはずの葉の間に、ちらと赤いものが見えた。 小十郎だった。 腕を庇い、息を殺し、楓の幹に寄り添っている。 「小十郎さん」 返事はない。 ただ楓の葉がそよと揺れる。小十郎さん。また呼ぶ。矢張り返事はなく、今度は動く気配すらなかった。肩からふっと力が抜 ける。ほおがゆるりと、はっきりとした笑みの形にほころんだ。 なんともまあ、他愛ない。 手負いの犬のようなことをして! 「声も出ないとなると、どうやらひとではないようですね。何処ぞの犬でも迷い込んだかしら―――それにしてもまあ、 腥いこと!」 くすくすと笑いながら庭に降り立ち、ゆっくりと楓に歩み寄る。小十郎は逃げなかったが、せめてもの抵抗のつもりなのか、 大きな体をせせこましく楓の影に押し込んでいた。 笑みをこらえながら、木の影をぬうと覗き込む。無理矢理抱きすくめられた犬のような迷惑げな顔で、小十郎は眉根をひそめ た。喜多はにっこりと笑って、傷を負っていないほうの腕を掴むと、濡れ縁までずるずると引きずって行く。 月灯りに照らされた小十郎の腕は、ねっとりと血糊がこびり付いていたが、そのほとんどは自分のものではなく他人のそれの ようで、傷自体はちいさいものだった。喜多は井戸から水を汲み、血だらけの小袖を脱がせると、半裸になった弟の体を濡れ た手拭いで丁寧に拭ってやった。その最中、小十郎はなにか文句を言うでもなく、珍しくなすがままにされ、ぼんやりと空の 月を見上げていた。 清潔な着換えと晒を取りに一旦座敷に戻り、再び縁側に戻ると小十郎は矢張り空を見上げたまま、ぽつりと問いかけてきた。 「聞かぬのですか」 喜多は腕の傷に晒を巻いてやりながら、首を傾げる。 「あら、なにを?」 「傷の由やら、血の行方やら、―――あるでしょう」 「聞いたら教えてくれるのかしら」 「それは、」 「ふふふ、ね、そうでしょう。ならいいわ。言いたいときに言ってくだされば。さあ、これを着て頂戴な。冬にはまだまだあ るとはいっても、夜はもう随分と冷えますものね。悪くすると風邪を引くわ」 真新しい小袖は、小十郎が家に帰ってきてから喜多が縫ったものである。鈍色の生地は、鞣した革のような小十郎の肌によく 映えた。喜多がうっとりと自分の見立てに見とれていると、小十郎がまたぽつりとつぶやく。 姉上は、と。 姉上は、変わった御方だ―――と言う。 「あら、そうかしら?」 「俺のような穀潰しに、こんな上等な着物を拵えたって、あなたには一文の得にもなりゃァしねェでしょう」 「まあ、小十郎さんったら。なんにも解っていないのねえ!凡その女が男に着物を縫うのに損得なんてあると思って?ただ縫 ったそれを着てもらって、似合っていれば十分なのよ。さ、立って頂戴な。立ち姿も見せてくださらない?」 小十郎は素直に立ち上がった。隆々とした体に鈍色の小袖がひたりと添って包み込む。しらじらとしたひかりに照らされた横 顔は刃物のようにあやうげで、何処までも冴えている。決して美童ではないはずの弟は、それでも月のひかりの下で、誰が見 てもうつくしいのだった。 素敵ね、と笑うと、首を傾げる。 照れているのだと、すぐに知れた。 焦れったそうに座り込んだ小十郎の顔を覗き込むように、体を前に乗り出して喜多は問う。 「小十郎さん、あなた、もてるでしょう?」 「は、なんです?」 「こうも男振りがいいと、若い女は放っておかないでしょうね。時々白粉のにおいをぷんぷんさせて帰ってくるけれど、あれ はそこらの遊び女なの?それとも決まったいいひとがいらっしゃるのかしら?」 「姉上」 「なあに?」 「俺が言いたいときに言やァいいと仰ってたのはどうなったんです」 「あら、それとこれとは話が別じゃないの。傷をどこでこさえたかなんて、詰らない話に興味はありませんけれど、あなたに いいひとが居るのかどうかはとても気になりますもの」 「姉上は」 「ええ」 「矢張り、変わった御方だ」 そう言って、小十郎はちらりと笑った。 |