小十郎は憮然とした顔でおのれの座敷を眺めた。 元来小十郎は簡潔なものを好む男だ。ゆえに、その居室もよく言えば整頓された、悪く言えば殺風景な座敷である。主の政宗 などがよく気まぐれだか気遣いだか知らぬが様々なものを持ち込んできたりするが、そういったものはすべて小十郎の別室に 移動させられる。棄てはしない。小十郎は政宗が梵天丸の頃に手渡したちいさな花まで押し花にして取ってある。 だから主でさえ、小十郎の座敷の風景を変えることはできない。 はずだった。 「・・・・・・てめぇ」 低い声で小十郎が呟く。座敷のまんなかに陣取った背中に向かって。 その背中は小十郎の声にぴくりと動いて、くるりと振り返る。そしてにこりと笑った。 「こんにちはー」 「・・・・なにしにきやがった、あぁ?」 「なにって、片倉の旦那解ってるくっせにぃ」 へらへらと笑いながら座敷に座り込んでいるのは、迷彩柄のしのび。猿飛佐助。 そして手の中にはなぜかちいさな椿の苗が植えてある器。 小十郎はそれをひどく嫌なものを見るような目で見た。 「またか」 「またです」 へら、と笑う佐助に小十郎は思いきりおのれの陣羽織を投げつけてやった。 痕 を 棄 て る 人 猿飛佐助が小十郎の座敷によく訪れるようになったのはここ半年くらいのことだ。 切っ掛けはなんだったのだろう。ある日小十郎が座敷に戻ったら、居た、のだ。佐助が。当然のように。やはり手の中に得体 の知れないーーーそのときは確かいやに華美な羽織だったーーーものを掲げて、そして言った。ねぇ片倉の旦那、これここに 置いてっていいかな。 もちろん小十郎は自慢の愛刀を佐助の首筋に当てて、丁重にお断りしたが、佐助は相も変わらずにこにことしたまま座敷から 動かない。呆れた小十郎が訳を聞けば、その羽織は戦場で偶然助けた娘がくれたものだと言う。 「俺が持ってても仕方ないし、どーしようかとも思ったんだけど」 すてるには。 すてるには、すこしその娘の笑顔が眩しかったのだと言う。 ふうんと小十郎は鼻で笑う。だからなんだ。それのどこがわざわざ甲斐から奥州まで来て、しかも伊達家の家老の座敷にそれ を置いていく理由になろうか。 「てめぇの城に置けばいい」 「そうもいかないんだな、これが」 佐助は困ったように笑った。 笑いながら言う。 「しのびに持ち物があるなんて、有り得ねーでしょ」 そう言う佐助の顔は、笑っているのにどこまでもしのびのそれだった。 小十郎は黙った。黙って刀を鞘に収める。それから佐助が握りしめている羽織をぐいと奪って、乱暴に丸めた。 「ちょ」 なにすんの!と騒ぐ佐助をぎろりと小十郎は睨み付ける。 そして羽織を佐助の鼻先に押しつけた。眼にいたいほどの青い羽織の、その部分にだけうっすらと黒い染みがついている。 「俺は血塗れの羽織を箪笥にいれる気はない」 勝手に洗わせてもらうぜ、と言う小十郎に、佐助はへらりと溶けそうな笑顔を向けた。 それから佐助は事ある事に小十郎の座敷に現れては、物を置いて帰って行った。 物の内容はその時によって様々だ。前回は狸の置物だったし、その前は空の徳利だった。なんでもそこに描かれた金魚の絵が 気に入ったらしいが小十郎には一切理解ができない。棄てるぞ、と言っても佐助はにこにこしたままえーやだーと言うだけで 却って棄てることを小十郎に躊躇わせた。 徳利には結局佐助が持ってきた酒をいれて、ふたりで飲んだ。 それは奇妙な酒宴だった。 障子を開けて、縁側にふたりは座り込む。小十郎は着流しだが佐助はしのび装束のまま。 佐助はどうやらいつも、戦に出たその足で小十郎の元へ来ているらしかった。外傷のあることはほとんどなかったが、いつも 例外なく血のにおいを纏ってやって来る。だがそれでも佐助の顔は例外なく笑顔だったし、意味の分からぬ土産物も相変わら ず絶対に手にしている。だが決して、佐助はそれ以外で小十郎の元を訪れることはなかった。佐助の普段着をだから、小十郎 は知らない。 空を仰ぐと半月がゆらゆらと雲間に見え隠れしている。小十郎は徳利から手酌で猪口に酒を注ぎながら、なんなんだろうかと 今の状況を考えた。どうしておのれは敵国のしのびと並んで酒など飲み交わしているのだろう。ふたりの間に特に会話などは ない。いつもだって、佐助はがらくただけ置いて、そして茶のひとつも飲まずに帰って行くのだ。 「いつものおれい」 そう笑って差し出された徳利を、どうしておのれは拒まなかったのだろうか。 酒はすきだ。それは知っている。が、小十郎は猿飛佐助という人間をすこしも知らない。武田のしのびで、そしてがらくたを おのれの座敷に置いていく馬鹿だ。それしか知らぬ。いつも浮かべている笑顔などあまりに嘘くさくて、もしやしてほんとう のこの男の顔すら、おのれは知らぬのではないか。 知ったからどうということもないのだが、知りたい、と小十郎は思った。佐助はいつだって何もかもを見通したような嫌な眼 をしてこちらを見てくる。それなのに小十郎だけなにも知らぬでは、あまりに癪ではないか。 中庭に植えられた花のない沈丁花をぼんやりと見つめている佐助に、小十郎は問うた。 「なんでおまえは、あんなもん一々持ってきやがる」 小十郎の問いに、佐助はいっしゅん眼を丸くして、それから細める。 おどけるように首を傾げた。 「なんででしょう?」 「死にてぇのか?」 「こえー。やや、俺もね、よくわかんねーよそんなん」 かちん、と鞘に手を掛けた小十郎を佐助が慌てて止める。 止めながら、佐助は困ったように頬を指で掻いた。 「ただね」 それから小十郎のほうをじぃ、と見つめ、空の猪口を指先でくるんと回す。 「あの羽織を、もらったときにさ」 「・・・あぁ、最初のあの、趣味の悪い」 「うるさいね、あんたも。 ・・・あれをね、もらったときにさ。棄てたくないって思っちゃったんだよねーなんでだか」 くるんと回った猪口は、佐助の指を離れ、かつんと縁側の板間におちる。 小十郎はおちたそれに、とくとくと酒を注いだ。 佐助はありがとう、と笑ってそれから、そのときは何処でもよかったんだけど、と言う。 「ただ思いの外簡単にあんたが預かってくれたから、なんだか調子に乗ってるんだろーね、俺様」 「迷惑この上ねぇな」 「はは、そら申し訳ないねぇ」 でもね。 佐助はくるりと後ろを振り向いた。小十郎もつられて振り向く。そこには当然だが小十郎の座敷があって、そこは以前とはう って変わって雑多ながらくたにまみれ、お世辞にも整理されたとは言い難い風景が広がっている。小十郎はただでさえ深い眉 間のしわを更に深くした。あれがおのれの座敷とは到底思いたくない。 佐助はそんな小十郎の顔を見てけらけらと笑いながら、感謝してるよ、とちいさく言う。 「持ち物なんて持ったのは初めてでね」 しのびだから、と佐助は言う。 小十郎はしのびという職柄にそこまで馴染みが深くない。もちろん伊達にもしのびの集団は存在するが、それを統治するのは 小十郎の管轄外だ。それに遺憾だが伊達には、北条や武田や上杉ほどの有能なしのびは居ないというのが現状である。 佐助のようなしのびがどのような理念で蠢いているのかなど想像も付かぬ。 だから聞いた。 なぜ、ものをもってはならぬのか。 佐助は小十郎の問いにすこし黙って、それからぽつりと、だってのこるでしょ、と呟いた。 「残るでしょ、俺の痕が」 さあ、と風が吹く。 佐助の赤毛がふわふわと揺れた。そしてひとこと、あんたはすててくれるでしょ、と零す。 それ以上は佐助は何も言わなかった。小十郎も何も聞かなかった。 聞かずとも。 小十郎には解る気がした。 小十郎の座敷に際限なく増えていったがらくたたちが、ある日その増殖を止めた。 椿の鉢植えを最後に、佐助が一切座敷を訪れなくなったからだ。 最初の一月は、気にならなかった。そんなこともあるだろうと思った。佐助はしのびだ、長期任務にあたれば一月の間暇がな いことなど常のこと。武田で大きな戦があるとは聞かぬが、その下調べで佐助が駆り出されているということは十分にあり得 る。二月目に、武田と上杉で大きな戦があった。ああやはりそのために来なくなったのだと小十郎は納得した。 三月目、主の伊達政宗に呼び出された小十郎は、そこで武田が上杉に惨敗したことを聞かされた。 「信玄坊主と幸村は生きてるらしいから、ま、すぐ立ち直るだろうがな」 「ほう。大抵はいつも互角で終わるというのに、今回は軍神に軍配があがりましたか」 「そこだ」 にやりと政宗は笑う。 「どうやら決め手は武田のしのびが消えたことらしい」 「は」 「おまえも何度か会ってんだろ。あの迷彩柄のちょこまかと鬱陶しいしのびだ」 「・・・あぁ」 政宗は佐助が小十郎の座敷を訪れていたことなど知らぬ。 だから小十郎も、あぁ、そういえばそんな者もおりましたな、と言った。 「Ha!日本一の兵が聞いて呆れらぁ。幸村の野郎、てめぇのしのびが死んで相当動揺したらしい。 勝手に暴走して、挙げ句指揮系統が乱れてまともな戦陣すらとれねぇ有様だ。・・・・ばかなやろうだ」 笑いながらも、政宗の顔は苦々しい。 真田幸村は政宗の唯一にして最高の好敵手だ。その相手がおのれ以外にそのような後れを取ることを政宗の複雑な感情が拒ん でいるのだろう。そしてそれ以上に、単純に心配なのだ。真田幸村の安否を、おそらくは主は芯から案じている。 そんな政宗を見ながら、小十郎はおどろくほどに動揺していないおのれに驚いていた。 (死んだのか、あのしのび) なんの感情も浮かんでこない。 それはそうだろう。幾度も顔は見合わせた。座敷には佐助の置いていったがらくたが溢れている。だがまともな会話をしたの はあの酒宴くらいで、他はほとんど一言二言だ。なにも知らない。猿飛佐助の人格も履歴も思想も小十郎はなにひとつとして 明確には知らぬ。 ただ唯一、確信して知っていることが、 「・・・・・・では、棄てなくては」 ぽつりと零す。 そのつぶやきを拾った政宗がどうした、と聞いてきたが小十郎はちいさく笑って誤魔化した。 襖を開く。 目の前にひろがるのは、雑多な座敷の風景だ。 小十郎は歩を進め、ぺたりと座敷のまんなかに座り込んだ。周りを見渡す。ほんとうに訳の分からぬ物ばかりだ。棄てるにし ても手段を選ぶような物も多く、いっそすべてを放り出して女房にでも任せてしまおうかとも思う。何故おのれがあのしのび の為にそこまでの労力を費やさねばならぬのだ。 (女房に任せるか) それがいちばんもっともな行為だ。 が、小十郎は立ち上がり女房を呼びに行くことはしなかった。ただぼうと座敷のまんなかで佐助の置いていったがらくたちを 眺める。薄汚い人形がるかと思えば、打って変わって艶やかな朱塗りの盆がある。ほんとうに何処からどうやって持ってきた のか想像もつかぬ。だが小十郎には、なんとなくだが、あのしのびがこうやってがらくたを集める理由が解った。 (難儀な忠義心だ) 猿飛佐助のことなど、小十郎は何も知らぬ。 知らぬが、それでもあのしのびが痛いほどにあれの主を慕っていることだけは、何故だか手に取るように解った。戦場で見え たからであろうか。否。そうではない。このがらくたを城に置けないと聞いたときに、嗚呼なんて、と小十郎は思ったのだ。 嗚呼なんてこのしのびは辛い仕え方をするんだ。 小十郎は武士だ。 武士は主のために生き、そして逝く。そのことに一切の矛盾はない。それは誇りであるし、そのことに関してなにかを悩んだ ことなどない。小十郎の最大の望みは、政宗の目の前で政宗の為に政宗を守って死ぬことだ。それが主に与えるであろう傷ま でも、小十郎の望みにおそらくは組み入れられている。唯一無二でありたいと、武士ならば誰でも主に対し思うだろう。 が、佐助はしのびだ。 しのびは。 しのびというのは、取り替えのきくものでなくてはならぬ。 徹底した影として、たとえ死んだとしてもそれすら誰にも気づかれぬように、ただただ主の指令を遂行する存在。だから意思 を持つことすら、しのびには許されぬ。 まして。 痕を残したい、など。 佐助も解っているから上田城には残せないと言ったのだろう。 そしてそれ以上に、幸村に対して佐助は痕を残したくなかったのだ。武士はおのれの痕を主に残すことでその後の家の保証を 得る。小十郎は片倉の家云々のことなど政宗に仕えるうえで考えたことはないが、大抵の者はそうだ。が、しのびはそもそも 主にそのような痕を残すほど近寄ることすら本来ならば不適切なのだ。 けれどあまりにあのふたりは近く、佐助の痕は食い込むように幸村に刻まれている。 だからせめて。 『残るでしょ、俺の痕が』 あれはつまり、幸村に佐助の痕が残らないようにということだ。 もう遅い。あまりにも遅いけれど、それでも心の痕ならばやがて消えてしまうこともあろう。だが物は無くならない。佐助は おのれが物を残せば、幸村がそれを棄てずに延々保っていくことを恐れた。そんなふうにして幸村の傷をいつまでもおのれが 抉り続けていくことを恐れた。 だから佐助は、物を持たないと言う。 小十郎は眼を閉じる。 あんたはすててくれるでしょ。佐助はそう言った。 小十郎をがらくたの置き場所として選んだのは、おそらくはそれを確実に遂行してくれそうだからだろう。あえて親密になら ないようにしたのも、小十郎が佐助に好意をもつことで、これらのがらくたに情をかけることを避けるためなのだろう。 ならば小十郎は棄てるべきなのだ。 眼を開く。 既に日の落ちた世界で、座敷はすっかり闇に包まれている。 小十郎は立ち上がり、 更に三月の時が流れて。 小十郎が政務を終えて座敷に戻ると、そこには見慣れぬ若草色の着流しの背中が座り込んでいた。ふわふわとゆれる赤毛には 見覚えがある。それがゆっくりと振り返る。 やはり見覚えのある顔は、すこし不満げないろをしていた。 「ちょっと」 猿飛佐助が唇をとがらせる。 小十郎は眉一つ動かさず、佐助の横を通り過ぎて箪笥を開け、そこから農作業をするための作務衣を取り出す。その背中にむ けて佐助はそこらへんに墜ちていたお手玉を投げつけた。小十郎はそれを振り返りもせずに手で掴んで投げ返す。 「なんか用か。死に損ない」 「・・・わるぅございましたね、死に損ないで」 「死ぬんだったらこれ、処分してからにしやがれ」 これ、と言いながら小十郎は座敷をぐるりと見渡した。相変わらず、座敷の中は訳の分からないがらくたでごちゃごちゃと雑 然としている。 佐助はほおづえを突きながらだからそれ、と小十郎を睨む。 「棄ててって言ったじゃん」 「聞いてねぇな、そんなこと」 「いいましたー」 ぶうぶう喚く佐助に小十郎はここにきてようやっと振り返った。 改めて見る普段着の佐助は、やはり特にどうという感情も小十郎に与えはしなかった。棄てて欲しかったのか、と小十郎は静 かに言う。佐助はすこし黙って、 「つぅかなんで棄ててないのかわかんねー」 「棄てる理由がねぇってだけだ」 「持ってる理由もねーじゃん。だって俺、死んだって思ってたでしょ、片倉の旦那」 「ああ」 生きているのだから、棄てずに居ようとか。 そんなことを考えたわけではなかった。死んだのだろうと思った。なんの感情も交えずに思った。棄てることが佐助の望みな ことだって、ほんとうは小十郎だって知っていた。 そこで小十郎はにやりと笑う。 「要するに死にやがったら、おまえさんの痕は丸々残ったままだってことだな」 佐助はぽかん、と間抜けに口を開いた。 それからすこし頬を赤らめて、呆れたようにため息をつき、笑う。 「やれやれ」 「どうした死に損ない」 「・・・・俺様としたことが、人選間違えたねぇこりゃ」 「どうやらそうらしいな」 「うかつに死ねやしない」 「当たり前だ」 いつかのように陣羽織を投げつけながら小十郎が言う。 「片倉小十郎を利用しようなんざぁ、百年早ぇよ」 陣羽織を受け止めた佐助は、降参、と言うように両手をあげる。 小十郎はそれを見て声をたてて笑った。 終わり
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