息を吐き終えて、そして小十郎はおのれがあの男を恋うているのだと唐突に理解した。
嘘 吐 き の 自 家 撞 着
目が覚めてしまって、体を起こしてみると横にぽかりと隙間が出来ていた。
片倉小十郎はまだ開ききらない目にてのひらを被せ、すこし強く押しつける。ゆるゆるとそれを下ろし、目を開く。月
がまんまるい夜であったので、障子からはそれのひかりがほろほろとこぼれ落ちていて、格子の形を長く畳に移してい
た。その規則的に続いている影を、ひとつおおきな人影が遮っていた。好き勝手な方向に伸びた髪の形は、影になって
伸びると針山のように見える。小十郎は起き上がって、障子をからりと開いた。
縁側に立っている猿飛佐助は、それを予想していたのだろう、既に振り返っていた。丸い目をついと線のように細めて
どうしたのさと首を傾げる佐助に、小十郎はおまえだろう、と吐き捨ててやった。
「こんな刻に、月見か」
「風情があるねえ。ま、残念ながら、俺にゃそんなもんはございませんよ」
けらけらと笑いながら佐助はすとんと座り込む。
小十郎もそれに倣った。目はもう覚めてしまっていたし、このまま佐助を放っておくのも収まりが悪いような心地がし
た。佐助は隣に座り込んできた小十郎のことをしげしげとすこし物珍しげに眺めていたけれども、そのうちに興味が失
せたのかくるりと目の前の庭に顔を向けて、ほおづえを突いて目を閉じた。小十郎は横目でそれを見て、おのれもおん
なじように前を向き、それからすこし考えて空を仰ぐ。
月に照らされた中庭は、しらじらとどれもこれもが薄くなっている。
虫が鳴いている。りい、りい、りいぃ、と途切れ途切れに鈴のような音を漏らす。
後ろに撫でつけていない髪が、さらさらと風に揺れた。
「あんたは」
ふいに佐助が言った。
そろそろ寝たほうがいいよ。そう言う。小十郎は何も答えずに、ただ空を睨み付ける。月のひかりが濃すぎると、他の
ひかりは見えなくなる。そこには確かに―――――――――例えば新月の夜であればぱらぱらと無造作に放ったような
星がきらきらとちらちらと瞬いている筈なのに、それは見えない。横でこれ見よがしに佐助が息を吐いた。小十郎はそ
れに矢張り何も答えないままに、手を伸ばして髪を引っつかんだ。
佐助が低く呻く。
「痛ぇんですけど」
「そうかよ」
「なにすんの」
「ひとのことを言う前に」
おまえも寝ろ。
宙に向けていた目を佐助に向け、ついでに睨み付けてやる。
佐助はしばらくの間目を瞬かせてから、困ったようにへらりと笑い、俺はいいじゃない、と言う。俺はいいじゃないべ
つに明日は甲斐に帰るだけだもの。小十郎は更に強く佐助の赤茶けた髪を引っ張った。
「だからとっとと寝ろと言ってるんだ、阿呆が」
吐き捨てると、佐助はくるりと目を見開いた。
それからへらりと笑う。髪を掴んでいる小十郎の手を両手で包んで、おのれのほおにするりと降ろす。小十郎は苦虫を
噛み潰したような顔をして佐助を見下ろした。佐助は目を細めたまま声を出さずに笑って、小十郎の指におのれのそれ
を絡めた。やさしいねぇ、とうっとりと言う。
「あんたはほんとう、嫌になる程やさしくッて」
泣きそうだぜ。
小十郎は眉を寄せた。
てのひらが邪魔で佐助の顔が見えない。ぐいと手を引いてみた。佐助は泣いては居なかった。泣いてねえよと佐助はけ
らけらと笑う。小十郎は益々顔を歪めて、引いて手持ちぶさたになった手で佐助の額をひとつ叩く。
痛いな、と言いながら佐助は膝にほおを付けた。
「もうほんとうに、おやすみよ」
「おまえは」
「俺はもう些ッと、此処に居る」
「だったら俺も居させて貰う」
「なんでさ」
「なんでおまえは寝ねェ」
「そら」
佐助はすこし言葉に詰まった。
それからほうと息を吐く。
「―――――――――息が、苦しくッて」
そして笑う。
仕様がねえんだ。そう言う。
小十郎は良く解らなくて矢張り眉を寄せた。佐助は鼻の下を指で擦って、ふふんと鼻を鳴らす。この季節の花がね、あ
んまりよろしくねえンだ、と言う。小十郎は黙り込んで、佐助の顔をしばらく眺めて、そして諦めた。
これ以上の押し問答が意味があるとも思えず、それにどうして息が苦しいんだと問うことがどれほどに無神経で、そし
て残酷であるかどうかということくらいは、小十郎にも大方予想は付いていた。佐助はへらへらとほおを緩めたままで
膝を抱えている。笑っているけれども、それは笑顔ではない。
小十郎はこっそりと息を吐いた。ゆるゆると、ひどく狭い場所を通すように、慎重に吐き出す。息は吐き出されると言
うよりは、絞り出されるように口から出ていく。その一連の動作はひどく緩慢で焦れったく、そして息苦しい。
いきぐるしい、と小十郎は思い浮かべて舌打ちをした。
佐助の頭をくしゃくしゃと掻き混ぜて、とっとと寝ろよと言い捨てて座敷に戻り、障子を引く。
からり、と乾いた音が鳴った。
猿飛佐助という、常に薄っぺらい仮面でも被っているような得体の知れぬ男がどうやらおのれのことを恋うているらし
いと確と片倉小十郎が知ったのはそれほど遡らなくても辿り着く程度にしか以前のことではない。知ろうと思ったわけ
ではなく、勝手に佐助が言ったのだ。あんたがすきだと。惚れていると。
おのれはどうかと顧みる必要さえない。
小十郎は佐助を恋うては居ない。
佐助と小十郎が、他国の家老としのびという以上のなにかしらの繋がりを持つようになったのは、佐助が意味もなく泣
き出すという男としてひどく不格好な発作を持っているということを知ってからだった。情けねェと思うのとおんなじ
位に、小十郎はそういう佐助を見ているのが堪らなく不快だった。由はない、と佐助は言う。そんな筈はないだろうと
小十郎は思う。ひとは由がなくて泣けるものか。あっても泣けぬ者も居るのに、なくてどうして泣けるものか。
要するに佐助は解っていないのだ。なにかあるのに、なにもないと思っている。
堪らなく不愉快だった。
「泣くな、阿呆」
そうやって手拭いを放ったときに、小十郎はひどく驚いた。
佐助は元より丸い目を更に丸めてしばらくの間そこだけ時が止まったように凝固して、それからゆるゆるとおのれの足
元に落ちた手拭いに視線を落として、弾かれたようにまた顔をあげて小十郎を見た。へ、と口から間の抜けた声が漏れ
る。小十郎は落ちた手拭いをまた拾って、今度はそのほうけた顔に投げつけてやった。
「その薄汚ェ顔を拭うのに使えっつってんだよ、阿呆」
「え、あぁ、ちょっと、薄汚いってなんだよ」
「鏡でも見な」
小十郎は布団の上でほおづえを突いたまま胡座をかいて、息を吐く。
佐助は大抵は書状でもなんでも夜半を過ぎなければ寄越さない。小十郎を起こして嫌がらせをするつもりなのか、それ
がしのびの性であるのかは良く知らない。兎に角その夜も佐助が来たのは夜も深くなり過ぎて、黒の底が見えなくなる
ような頃だった。月は細く弧を描いている。ひかりは強くない。ばらまかれた星からひどく控えめに零れている。
佐助は顔に張り付いた手拭いをしばらく持て余すように握ったり、丸めたりしていたけれども、そのうちにおのれのほ
おに付けて、こしこしと擦りだした。小十郎はそれを見るともなしに眺める。佐助が泣くのを見たのは三度目だった。
なにかあったか、と問う。なにもないと佐助は答える。
ただ音もなく、佐助は泣く。
ひどく苛立った。
梵天丸とはちがう泣き方を佐助はする。
梵天丸も良く泣いた。ひとりで、こっそりと、誰からも見えぬような場所に隠れて泣いた。小十郎はそれを見つけるの
にいつでもひどく骨を折った。それは城の納戸の奥であったり、厩の牧草の影であったりした。梵天丸はそこに行って
は膝を抱いて、ひとりで奥歯を噛みしめて声を必死で押し殺して、顔を真っ赤にして、そうして泣いた。
小十郎が見つけると、必死で逃げてそれを見せぬようにした。人前で泣くことを、産まれ落ちたその瞬間から君主であ
ることを定められたこどもは決して良しとはしなかった。小十郎もそれを正そうとはしなかった。人前で泣くことは、
矢張り君主には相応しくないのだ。
ただ小十郎は、政宗を決してひとりで泣かさぬようにした。
何処に隠れていても、必ず見つけて、そうして気が済むまで泣かせた。
政宗はそれをひどく恥じた。決して小十郎の腕に縋るようなことはなかった。奥歯を噛みしめ、眦を釣り上げ、それで
も尚零れてきてしまうそれを憎むように呻く。ひどく苦しそうに泣くこどもだった。小十郎はそれを見ていると、決ま
って喉がからからと渇いて鼻先が痛んで、一緒に泣きたいような心地になって、それから溢れるように目の前のこども
がいとおしいという感情が満ちて堪らなくなった。世の中に、これ以上切実な泣き方があるだろうか。
佐助は、それとはまったくちがう泣き方をする。
佐助にとって泣くことは、どうにもできぬけれども、だからといって意味があることでもない。
考えるだけでうんざりするほどに女々しく、鬱陶しく、情けない。どうして泣いているのか解っているほうが幾らか潔
い。反吐が出る程に、小十郎は佐助のその癖が厭わしい。佐助のことを嫌悪の感情に照らして見たことは今までなかっ
たけれども、初めて目の前で泣かれたときは、汚物を垂れ流されているような心地になった。
それでも小十郎は、ひとりで泣くというその行為を、どうしても容認することができない。
佐助は時折やって来ては、小十郎の前で泣くようになった。此処で泣けと言ったのはおのれだけれども、それでも泣か
れるとひどく気色悪かった。男の泣き顔など、どの角度から見てもうつくしいものではない。それでもまだ泣き崩れて
いるのならば幾らかは良かった。佐助は一切泣くときに顔を崩さない。気色悪い、と思った。無機物から水が零れてい
るように見えた。到底、直視に耐えうるものではない。
見るのも不快だ。触るなど以ての外だ。なにかを期待されているのだとしたら反吐が出る。それでもどうしようもなか
った。ひとりで泣く男の姿はどうしても小十郎に、かつてひどく辛い泣き方をした主の姿を思い出させる。泣いた後に
佐助は小十郎に礼を言った。泣かせてくれてありがとう、とへらりと笑う。苛立って仕様がない。泣かせたくて泣かせ
ているのではない。とっとと直せと言えば、佐助は笑うばかりで、益々苛立ちは募った。
「あんたはやさしいね」
とんでもない。
不愉快で仕様がない。
何かで泣くなら、まだ窘めようもある。
由が何処かにあるはずなのだ。小十郎はそれを幾度も問うた。どうした。なにがあった。佐助は首を振る。なにも。な
にもありゃあしないよ。そのうちに、あるときに、それが一体どういった折だったかもう定かではないけれども、とに
かく小十郎はあるときにその佐助の言葉が事実であることを知った。それは以前からそうであったことを知ったという
意味ではなく、そのときには、確かにその佐助の言葉は事実であった。
佐助は、態と泣いていた。
呆れ果てた。
顔を叩いてやって、追い返そうとも思った。
けれども出来なかった。そうすればもう佐助は此処には来ないだろう。そして、今こうやって泣いているのに由はない
にせよ佐助は以前はあきらかにそうではなく泣いていたのだから、矢張りひとりで泣くことになるのだろう。小十郎は
佐助の為に上田まで行って、その涙が地に落ちて、吸い込まれて、消えるのを見届けることはできない。ひとりで泣い
た涙は何処に行くのだろうか。地に吸い込まれなかった涙は、何処に行くのだろうか。
小十郎は佐助の涙が延々とくるくる、くるくると佐助の体を巡回していく様を思い浮かべてぞっとした。
結局小十郎は佐助のその擬態を容認した。ひとりで泣かれるくらいならば、偽りであったとしても此処で泣かれるほう
がいいと思うことにした。もう問うのは止めにした。意味がないからだ。
それで気付かれて、佐助が此処に来なくなるならそれもいいかと思った。
佐助は不愉快だった。姿を見るのも、声を聞くのも、泣かれるのもこのうえなく不愉快だった。主のように清廉でも、
誇り高くも、いじらしくもない。当たり前だ。佐助はこどもではなく、君主として生を受けた者が元より持つきよらか
さがあるわけでもない。佐助が泣くことは何処か媚びを含んでいて、ひどく薄汚い行為に小十郎には思えた。
それで、ある日矢張りそのことは佐助に知れてしまった。
案の定佐助は逃げた。
小十郎は安堵した。
「清々したな」
つぶやいていみた。
それからその言葉が真実ではないことに愕然とした。
これから佐助はまた何処かで泣くのだろう。ひとりで泣くのだろう―――――――――否。
もしかしたら、と小十郎は思った。
もしかしたら、誰かの横で泣くのかもしれない。
小十郎にそうしたように、誰かの横で泣いて、佐助は矢張り髪に触れてもらうのかもしれない。
小十郎は口元をてのひらで覆った。気色悪いと、佐助が泣くのを見ているときとはまったく異なる方向にその感触を持
った。あの薄汚い涙を、他の誰かに見せて、矢張り佐助は媚びて笑うのだろうか。
反吐が出る。
許されない、と思った。
恋うていると聞かされたときに感じたのは、嫌悪ではなく安堵だった。
ならば、この男は誰の前でもこうするのではなく、小十郎の前でだけこうするのだろう。
それでは小十郎が捕まえてしまえば、他のところで泣くことはないだろう。逃げ出したとしても、連れ戻せば矢張り此
処で泣くのだろう。さるとび、と名を呼べば佐助はひどく辛そうな顔をした。元より、目の前の男をどうにかしてやろ
うと思っていたわけでも、まして癒してやろうなどと思っていたわけではない。ただ小十郎は、耐えられなかっただけ
なのだ。恋うてなどいない。そういう感情ではない。
それでも、佐助が此処以外の場所で泣くことを考えると体の何処かが軋むような心地がした。
抱きたいと言うのならば抱かせてやってもいいと思ったし、抱かれたいのならばその望を叶えてやろうかとも――――
―――――小十郎には一切その欲は湧かなかったけれども―――――――――思った。そうして佐助が此処で泣くのな
らばそれでもいいだろうと、そう思って、小十郎はちいさく笑う。あんまり佐助を馬鹿にしている。残酷に過ぎる。
第一何をしたいのか、小十郎にも良く解らなかった。
佐助がいつか、どうして泣いているのかを答えることが出来たら、この軋むような感触も何処かに消えるのだろうか。
抱きかけて、止められて、そうして佐助が泣いたときに小十郎はどうしていいか解らなくなった。
佐助が泣いているのは、もしかしたらおのれの為であるのかもしれない。些っともおのれの恋情に応えるつもりもない
男が、執拗に追ってくることにこの男は泣いているのかもしれない。
そうだとしても、小十郎は佐助の手を離すつもりにはなれない。
「泣けと言ってるんじゃあない」
それが事実なのかどうかも小十郎には解らなかった。
佐助が泣きながらおのれの背中に腕を回してくるのを小十郎は生理的な嫌悪感を押さえ込んで黙って受け入れた。信じ
るよ、と言う佐助の言葉がひどく耳に痛かった。佐助は小十郎のことを、砂の一欠片ほども信じてはいないからだ。
腹立たしい。佐助はずうっと、俺を見ないなら近寄るなとそう言うけれども、こちらはこんなにも見たくないものを見
せつけられて、それであんたは俺を見ていないなどとどの口で言うのだ。そう思った。
沸き上がるような怒りと嫌悪は、欲の衝動にも何処か似通っていて、そのままにこの男をもしかしたら抱けるかもしれ
ないと小十郎はふと思ったけれども、結局そこで佐助を抱くことはしなかった。
抱いたとしても、矢張り佐助は小十郎が見ているのが佐助だとは信じなかったに決まっている。そんな無意味な行為を
したところで、何処にも軋む痛みは消えていかない。口付けもなにもかも、佐助がするのならば勝手にすればいいけれ
ども、幾らしたところで一切の価値が発生しないその無生産的な行為は嘔吐く程に感傷的である。
佐助は縋るように小十郎にしがみついてくる。
爪が立てられる。痛みが背中に走る。小十郎は急にまるで水のなかにでも放り出されたように呼吸が出来なくなるよう
な心地になる。無論息は出来る。それでも胸の上が締めつけられるような感触がする。恋うているのではない。ただひ
どく空っぽな、とんでもなく虚ろな、そういう感触がする。
見ているのに見ていないと思われている。巫山戯るなと叫びたいような衝動が襲ってくる。叫んで後でなにをしたいの
かはっきりとしないので、小十郎は黙り込んで、ただ佐助の背中に腕を回す。
からりと障子が開いた。
顔をあげると、佐助が驚いたように目を丸めている。
「あんた、どうしてまだ起きてンのさ」
「俺が何時寝ようとおまえさんに関係はねェだろう」
「そうだけど」
既に空は白み始めていた。
佐助が帰る刻である。ただ佐助はそこに小十郎が起き上がっていることに戸惑ったのか、なかなか枕元に畳んであるお
のれの装束に手を伸ばそうとはしない。帰らないのかと問うと、帰るけどさと矢張り口ごもった。
小十郎は髪を掻き上げて、腕を突いて佐助を眺める。眺められていると気が張るのか、佐助は襦袢を脱ごうとはしない。
とっとと帰れよと吐き捨てると、意を決したように襟に手をかける。するりと上半身が顕わになる。うっすらと差し込
んでいる月のひかりがそれを映し出す。傷一つない肢体は、普段日に当たらぬからかひどくしろい。必要最低限の薄い
肉と筋しかない。決して細いわけではないけれども、何となく存在感が薄いような気がした。
かちりかちりと具足が付けられていく。露出しているものが無くなっていく。最後に顔に額当が付けられて、顔すらも
覆われる。特にそれに対してなにかしらの感触を抱くことはない。どうせこの男は、全てを顕わにしたとしても小十郎
に一欠片の中身とて渡すつもりなどないのだ。
「もう行くのか」
「ええ、まあね。第一俺が居ると、あんたが寝れねえみてえだからさ」
くつくつと笑って、ごめんね、と佐助はちいさく言う。
小十郎は何も返さず、ただ仏頂面になる。佐助はけらけらと高い笑い声を立てる。
とっとと寝ることだね御家老様。佐助はそう言って、口元を隠すように中に着ている黒い装束を引っ張り上げ、一歩後
ろに下がる。小十郎はそれを目で追った。じゃあね、と佐助が言う。小十郎は答えない。
応えぬ代わりに、腕を伸ばして足を取った。
佐助の体がひくりと揺れる。
「どうしたの」
「何でも」
「手、離してくれよ」
「振り払えばいいだろう」
佐助の顔が歪む。
小十郎はそれを見上げて、それから更に腕を伸ばして今度は手を取った。
すこし力を入れて引き下ろすと、直ぐに佐助はすとんと腰を下ろした。困ったような顔をしている。
「俺、帰らねえと」
「そうか」
「どうしたのさ、ほんとに」
「なんでもねェよ」
吐き捨てて、佐助の手を離す。
帰ればいいと言ってやる。佐助はまだ戸惑ったように小十郎の顔を覗き込んでいる。小十郎は視線を落として、ゆるゆ
ると息を吐いた。息苦しい、と思った。佐助が傍に居ると、由もなく、時折急に息が出来なくなる。
なんかあったの、と佐助が低い声を、もう形にならぬほどにちいさくして問いかける。それはこっちの台詞だと小十郎
は苛立たしく思った。おまえが泣くから、俺がこんな風に気を揉まなけりゃならねェんだろうが。ただそれはおのれが
望んだことでもあったので、あんまり身勝手でまるで駄々子のようで言うことは躊躇われる。
好き好んで、この男に泣いて欲しいなどとはまるで思わない。
ただこの男が此処以外で泣くことが許せないだけだ。
「そりゃあ、あんたが考えてることなんて俺には言えやしないわな」
佐助はちいさな声で笑って、小十郎の髪にてのひらを置いた。
ぞくりと背筋に悪寒が走る。おのれに劣情を抱いている男に触れられることは、決して心地よくはない。佐助はひくり
と微かに揺れた小十郎の体に気付いたのか、すぐにその手を引いた。困ったように笑って、帰るね、とまた言う。小十
郎は引いて佐助の膝に落ちようとしている手を捕まえる。佐助が息を飲む。
今日のあんたはどっか可笑しいよと佐助は言う。そうかもしれないと小十郎は思う。
「何がしたいんだよ」
そんなことは小十郎にも解らない。
しばらく黙り込んでいる。そのうちに佐助は諦めたように息をひとつ吐いて、腕を伸ばして小十郎のほおに触れた。体
が拒絶しないように小十郎は息を止めた。佐助の手は手甲が既に填められているのでひやりとつめたい。それがするす
ると降りて、背中に回る。引き寄せられて、佐助の肩に顎が乗る。小十郎はどうしても湧いてくるいろいろな生理的な
ものを押し込める。佐助の腕に力は込められない。それが小十郎にはひどく苛立たしい。
代わりにこちらから腕の力を強めてみる。佐助がすこし息を詰めているのが解る。この男はおのれに抱き寄せられて息
が出来なくなるのかと知ると、どうしても込み上げるように嫌悪が湧く。それでも小十郎は腕の力を弱めない。
どうしたのさと佐助がまた問うてくる。小十郎は答えずに佐助の髪に指を潜り込ませる。どうしたんだろうなと思う。
佐助は哀れで薄汚く女々しい情けない生き物だ。
体が離される。佐助が小十郎の顔を覗き込む。小十郎は赤いその目をじいと見返す。顔が近付く。唇が触れあう。
小十郎は目を閉じない。ただ佐助を見て、唇が離れていくのを待つ。
唇が離れると、佐助はこくりと首を傾げて、そろそろほんとうに帰れなけりゃ、と眉を下げて笑った。
「そうか」
「うん」
「なら、帰れ」
手を離す。
佐助がほうと息を吐く。
小十郎は舌打ちをこっそりとする。
「それじゃあね」
「あァ」
「おやすみ」
へらりと笑って、佐助は消える。
小十郎は佐助が消えた後もただ佐助が居た場所をぼんやりと眺めて、それから息を吐く。ゆるゆると、ゆるゆると、狭
い場所から無理矢理紡ぎ出すように、慎重に吐き出す。
ひどい矛盾だ、と思った。
笑いたくなった。
息が苦しい。
「―――――――――阿呆くせェ」
見たくもないものをわざわざ引き戻す。
嫌悪に塗れながらもそれと触れ合う。
泣くのを止めさせたい男をおのれで泣かせている。
阿呆らしい。
額にてのひらを押し当てて、そのまま仰向けに布団に倒れ込む。
もうすぐ朝が来る。もう起きなければいけない。あの男のせいだと小十郎は吐き捨てた。
先刻まで佐助の手を握りしめていたおのれの手をしげしげと眺めてみる。これはなんだろうかと小十郎は思う。どうし
てこうも、この手はあの男のそれを手放すことを厭うのだろうか。
些っとも解らない。
ただ息苦しく、滲むように鈍い重みが胸の辺りを抑えつけてきて小十郎はいつものように堪らなくなって、泣いている
のは佐助の筈なのにまるで此方が泣きたいような心地にすらなって、そんな風におのれを苛立たせるあの男への不快感
は日に日に増す。
それでも手は離せない。
別れた後は、もっとそれはひどくなる。
畜生がと吐き捨てる。それは誰に対しての罵倒なのか小十郎にも良く解らない。
小十郎は朝になる世界を横目で眺めながら、刻み込まれた佐助の痕をなぞるように背中に指を這わせて嘆息した。
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「嘘吐き達の幸福な日常」のその後というか小十郎視点。
冒頭の一言は、話の最後の後に続く感じです。
大体において尻軽なうちの小十郎ですが、たまには慎み深くしてみました。そして珍しく両思い。
空天
2007/10/08
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