欲しい物がそれかと問われれば、良く解らない。
すこし考えて―――――結局のところ「全部が欲しい」という答えが浮かんで困ってしまった。
舞
台
裏
で
繰
り
言
を
紅い塊と蒼い塊が橋の中央でぶつかり合っているのを、片倉小十郎は半ば諦めを含んで眺める。
紅い―――――真田幸村は、手負いなのか常よりは勢いが無い。それが解っているのか、小十郎の主の伊達政宗も
戦いながら何処か不満げな顔をしている。それでも危険なことに変わりはない。幸村のふるっているのが槍であり、
それはひとを殺す為のものなのだから、あれの近くにいけば相手がいかなる状態であったとしても、必ず生きて帰
れる保証があるということにはならない。小十郎は眉を寄せ、傍らの木に体をもたれさせた。
沸々と、沸き上がるのは不安か不満か、自身でも計れない。
そのうちに勝負が決した。
槍が舞い上がり、地面に突き刺さる。
小十郎は息を吐いて、体を真っ直ぐに立ち直り、主の元に向かおうと足を一歩踏み出した。
「おっと待った」
腕を取られる。
目を見開いて、小十郎は振り返った。
見知った顔が飄々と笑みを浮かべている。
「どうも、右眼の旦那」
「―――――真田のしのびか」
「覚えていただいていたとは光栄だ」
軽い口調で真田のしのびは―――――猿飛佐助は肩をひょいとあげる。
小十郎は目を細め、何の用だ、と吐き捨てる。その手を離せと凄んでやれば、佐助は首を振ってそうはいかないと
ちらりと笑みを顔に浮かべる。骨がみしりと軋んだ。小十郎は痛みに顔をしかめる。「話を聞いて貰いたいだけ」
と淡々とした口調で続けるしのびの手に込められた力は、女の首なら捻ってやれそうなほどだった。
佐助は小十郎の顔におのれのそれを近付け、口の前に指を一本立てて、声の調子を落とす。
「織田軍が近付いてる」
「―――――何だと」
「静かに」
「確かか」
「確かさ。明智と森だ」
佐助の言葉に小十郎は舌打ちで返す。
織田の三本柱の武将のうち、ふたりである。
さても面倒なと他の兵にも陣を立て直すよう伝える為に佐助の腕を振り払おうとするが、まだ佐助は小十郎の腕を
離そうとはしない。睨み付けるが、益々篭もる力は強まるばかりである。
「あんたには此処に居て貰う」
佐助はそう言った。
小十郎は訝しげに眉を寄せる、と、視界の端の紅と蒼が走り出したのが目に入った。
一声低く唸ってから、佐助に握られたほうとは逆の手で強く佐助の腕を掴み、力を込めるがしのびの顔は憎らしい
ほどひくとも動かない。此処に居て貰うよ、と佐助は言う。なにあのふたりは大したことはねえさ。ひとりずつな
ら怖い相手だけど、ふたり揃っちゃ潰し合うのは目に見えてらあね。
「あんたの主と、俺様の主。ふたり居たら負ける由がない」
「万が一がある。離せ。おまえは此処に居りゃァいい。俺は行く」
「そうはいかない。こっちにも都合があるんでね」
「都合」
小十郎は首を傾げた。
佐助は薄い笑みを顔に浮かべ、何も言わずに視線を主らのほうへ向けた。
小十郎もそれに倣う。ふたりは織田軍が向かっていると思わしき方向へと揃って駆けだしていた。「行こうか」と
佐助はつぶやいて、ふいに姿を消す。小十郎は唸ってからおのれも走り出した。
政宗と幸村の背中を追っていると、何時また来たのか知らぬうちに傍らを駆けていた佐助が「他の兵は呼ばないで
いただけますか」と言った。「あんたも手出しをしないでおくれよ」小十郎は佐助の顔を見ずに、知るか、と吐き、
刀を抜いてなぎ払う。佐助はそれをひょいと避け、やるかい、と目を細めて口角をあげた。
小十郎は足を止める。
「やらねェよ」
何故かは知らない。
しかし赤毛のしのびは、兎も角小十郎の足止めをしたがっている。
刀を鞘に収め、また走り出す。佐助は其処に立ち止まったままのようで、足音は聞こえない。「待てよ」とだけ声
が背中にかかった。待てよ。
待ったほうがいいぜ。
「あんたの為にもね」
小十郎は立ち止まらなかった。
狭い蛇のようにうねうねと曲がりくねった山道には、みっしりと敵兵が密集している。それに向かって一直線に駆
け抜けていく蒼と紅を一心に追っていた小十郎は、ふと足を止めた。
政宗が刀をふるい、幸村が槍をなぎ払う。
敵兵が振り飛ばされ、倒れ、血を流す。
政宗のひどくたのしげな笑い声と、幸村の雄叫びが耳を突き刺す。
紅蓮が舞い上がればそれと奏するように雷鳴が轟いて、そのひかりの眩しさに小十郎は目を細め、唇を引き結び、
知らず下腹の辺りを強く掴んだ。足が動かなくなった。ふたりは小十郎が背後に居ることなど知りもせず、ひたす
らに前へ前へ、前へ、まえへ、
「ほら言った」
すたんと佐助が木から降り立つ。
言葉は揶揄するようなものだったけれども、口調はそう軽いものでもなかった。
小十郎は佐助のほうへは振り向かなかった。ただふたりの背中を凝視し、眉を寄せる。呼吸を忘れていたらしく、
耳が熱くなった。慌てて深く息を吐き、吸う。
いつの間にか視界の端に佐助が居たけれども、それに対して何を思うこともなかった。
今すぐにでもあの場に出ていって、おのれの主の背中を守りたいと思う。
しかしそれをすれば、主はおのれを許さぬだろう。あのきついひとつ目で睨まれ、邪魔だと退けられ、それで済め
ばしめたもの、実際のところそんなことをしてしまえば、相手が小十郎だとて政宗は許すまい。睨み付けて、指一
本触れもせず、嫌悪に満ちた目でおまえは要らんと言われるのが関の山だ。
そんなことになれば、死ねれば良いが、小十郎はそれほどおのれが弱くないのを知っている。
死にもしないで、ひどい醜態を主に曝すことになるだろう。そんなことは些っとも望んではいない。
鬨があがった。伊達の将ふたりが倒れたらしい。地面に縫いつけられていたような足がようやっと動き出したので、
小十郎は佐助をその場に置いて駆けだした。
見つけた主は、どことなく釈然としない顔をしていた。
「政宗様、如何致しましたか」
「あァ、小十郎か―――――いや、なんでもねェよ」
本能寺に行くぜ、と政宗は言う。
小十郎は間髪容れずに御意と頷いた。
真田幸村はそこには居なかった。明智光秀と、森蘭丸の死体が転がっているのみである。虎の若子の行方を聞くべ
きかいなかで小十郎はちらと迷ったけれども、政宗がすぐにその場を後にしてしまったので聞かないままになった。
軍を進め、本能寺のほど近くに陣を張る。
既に夜もとっぷりと更けて、月は禍々しく赤い。
政宗はいつまでも床に就こうとせず、何故だか月を延々と見上げて本陣の真ん中で突っ立っている。小十郎はそれ
を咎めようとして、結局止めた。明日は早いのですから、もうお休みになってくださいと形だけ言い置いて、そこ
を離れる。政宗は小十郎に対して、返事を返すことすらしなかった。
陣幕をばさりとあげ、ばさりとさげる。
小十郎は振り返って、そこに居るであろう主を思って思い切り目を瞑った。
おのれの持ち場に移り、脱いでしまった具足と鎧を再び着ける。政宗は夜のうちに軍を抜け、本能寺に行くのだろ
う。おそらくはそこに真田幸村が居る。そして織田信長も居る。かちりと腕の手甲の留め金を嵌めて、小十郎は息
をゆるゆると吐き出した。膝に額を押し当て「畜生が」と吐き捨てる。
沸々と沸き上がるものが何かなど、無論おのれがいっとう良く知っている。
丑三つ時も過ぎた頃、にわかに本陣から物音がしたと部下のひとりが知らせに来た。
小十郎は頷いて、心配は要らないと言っておのれは政宗の後を追った。引き留める為である。けれども政宗は乗馬
の腕では伊達軍のなかでも抜きん出ていて、なかなか追いつくことが出来ない。
焦燥が募って、胸が灼けた。
本能寺に着き、小十郎は馬から飛び降りる。
歩行であれば追いつくことも出来よう。門を潜ってこうこうと火に覆われている境内に足を踏み入れる。そこらか
しこにごろごろと兵の死体が転がっていて、おのれの主への道を真っ直ぐに示していた。半ば壊れかけの寺社に昇
り、屋根の上を駆け抜ける。ごうごう、ごうごう。紅蓮が音を立てくるくると旋回し、火の粉がほおの皮膚を焼く。
月が赤く、寺社も赤く、おのれの胸のうちを占めるいろもまた赤かった。
小十郎は駆けながら舌打ちをした。
「―――――またか」
足を止めて、踵に体重をくんとかけて振り返り様に刀を抜き払う。
かきんと音を立ててなにか―――――手裏剣が舞い上がり、しゅるしゅると旋回してがちりと瓦を割って屋根に食
い込む。「またですよ」と飄々とした声が炎の舞い上がる音に紛れて小十郎の耳に届いた。
手裏剣を引き抜きながら、佐助がけらけらと笑う。
「あんたも懲りないおひとだ。止めろって言ってンだろう」
「相手は魔王だ。この間のようにはいかねェ」
「だとしても、此処で止まって貰うぜ」
「何故だ」
佐助とて、幸村のしのびだ。
「主の身を、しのびは案じないものか」
佐助は答えない。
代わりに矢張り、けらけらと笑った。
そしてついと丸い目を細めて、腰に収めたかと思った手裏剣を再び抜き去り、とんと屋根を蹴る。小十郎も刀を抜
き、それに備えた。佐助はくるりと宙で一回転してから思い切り手裏剣で斬りかかってきたが、寸でのところでそ
れを止めると、二撃目に出ることはなくすいと一旦身を退いた。そして視線を落とす。
境内のいっとう奥で、全体を火にくるまれた寺社がこうこうと燃えている。
彼処だ、と佐助は言った。
「彼処にあんたの主と、俺の主が居る。もちろん、魔王もね」
こうこうと、全てを燃え尽くさんばりに火が覆っている。
小十郎は熱のせいでだけでなく、つうと米神を伝っていく汗を拭った。
耐えられない。息が苦しい。くらくらと眩暈がする。何故あそこに主はひとりで居るのだと叫びたいような衝動に
襲われた。今すぐにでも、この目の前の赤毛のしのびに背を向けてでも駆けていけたらどれだけいいだろう。
しかしここで背を向ければ、確実にあの男の手裏剣が骨を断ちきり心の臓を貫くことくらいは小十郎も知っている。
死んでしまえば元も子もない。ましてこれは政宗を守る為の場ですらない。此処に主が居ないというのに、何故お
のれが死ななければいけないのか。死ぬつもりはない。命はひとつだ。
使うときは選ばれるべきだと小十郎は思う。
佐助は笑みを浮かべたまま、そうそれがいい、と言った。
「独眼竜と、虎の若子。魔王だってひとりで対するにゃちと重過ぎだ」
負けないよ、と言う。
あんたが居なくてもね、と続ける。
「だから此処に居りゃあいい。命は大事にするもんだぜ、旦那」
「随分な自信だな」
「もちろん、あんたは怖いおひとだ」
佐助はくつりと笑い、手裏剣を放る。
くるりと回ったそれを掴んで、小十郎の鼻先に佐助は突きつけた。
でもね、と言う。でもね、今のあんたなら俺は殺せるよ。小十郎は目を細める。熱に浮かされた竜の右眼のひとり
やふたり、準備運動にもなりゃしねえ、と言われてしまえば、成る程その通りで怒りどころか笑みが顔に浮かぶ。
くつくつと一頻り笑ってから、大分下がったおのれの熱に、小十郎は再び刀を上段に構えた。
殺ってみせろよと煽ったが、佐助は動かない。
能面のような顔で、小十郎をどこか哀れむような顔で見ている。
たん、と屋根を蹴る音がしたのと、背中に瓦が食い込み、喉に手裏剣が突きつけられるのはほぼ同時だった。
「―――――ッ」
卍の型の手裏剣が、ちょうど小十郎の喉のところに隙間が来るようにざくりと屋根に食い込んでいる。
ぐいと腹に佐助の膝が食い込んで、喉の奥から息が不格好に吐き出される。佐助はうっすらと笑いながら手裏剣の
上に手を組んで、首を傾げ、諦めなさいな、と静かに言った。
「悪いね、こっちにも都合があるんだ」
「都合、な」
聞き覚えのある言葉を、忌々しげに繰り返す。
佐助はすこしだけ眉を下げ、悪いな、とまた言う。
「今度、蹴るなり殴るなり好きにしていいからさ」
「そうかよ。終わったら奥州に来い。殺してやる」
「それは勘弁して欲しいなあ―――――なあ、龍の右眼さんよ」
「な、んだ、糞野郎」
「何野郎でも構やしませんがね、まあご覧なさいよ」
佐助はくいと顎で三人が居る寺社を示す。
小十郎は顔を動かせば喉に刃が当たるので、視線だけでそちらを見た。炎は更にその勢いを増して、ごうごうと既
に一本の火柱になっている。「綺麗なことだよ」と佐助は息を吐き出しながらつぶやく。
「天下分け目の大舞台に、これ以上ねえくらいにお誂え向きの舞台だと思わないかい」
派手で、荘厳。
禍々しくッて、刹那的だ。
なあ龍の右眼、まったく綺麗な舞台だと思うだろう。
「でも彼処は俺の場所じゃない。
おんなじように、あんたの場所でもねえんだよ、龍の右眼」
小十郎は視線を佐助に戻した。
佐助の赤い髪と目が、炎のひかりできらきらとことさらにそのいろを主張している。
小十郎はしばらく黙り込んでから、酷ェ顔だな、と言った。酷ェ顔だな、真田のしのびよ。
佐助はすこし目を丸め、それから細める。そしてにいと口角をあげて、あんたもね、と言った。
「あんたも酷い顔だ」
「おまえほどじゃねェ」
「へえ。俺様、どんな顔しちゃってるよ」
「そうだな」
小十郎はすこし間を置いた。
それから、
「許されるなら、今直ぐにでも彼処に割って入って、政宗様をぶっ殺してェって面だぜ」
と言った。
佐助は目を瞑る。
それから惜しいな、と笑った。
ぐぐ、と手裏剣が更に屋根にめり込む。ほとんど刃が喉に突き刺さらんばかりになる。佐助は首をすこし傾けて、
じゃああんたの顔のことも教えてあげましょうか、と月とおんなじように赤い目を細め、低い声で言う。
「あんたの顔はね」
「あァ」
「真田の旦那の首を引っ提げて、あのめらめら滾ってる炎のなかにぽおいって放ってやりたいって顔」
「ほう」
「当たり、だろ」
小十郎は遠からずだ、と口角をあげた。
そいつぁ惜しいな、と佐助もそれに倣う。
ごうとふたりの顔を一際大きく舞い上がる火柱のひかりが照らし出した。佐助は息をひとつ吐いてから、手裏剣を
抜いた。小十郎も立ち上がり、視線を火柱に寄せ、佐助に移そうとしたがそこには何もなかった。小十郎はしばら
くもう何も居ない虚空を眺めてから、屋根を降りて主を探しに駆け出す。
本能寺の周囲を囲む森を探していると、向こう側から歩いてくる主を出会した。政宗は驚いたようにすこしだけひ
とつ目を丸めて、それからばつが悪そうに細め、口を歪める。小十郎は荒いだ息を整え、これは奇遇、と淡々と言
ってやった。これは奇遇、こんなところで如何致しましたか政宗様。政宗は舌打ちでそれに応える。こころなしか
顔が赤く、それは悪戯がばれてしまった悪童にすこし似ていた。
「Shit,てめェ、付けてやがッたな」
「何のことだか小十郎には露ほども」
「食えねェ部下だ」
「そのくらいがあなたには丁度よろしいでしょう」
無理矢理に笑みを浮かべれば、安堵したように政宗も笑う。
本陣へと歩き出せば、小声で「悪かった」という声が前からこぼれる。
小十郎は何か悪さを致しましたか、と言ってやる。政宗はすこし黙って、それから振り返って小十郎の肩をぱしり
と叩いて、今度はすこし歩調を速めて歩き出す。小十郎はくつりと笑い、それを追う。
着物の袷をかろく掴む。
焦燥の渦は、いくらか消えていた。
まさむねさま、と小十郎は主の名を呼んだ。
「政宗様」
「どうした」
政宗は振り返り、小十郎を不思議そうに覗き込んだ。
吊り上がった、切れ長の目は黒く、無論夜であるのでそのなかに何が移り込んでいるかを確認することは出来ない。
けれども小十郎は肩の力をゆるゆると抜いて、ちらりと笑みを浮かべた。
何でも御座いません、と言う。可笑しな奴だな、と政宗が呆れた。
小十郎は笑い声を立てて、
「少々、熱に浮かされましたかな」
と深々とした森に向けてひとりつぶやいた。
真田のしのびが、真実ひとりで奥州に来たのは本能寺での夜から三月ほど経ってからだった。
武田信玄を喪い、軍自体が崩壊寸前まで追い詰められた武田がすこしずつ復興の術を探り、ようやっとそれが軌道
に乗って落ち着いてきたか―――――という、そういう頃である。奥州は冬に入りかける直前で、冬支度に家中の
誰も彼もが忙しない頃であったので、ひょこりと屋根の上から顔を出した他国のしのびの顔は、家中を仕切らねば
ならない身の小十郎には油虫よりも不快なものに映った。
佐助はしのび装束ではなく、平民の形をしていた。
「殴り易いかと思って、こっちのほうが」
年賀の挨拶状を書いている小十郎の傍らに座り込み、佐助はそう言った。
小十郎は視線すら其方に向けず、ああそうかい、と吐き捨てる。一枚書いて、乾かす為に畳の上に広げる。佐助は
それをひょいと避け、他の場所に移り、殴らないのかい、と首を傾げた。
殴られてェのかよ、と小十郎は目を細めて呆れた。
「そういう趣向なら、そういう店に行け」
「そうじゃないけどさ、一応、約束だったし」
「おまえさんが一方的にした約束だろう。俺はしらん」
二枚目を書き終える。
筆を硯に置いて、小十郎は息を吐いた。
体の向きを変えれば、佐助はひょいと体を起こし、目を閉じて小十郎が殴りやすいようになのか顔を上げる。もう
ひとつ小十郎は息を吐いた。そしててのひらを持ち上げ、額をゆるくぺしんと叩く。
阿呆か、と吐き捨てる。
佐助は不思議そうに目をくるりと回した。
「これでいいのかよ」
「いい。興が失せた。帰れ」
「なんかなあ―――――きもちわるいね」
「知るか。おまえを気持ちよくする為に俺を使うな」
「だってさ」
佐助は後ろ手を突いて、天井を仰いだ。
「怒ってるかと思ったンですけどね、相当」
小十郎は黙った。
墨がかすかに付いた指を撫でて、べつに、と返す。
「怒っちゃいねェ。彼処でああなったのは、俺の修練と集中力が足らねェせいで、それ以上も以下もねェよ」
「おお、こいつぁ参った。発言が綺麗過ぎて眩暈がすらあ」
「第一」
真田の為なんだろう、と小十郎は言った。
佐助は目を瞬かせ、それから髪を掻く。御存じで、とばつが悪そうに言う。
後から考えれば解ることだと小十郎は応えた。武田信玄が死んで、軍隊そのものが壊滅しかけ、宿敵との戦いにも身
が入らなくなったあの虎の若子を佐助はどうにかしたかったのだろう。傍らで政宗に率いられれば闘志が湧き立つで
あろうし、政宗に助けられれば屈辱で身は震え、真っ直ぐなあの男であればそれはそのまま生きる糧となる。
小十郎が居ては、邪魔だったのだ。
お見通しか、と佐助は言った。
「怖い怖い」
へらりと笑い、目をゆるく開く。
それから背中を丸め、小十郎の顔を覗き込むように見上げて、でもあれは不正解だったね、じゃあ答え合わせをしな
いかい、と言う。小十郎はすこし首を傾げて、傾げ終わる前に、ああ、と頷いた。
あのときのか、と言うと、佐助がにいと笑う。
「ええ、そいつですよ」
「あれで良いだろう。べつに、外れちゃいねェよ」
「そりゃ誤魔化しだなあ。あんたは俺の正しい答え、聞きたくないの」
「他人がどう主に仕えているかに興味はねェよ」
「つれないねえ、まったく」
佐助はけらけらと笑い、立ち上がった。
すたすたと障子の傍まで行き、勢いよくすぱんと開け放つ。
小十郎はそれを黙って眺めた。雪は降っていないけれども、曇天の空は憂鬱にしろい。木々はどれも裸に剥かれてい
て、いっそ何も生えていない不毛のほうがいくらか温いのではないかというほどにその光景は寒々しい。
佐助はくるりと振り向いて、にいと口角をあげて、大きい城だよな、と言う。
「立派な、良い城だ。手入れが行き届いてる」
「そらァ光栄だ」
「上田もね」
「上田」
「そう、真田の旦那の城もさ」
佐助は急にそう言った。
そしてとろりと溶けた顔で、良い城だぜ、と続ける。
「兵も誰も彼もが良い奴だし、しのびも優秀―――――俺様を除いてもね」
「一言多い野郎だ」
「あんただって思うだろ、良い城だ、良い国だってな」
「まァな」
「でもさ」
声がぐんと低くなる。
からりと佐助は障子を閉じた。
正午にほど近い時刻ではあったけれども、障子を閉じられると途端に座敷は暗くなる。ちりちりと行灯はひとつひか
りを放ってはいるものの、矢張り暗い。佐助はそのなかで、濃い赤の目を細め、ほとんど膝が触れ合う位置まで寄っ
て、小十郎に耳打ちをする。笑みを含んだ、それでも低い声で言う。でもさ。
でもさ、右眼の旦那。
「思わないか」
「何をだ」
「もちろん、あんたはこの城を全部知ってるよな」
「あァ―――――」
小十郎は声を漏らし、それからくつりと笑った。
首をすこし回し、佐助の目を覗き込む。ほとんど線のようになった佐助の目が、満足げに瞬かれた。
「そうだな」
「そうだろう」
「全部、知ってる」
「隅から隅まで、どこもかしこも知らないところなんざ、無いよねえ」
「当然だ。知ってる。抜け道も」
「間道も」
「兵糧は何処にあるか」
「何処の堀がいっとう浅いか」
「将の弱点も」
「軍略の穴も」
「知ってるとも」
「そうだ―――――独眼竜の弱味だって、あんたが誰より知ってる」
佐助は唄うように言って、なあ龍の右眼、と続ける。
なあ龍の右眼、俺もまったくおんなじだ。
忍隊の全容も、上田の城も城下町も、もちろん真田隊の編制も知りきッていて空でも言える。例えばだぜ、と佐助は
前置きをして、小十郎の目を覗き込みながら、例えばだけどね、と繰り返し、
「俺がそれを何処ぞの国に持っていったら、上田の城は明日にも落ちる」
とたのしげに言った。
小十郎も笑みを浮かべ、そうだな、と頷いた。
「落ちるだろうな」
「呆気なくねえ、赤児の腕を捻るよりも、そら簡単だぜ―――――あんたも」
思わないかい、と佐助は言う。
小十郎はすこし考えて、そうだな、とまた言った。
落ちるだろう。米沢の城は明日にも落ちて、政宗は多くの兵を失う。小十郎は何処か―――――何処でも良い。おの
れを欲しいという国はそれこそ両の手ほどもある。そこに寄って、政宗を追い詰めることはひどく、容易い。
目を閉じて、その光景を思い浮かべる。
政宗はひどく憤るだろう。
小十郎を殺したいと思うだろう。
どうして裏切ったのかと詰め寄って―――――戦場で、おのれだけを追うだろう。
あのひとつ目が、あの六爪が、あの雷鳴がただひたすらに小十郎にのみ向けられ、小十郎にだけ鳴り響き、片倉小十
郎を殺す為だけに伊達政宗が戦場を駆ける。
堪らない、と小十郎は思った。
笑みが浮かぶ。てのひらで口を覆った。
目をゆるゆると開くと、直ぐ傍の佐助も目を閉じていた。
「堪ンねえよな」
佐助は笑みを隠さずに、そう言った。
そうだな、と小十郎は三度言った。
「やんねえけどさ―――――多分」
「やらねェよ、余程のことがねェとな」
「だから程々にして欲しいよねえ、あのひとらも戦うの」
「まったくだ」
小十郎は佐助から身を退いて、文机にほおづえを突いた。
ちろちろと燃える蝋燭を眺めながら、身が保たない、と息を吐く。佐助も体を壁にもたれさせて、同意のしるしにか
片手をひょいと挙げた。保たないよ、まったくさ。
あんたのところの御主人は、真田の旦那のことをいつも考えてるかい、と佐助は問う。小十郎は首を振った。政宗は
一国の主である。たとえ執着している相手であったとしても、常に考えていることなどあるわけもなく、そもそも普
段は念頭に置きもしないだろう。あれは非日常なのだ。割合で政宗の思考を測るとしても、幸村のことは決して一分
にもその位置を占めないだろうと小十郎は思う。
真田の旦那もね、と佐助は続ける。
真田の旦那も、普段はあんたの主のことなんか思い出しもしやしねえよ。
佐助はそう言って、急に黙り込んだ。小十郎も黙り込む。ちいさなひかりが、ちろちろひかる。
口を開いたのは、佐助が先だった。
なんでだろうね、と諦めたように言う。
「なんで―――――俺なんかさ」
「あァ」
「四六時中、あのおひとのことばッかなんだぜ。
だって放っておけないし、もちろん主ですしね、それに煩くッてさ、旦那は」
「似たようなもんだ、こっちも」
「なんでだろうねえ」
「さァな」
「なんで」
佐助は忌々しげに吐き捨てる。
「なんで全部掻っ攫われるんだろうな、一瞬で」
不公平だよと佐助は軽い声で言った。
まったく不公平だよな、世の中ってなあさ。小十郎は応えないで、そのまま目を閉じる。ごうごうと、燃えさかる寺
が目に浮かんだ。佐助に止められなければ、おのれは彼処に足を踏み入れただろうか、と考えてみる。
踏み入れただろう。焦燥が体の内からすべて食い尽くすほどだったのだ。
小十郎はきっと寺内へ足を踏み入れ、蒼と紅に対峙しただろう。
そしてそこで絶望的な虚脱感を味わうことになっただろう。
小十郎が足を踏み入れても、主はきっと気付きもしなかった。
目を開く。
佐助は膝に顔を埋めていた。
小十郎はすこし笑い声を立て、そう拗ねるな、と言った。
拗ねてねえよと佐助は言ったけれども、すこし経ってから「そうかも」と首を竦めた。無い物強請りだよなあと言う
佐助に小十郎は鼻を鳴らして、そんなものだと肩を叩いてやった。
精々耐えるとしようと言うと、赤毛の男は間を置いてから手を挙げた。
おわり
|
「佐助は死んでないんだから」話第二弾。
伊達のストーリーモードで真田の傍に佐助が居なくて、一体何処に居るんだあいつはと愚痴っていたら某人
に「佐助死んでんじゃね」と言われて落ち込んだので慌てて書いてみました。死んで ないもん。
伊達のストーリーモードで、佐助どころか途中からこじゅまで居なくなってやる気が著しく削がれた(筆頭
のことも大好きです)私に献げる私による補完話です。さあみんな、こうやって伊達のストーリーモードを
もう一回プレイしてみよう。途端にさすこじゅさすに見えて(来ない)。
そもそもこの話がさすこじゅさすではありません、という話もあります。
空天
2007/12/03
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