風が強い。 月と星が異様にまたたいている。梅雨時のその空模様は貴重で、木の上でそれを見上げながら佐助は目を細めた。小 十郎のはた迷惑な感情に気付いてしまった夜もこんなふうに月が丸かった。佐助はうっすらと笑う。体にまとわりつ いてくる空気はじっとりと水を含んでいる。 春のからりとした空気を思い出した。 小十郎の座敷は中庭に面している。要するに本丸のなかでも中央にちかい。佐助は屋根を渡ってそこまで近づき、 ひょこりと顔を出した。既に刻は夜半を過ぎており、みな寝静まった頃である。渡り廊下にはひとつの影もなかった。 音を立てぬように中庭に降り立つ。小十郎の座敷の障子からは灯りが漏れていた。まだ起きて、なにか政務でもして いるのであろう。わざと音を立てて、ぎしりと渡り廊下に足を踏み入れた。 「誰だ」 よく通る低い声が、呼びかけてきた。 からりと障子を開く。着流し姿の小十郎が、こちらを目を丸くして見上げた。 「・・・おまえ」 「いい晩だねえ」 「帰ったんじゃねェのか」 にこりと笑って、まだ居るでしょう、と言ってやる。 小十郎はすこし黙って、それから息を吐いてからちらりと笑った。武田のしのびは余程暇か、と問われて佐助は眉を しかめる。忙しいよ、と唇を尖らせる。小十郎は文机に肘をついて、どうだかな、と口角をあげた。 「奥州くんだりまでわざわざ来るところを見ると、暇としか思えん」 「そーゆー言い方する?こちとらわざわざあんたに会いに来てやってんのにさ」 「恩着せがましいな」 「あんたに愛想が無さ過ぎんのさ」 障子を閉じて、柱を背に腰を下ろす。 小十郎はそれを目で追いながら、すこしだけその目を細めた。眉を寄せて、なにかを考えるように口元へてのひらを 押しつけている。佐助が首を傾げると、なんでもない、とまるで言い訳でもするように言う。 おい。小十郎が声を漏らす。 今夜は米沢に居るのか、と問われて佐助は黙った。 「・・・さぁて、ね」 座敷のなかは熱がこもって不快だった。 小十郎はそのなかで涼しげな顔をしている。それを見ながら佐助はどうしようか、と思った。これを手に入れる為に 今夜佐助は此処に居る。そのためには抱くのがいっとう手っ取り早い。もしくは小十郎がそうしたいなら抱かれたと しても、そこまで佐助の痛手ではない。 問題は小十郎にはどちらの気も無いだろうということだ。 (面倒くせぇな、無自覚って) こっそりと息を吐く。 試しに、どっちがいい、と問うてみた。小十郎が首を傾げる。 「どっち」 「そう」 「何と何で選べっつってんだ」 「俺が此処に居るのと、居ないのと」 指を二本立てて、へらりと笑う。 小十郎は黙って、てのひらを口に押し当てたままそれをじいと見る。それから言った。おまえ、今日の昼間から何処 かおかしいぞ。ひょいと肩をすくめて佐助は苦く笑った。誰のせいだ、と言ってやりたい。 佐助が答えないでいると、小十郎は呆れたように息を吐いてから眉を寄せて笑うような、しかめっ面のような、どち らとも取れる微妙な顔をしてから、すきにすりゃァいいだろうが、と吐き捨てた。 「どうして俺に聞く」 佐助は両手を挙げて、さあ、と大仰に答える。 飄々とした態度に、小十郎は忌々しげに佐助を睨み付けるがすぐに視線を逸らして息を吐いた。そしてわからんな、 とつぶやくように言う。おまえはわからんな。 「好きにしろ」 居たいなら居ればいい。 佐助はへらりと笑った。小十郎の性格から考えて、これは十二分に肯定の返事である。 佐助の笑顔を眼を細めて眺めながら、小十郎はてのひらを口から離して、二三度顎をさすった。それからおいそこの 暇なしのび、と呼びかける。笑いながらはいなんでしょうね、と言うと、小十郎もすこし目を笑みに歪めた。 「暇だろう」 「そうですねえ」 「じゃァ、ちっと俺に付き合え」 「勿論。お気に召すままに」 大仰に頭を下げると、阿呆、と呆れた声が降ってきた。 ひょいと頭を上げる。夜色の目がひたりと佐助にまとわりついていた。ぞくりとする。欲情や劣情が産まれるわけで はないけれど、あの目は毒だ、と思った。からからと喉の奥がこびり付くように乾く。 (ほしい、な) あの目が。 出来ればずっと、鬱陶しくてたまらなくなるくらいにこっちを見ていればいい、と。 思った。 水を求める木乃伊のように、切実にただ思った。 小十郎は佐助に目をひたりと合わせたままに、足を崩して言った。 「話せ」 なにを、と問う。 なんでも、と小十郎は言った。 「なんでもと言われても、ねえ」 「てめェの書状にゃてめェのことが書いてねえんだよ」 「たのしくないよ」 「それは俺が決める」 「気が進まねえな」 おのれの中身を吐露するなど、考えるだけで虫酸がはしる。 大体おのれの中身などたかが知れているだろう、と思う。しのびにおのれの感情など一切必要ではなく、あればむし ろ邪魔になる。答えない佐助に、小十郎はしびれをきらしたようにもういい、と目を伏せた。 俺が聞く、と言う。 「主が大事か」 唐突にそれだけ問われて佐助は目を丸めた。 「なーにをいきなり」 「そうかね」 「そうだよ、話の脈絡が一切掴めない」 小十郎はそうかね、とまた言う。 とぼけているつもりではないのだろう。が、こういうこの男を見ていると佐助は苛ついて仕様がない。なので、断ち 切るように大事だよ、と言ってやる。小十郎は頷いて、また口を開いた。 そういうてめェが気にくわないだろう、と言う。 「なに、を」 思わず息が詰まった。 「・・・言うのさ」 「どうだ」 「おかしな質問だ」 すこし笑ってそう返した。 小十郎は黙ったまま佐助を眺めている。視線を逸らしたら負けるような気がして懸命に合わせたけれど、とうとう耐 えきれなくなって佐助は両のてのひらを顔の前にかざした。 降参、と笑う。 「そうだね。そうだよ。認めてあげよう。 たしかに俺は真田の旦那を大事な俺が、反吐が出るほどだいきらいだ」 幸村はひどくきれいな生き物だ。 そういう幸村から比べてみれば獣にも劣るような佐助が、幸村をいつくしむのはなんだか滑稽な気がして気恥ずかし く、それ以上に滑稽でしかない。それでも分不相応なそれを佐助はおのれに許している。 誰にも気付かれぬなら、と甘ったれたことをおのれ自身に言い訳をする。 「どうしてわかっちまうかねえ」 佐助は泣きそうな顔で笑った。 隠してるつもりなんだけどね。そう言うと、小十郎はおかしな顔をした。どこか、困っているような顔に見えた。佐 助はまた笑った。困るのはこっちだよ、とこっそりとつぶやく。誰にも知られることなくきたおのれの中身が、いと も簡単に目の前の男の手のなかにあることがおそろしく、おんなじくらいあまやかに体の奥へと染みこんでいく。 おのれを知る人間が存在するというのはこんなにもぬるまったく痛いほどにしあわせなのだ、と。 知らない温度が体の中を満たして、溢れてあやうく涙になりかけた。 小十郎は佐助を見ている。 視線を逸らさないままで、どうしてだろうな、とつぶやく。 「隠してんのか」 「隠してましたよ、これでもね」 そうか、と。 小十郎はどこか不思議そうに言った。 どうしてだろうな、と小十郎は言った。どっちだろうかと佐助は思う。佐助の問いを復唱しただけなのか、それとも 今のは、おのれへの問いかけだろうか。 どうしてだろう、と。 佐助は首を傾げて、ものを知らぬ童になにかを教えるようにゆっくりと問うた。 「あんたは、どうして、俺がわかっちまうの」 どうして小十郎は佐助を理解するのだろう。 見ているからだ、と佐助は知っている。が、小十郎は知らぬ筈である。案の定家老は眉をひそめた。あんた以外にそ んなこと言ったひとは誰も居なかったよ。大体そもそも、俺なんぞに気を向けるひとなんて居やしねえんだからさ。 ねえ。 佐助は笑う。 「ねえ、なんでさ」 背中に柱の角があたって、すこし痛んだ。 小十郎は黙って、笑う佐助の顔をぼうと眺めている。何を言っているか理解ができぬというような顔をしばらくはさ らしていたが、ふいにその胡乱な目が見開かれた。引き結ばれていた唇がうっすらと開く。ちいさな声が漏れた。 おい、と小十郎は佐助に逆に声をかけてきた。まず、俺からだ、と言う。 「もうひとつ、聞く」 「俺の問いに答えてねーよ」 「後だ」 「我が儘なおひとだこと」 佐助は歪んだ笑みをこぼした。 じれったくて、悠長な小十郎が苛立たしい。 (まだ駄目かなあ) あんまり急いてしまってもいけないとは解っている。 が、小十郎が佐助のことをあんまり知っているから、体のほうが言うことを聞いてくれない。 「じゃあいいけど、外に出ませんかね」 すくりと立ち上がって佐助は言った。 此処はえらく蒸すよ。そう言うと、小十郎もそうだな、と頷いた。密室に居ると隙あらばなんとか小十郎を押し倒す かなにかしてしまいそうだった。劣情を感じるわけでもないのに、と佐助はうすく笑う。 一刻も早くあれがずっとおのれのものだと確認したい、と思うと乱れぬ筈のしのびの鼓動が震えるような気がして、 こっそり手を左胸にやった。とくとくと、それは規則的に動いていたのですこしがっかりする。 からりと障子を開く。月は丁度中庭の真上にきていて、桜の木の若葉がしらじらとひかっていた。 佐助の横を、小十郎が通り抜けていく。 「もう、問うても構わんか」 中庭に下りて、振り返り小十郎はそう言った。 佐助が頷くと小十郎も頷いて、 「俺は、おまえを見ていたか」 と。 静かに言った。 こんなときでもおのれの心臓は乱れぬのだと佐助は殆ど感心した。 小十郎は相も変わらずこちらを見ている。動揺が顔に表れぬように佐助は深呼吸代わりに、ひとつ笑った。 「なんでそんなこと聞くの」 「おまえ」 俺の姉に会っただろう。 そう言われて佐助は首を傾げる。今日の昼間だ、と言われてもなお最初はよくわからなかったけれど、しばらく考え てからああ、と思い当たる。小十郎の居場所を教えてくれた女房がそういえば、居た。 「あれ?」 「それ、だ」 苦く笑って小十郎が頷く。 「姉上は質素な衣服をおこのみだからな」 「へえ・・・・全然似てねえな」 「うるせェよ。それで、言われた」 また悪い癖が出てると。 悪い癖。佐助が繰り返すと小十郎は苦い顔のままに頷いた。言い訳をするように、龍の右眼とも思えぬ歯切れの悪い 口調で、俺にそのつもりはねえんだが、と続ける。姉上が仰るのだ。 「・・・見てる、て?」 「あァ」 「わるい、くせ?」 「らしい」 見ていたか、とまた小十郎は窺うように問うてくる。 佐助はすこし迷ったが頷いた。 「すごい見てた。めっちゃ見てた」 「・・・そうかよ」 「ていうか悪い癖って」 「あァ」 そうらしい、と小十郎は眉を寄せたまま視線を下に落とした。 佐助も眉を寄せて、こちらは首を傾げる。ひとを見るのが悪い癖、ということだろうか。よくわからない。よくわか んないんだけど、と言うと、小十郎は俺もだ阿呆、と八つ当たり気味に吐き捨てた。 それから、諦めたように息をひとつ吐く。 「まだ」 十かそこらだったときだが、と小十郎は言う。 唐突にはじまった昔話に佐助は困惑したけれど、黙って聞いた。小十郎は無駄話がすきな男ではない。会話は常に、 もっとも最短距離で目的地まで辿り着くように構成する男である。 淡々と小十郎は続けた。 「まだ伊達家にも仕えてねえような頃で、実家で剣術を指南していた師匠に襲われた」 「・・・・・・・・・・・・・はああぁ?」 佐助は思わず思い切り素っ頓狂な声を漏らした。 ひどく、衝撃的なことをやはり淡々と続ける小十郎は更におなじような――そんなに何回もあるとも思えぬようなそ れを――いくつも並べ立てる。指一本触れていないような重臣の娘からあなたのおきもちは承知していますと押しか けられただとか、家臣のひとりに小十郎様だったら俺大丈夫ですと寝所に詰め寄られただとか、途中で並べるのがい やになったのか小十郎は唐突にそれを止めた。 そして、どうも癖らしい、と言う。 「見ちまうんだとよ」 興味のあるものを。 「俺は知らん。そんなことを言われても身に覚えはねェ。 が、どうやら姉上に言わせると餓鬼の頃からそうらしいからたぶん本当なんだろうが」 「ちょっと待って」 「何だ」 「それ、恋とかじゃないの」 「・・・気色悪いことをぬかすな」 師匠は老人だったし、重臣の娘は既に祝言が決まっていたし家臣は男だ。俺よりでけえ。 小十郎は何を言うのかと佐助を睨み付けるが、佐助のほうはそれどころではない。むしろ小十郎の悪行にくらくらと 眩暈がした。要するに弱冠十の折に師匠の社会的地位を崩壊させ、うら若き娘の未来を無き物にし、純粋な――とい うことにしておく――家臣の決死の忠義心を袖にしているわけだ、すくなくとも。無自覚だからと言って許される範 囲を超えているような気がした。 (つーか俺も被害者じゃね、これ) 興味と恋はちがう。 もしかしなくても、佐助へのそれも恋ではないということだ。 「・・・だから、どうなんだ」 小十郎はなぜか佐助に問うてくる。 問いたいのはこっちだよ、と佐助は思ったしついでに言った。 もしほんとうにそうなら、盛り上がっていた佐助は完全に道化でしかない。小十郎は眉を寄せて腕を組んで、だから わからんと言っている、と不機嫌そうに言った。姉上は仰る、と続ける。興味のあるものを凝視するのはおよしなさ い、あなたの視線は刺激が強すぎます。それに理解するとすぐに止めてしまうのも酷いことです。 「前に自害しかけたやつが居てな」 「・・・・じがい」 「俺に棄てられたとかなんとか叫いてやがったが」 「あんた最低だな」 「知らんと言っている」 無自覚な外道はそうのたまった。 佐助は息を吐いて、それでなにがどうなんだなのさ、と聞いてやった。腹が立つとか裏切られたとか、かなしいだと かそういう前に、ああこのおひとっぽいなあという感情が先に立って笑ってしまいそうになった。 小十郎はああ、と気付いたようにちいさく頷いて、だったらおかしいだろう、と言う。 「俺はおまえを見ていたんだろう」 「見てましたねえ」 「今もか」 「ん?」 「今も」 「今も、俺はおまえを見てるか」 問われて、佐助は黙った。 小十郎の問いの意図は明確だった。 (このひとは俺を理解してる) 佐助にとって真田幸村がどういう存在かを、小十郎は知っている。 佐助のなかにそれ以上はない。小十郎は佐助を理解した。ではもう見る必要はなくなっているはずで、それでももし おのれが佐助を見続けているのならば姉の言うことが当て嵌まらない。そういうことだ。 佐助は髪を掻きながら、ええっと、と口ごもる。 「・・・見てる、けど」 相変わらず小十郎の目は佐助を見据え続けている。 佐助の答えに小十郎は目を細めて、だからそれはどうなんだ、と言う。 「俺はどうして、まだおまえを見てる」 言われても困る。 佐助は顔を思い切り面倒くさそうにしかめた。 調子に乗っていいのか、これは。ああやっぱりこのひとは俺をすきなんだ、と盛り上がって良いのだろうか。だって 小十郎の言い方はまるっきり告白に聞こえる。もしこれが女だったら、どうして私はあなたを見てしまうのかしらな どと言われたら佐助は迷わずやさしく抱き締めてやるのだけれど、生憎小十郎は男だった。しかも、ほんとうにこれ が恋なのかどうかはまだ微妙なところというおまけまでつく。いやでも心臓あんなに鳴ってたじゃんと佐助は一瞬期 待したけれど、よく考えればおのれと違って小十郎は腕は立つとはいえ一般人なのだから他人にあそこまで寄られれ ば、鼓動のひとつやふたつ高鳴るやもしれない。 まだ佐助を理解しきっていない、と小十郎が無意識に思っているという可能性は大いにある。 嗚呼。 佐助は息を吐いた。 (すげぇ面倒なひとだな) こっそりと小十郎に視線をやる。 伊達家の家老は、しかめ面をして佐助を真っ直ぐに見据えている。これが恋じゃないと言うのだから、まったく外道 としか言い様がない。仕様がないおひとだね、と佐助はへらりと笑った。 ひらひらと、手で小十郎を招く。不思議そうな顔をして、小十郎は渡り廊下のすぐ傍まで寄った。 眼下に月に照らされる小十郎の顔がある。 それを手で包み込んで、佐助は言い聞かせるように問うた。 「ねえ、片倉の旦那」 こうされるのは、きもちわるいかな。 小十郎は目を二三度またたかせてから、べつに、と言った。 「触るだけだろう」 「やじゃない?」 「べつに」 「そう」 問うているほうがくすぐったくなる。 佐助は困ったように笑って、それからその手をするりと落として、胸元で組まれている小十郎の手の甲に重ねた。こ れはいや、とまた問う。小十郎は眉をしかめた。べつにいやじゃねェが、と言う。 「おまえ、何がしてェんだ」 小十郎の問いに、ひょいと肩を上げる。 佐助のしたいことなど、最初から決まっている。ねえかたくらのだんな。佐助は口角をにいと上げて、掴んだ小十郎 の手を引いてすとんと廊下に腰を下ろす。 月を背にする小十郎を見上げてへらりと笑った。 「俺はあんたにそうやって見られるのが、すごくすき」 それがほしい。 恋であろうとなかろうと、そんなことはどうだっていい。 どちらにしたって、小十郎だけが佐助のことを見つけてそして笑ったのだ。知りたいと思ったのだ。それに恋でなく とも、否、恋でなかったとしたら尚更に。 小十郎はまだ佐助を知りたいと思っている。 (恥ずかしいひと) 顔が熱くて仕様がない。 それを振り切るように、殊更に明るく佐助は言った。 「もうそれでいいんじゃねえの」 「それ」 「そう」 「それって何の話だ」 「俺はあんたに見られるのがすき。あんたはまだ俺を見てる」 いいじゃない、それで。 訝しげに見下ろしてくる小十郎に、出来うる限りの満面の笑みで返す。 「もうさ、これは」 知ってもまだなお相手を知りたいと思って。 相手の視線が欲しくて仕様がなくて。 触れた皮膚からの相手の温度がおどろくほどに自然で。 月のひかりを浴びている相手から視線を外せないならそれはもう。 「恋ってことで、いいじゃん」 すきだよ、あんたの目がさ。 佐助は笑って、絡めた手を持ち上げてちいさく口づけた。 「あんたはどう」 俺のこと、すきじゃない。 小十郎は目を丸めて、手を引いた。意味が分からん、としかめ面で睨み付けてくる。 そりゃあいいね。佐助はまた笑って、立ち上がって小十郎の顔を覗き込む。あんたは俺を知りきるまで、見ちゃうん だからね。そうしたらあの目は佐助のものだ。そう思ったら、恥ずかしい以上に口元が緩んだ。 とんとん、と小十郎の左胸を叩いた。 訝しげな小十郎に、手を当ててみなよ、と言う。鼓動は跳ねているだろうか。いきなり同性にこんなことを言われた のだから、さぞかし驚いていることだろう。言われたとおりに胸に手を当てた小十郎の眉が不愉快げに寄る。 ほぅらね、と佐助は言った。 あんたも俺がすきで仕様がないんだ。 「気付いてなかった?」 胸に押し当ててある手を取って、笑ってやる。 勘違いだろうと何だろうと、そう思ったらそれが事実だ。 小十郎は黙り込んで、重なっている佐助とおのれの手を凝視している。体を屈めてその顔を覗き込んだ。ねえ。笑い ながら呼びかける。 ねえかたくらのだんな。 「知ってよ」 「・・・あァ?」 「俺のこと、もっといっぱい知って。俺がうんざりするくらいに」 「意味が」 「だいじょーぶ」 わからない、と続ける前に遮った。 「俺がぜんぶ、教えてあげるから安心しなって」 でも俺のことはあんたが自分で知ってくれよ。 ちゃんと見ろよ。 余所見は駄目だよ。 続けざまに言うと小十郎は口をつぐんで眉をしかめて、容量がいっぱいになった頭を整理しようとするように視線を 逸らした。すかさず手を頭に添えて、無理矢理に視線を合わせる。 冷静に考えられて、勘違いだと気付かれたらたまらない。 (まあほんとに恋かもしんないけどね) こっそりと胸のうちでこぼす。 小十郎の笑みはやわらかかったし、文はあんなに降り積もってまだ消えない。ほんとうに佐助の中身はもうなんにも ないので、小十郎はとうに佐助のことなど知りきっている。 まあいいや保険はだいじだよね、と佐助は思った。 どうしてもあれを手放したくない。 手段は選ぶまい。 無理矢理視線を合わされて、不機嫌そのものの小十郎に佐助は満面の笑みですきだよ、と言ってやった。 「あんたもはやくわかるといいね」 言い聞かせるように言う。 勘違いだって、きっとそのうち事実になるだろう。佐助が横で言い続ければ。 小十郎は黙って佐助の手を振り払う。それを笑いながら避けて、佐助はねえ来年桜を一緒に見に行こうねと言った。 「桜」 「そう」 「・・・花を、か?」 おかしな質問に、それでも佐助は笑って答える。 「どっちも」 花も葉桜も。 あんたとだったらすきになれるきがする。そう言ったら、小十郎は簡単だな、と呆れたようにこぼした。佐助はけら けら笑いながら、そりゃあ簡単だよ、と言ってやる。きっとあんたもすきになれるよ。 若葉がきらきらと月に照らされるのを眺めながら、小十郎は髪を掻きむしっている。うっとりとそれを眺めて、佐助 は見に行きましょうねえ、と詠うように言った。俺はてめェに惚れてなんぞいねェ、と往生際悪く言う小十郎に、佐 助はひょいと肩をあげてまあ気長に待ってあげるとうそぶいた。 「教えてあげますよ、まあ追々ね」 佐助に都合のいい嘘を。 信じてしまったらそれは小十郎のせいだ。佐助は悪くない。 最初に勘違いさせたのはそっちなんだからな、と三日月のような唇で佐助は笑った。 梅雨が行ってしまって夏が満ちてそれから引いて。 桜の葉が赤や橙に色づきはじめた頃、疲れたように小十郎は息を吐いた。 「・・・もうそれでいい」 佐助は笑って小十郎に口づける。 抱き締めたらやはり鼓動はことこと煩くて、やっぱりこれも恋ってことでいいだろう、と。 (だましてんじゃないよね) 恋ですもの。 そういうことにした。 春にはじまった薄紅色の憂鬱は、こうして秋に恋になった。 おわり |