要するに相手が騙したのではなくておのれが騙されたのだ。



























                      朱 色 の 吐 息






























ひたりとしがみついてくる体温は温い。
片倉小十郎は煙管をくるりと指で回して、それから肘でその体温を押しのけた。よく響く低い声が、苦しげな呻き声を
あげるが構わずに更に押しのける。りぃん、と虫の鳴く声が鼓膜を揺らす。奥州にはもう秋が満ちていて、夜には黒で
しかないけれど、日が昇ればあざやかに彩られた朱や黄のいろが木々から溢れている。
くつくつと笑う声が寝具のなかでこもって聞こえた。ひょいと赤い頭がのぞく。
武田のしのびの猿飛佐助は、笑いながら髪を掻き上げた。

「つれないおひとだね」
「鬱陶しい」
「またまたー。寒くなってきたからひっついてたほうが、嬉しいでしょう」

長い腕が伸びて、首に巻き付いてくる。
小十郎はそれを除けようと煙管を盆に置いて手を伸ばそうとしたが、白い手の甲に指が触れたしゅんかんにきゅ、と掴
まれてすとん、と視点が回転する。天井が見えた。佐助の体越しなのでほとんどは見えない。
若葉色の染料を落としている佐助の顔は、闇のなかで見てもまっしろで死人のように見えた。

「嬉しいでしょう」

しのびはゆっくりと同じ言葉を繰り返す。
小十郎は黙った。細い指が蛇のようにおのれのほおに伸びて、それから這う。
指の先まで佐助の体は熱が通っていて、冷たさを好まない小十郎を溶かすように包んでくる。もういちど、嬉しいよね
と問われて小十郎は忌々しげに知らんと答えた。
佐助は笑いながら指をすいと首元へ移して、唇を代わりにほおに落とす。
虫の悲鳴しかない座敷のなかで、皮膚が接触する音がいやに大きく響いて小十郎は目を閉じる。

「駄目でしょ」

閉じた目に唇が落ちてきた。
開くと、佐助がほおを膨らませている。

「閉じないでよ」
「何故」
「なんでも、さ」

佐助は笑う。
すこし困ったような、眉が下がった情けない顔になる。
小十郎はそれを見上げながら、なんだろうと思う。時折武田のしのびはこういう顔をする。大体において勝手で気紛れ
でなにを考えているか一向に知らせぬ男が、見せつけてくるように零す表情の意味を小十郎は知らない。
なんだろう、と思う。

「何を考えてる」

そう問うたら、佐助はうっとりと手を髪に差し込んできた。
そして言う。

「考えてくださいな」

長い指が探るように髪を撫でる。
その感触が心地よくて、小十郎はひとつ息を吐いて佐助の背中に腕を回した。

















他国のしのびでしかなかった男が、どうやら特別になったのは春が終わって夏が訪れるすこし前だった。
若葉が目に染みるほどの鮮やかな緑を巻き散らして、それを押し流そうとするように雨が大量に降った。佐助は春の頃
から交わすようになっていた書状をたずさえて、月の夜に米沢の城に訪れる。
佐助は雨が降らぬ日にだけ訪れる。

そしてどうやら其処で佐助は特別になった。
















猿飛佐助という男を、以前からおもしろいとは思っていた。
主をこんなふうに慕う者が居るのだと知ったときはほとんど感動すらした。距離を持って、おのれの欲を抑えて、客観
的に見ながらも視線を逸らすことはしない。おのれを顧みたら嗤うしかなかった。
長くしがみつきたいじゃない。佐助はそう言って笑ったけれど、しがみつくどころか主を絡め取ろうとしているおのれ
の醜さが、識ってはいたけれどこんなにも芯から知らされたのははじめだった。
汚いな、と単純に思った。

――――認めさえいねェのか、俺は。

そう思ったら嗤う以外の術はなく、



認めている佐助はひどくきれいに見えた。



止めてよ、ときっと言うだろうと思う。
小十郎も何処がと問われればよく分からぬ。ただ佐助はなにもないと言うけれど、空っぽだと笑うけれども、小十郎に
はすくなくともなにか鈍くひかる―――もしかしたらひとから見れば石ころのようなものであったとしても、そういう
なにか、きらきらとしたものが見えたような気がした。
否。正確に言うならば、見た。

錯覚であってもそれは、小十郎にとっては其処にあった。

術を識らぬという佐助がそれでも書いてくる書状は興味深かったし、返書をするのも苦痛ではなかった。佐助の零す言
葉を聞きたいとひどく単純に思った。ああなりたいなどと思うわけではなかった。小十郎には小十郎しか歩めぬ道があ
って、そこを選び取ってきたのは他ならぬおのれである。伊達政宗が居ないおのれなど想像することすら無意味である
し、それを手放せぬおのれをどれだけ厭うても今更仕様がない。
そういう複雑な思考はなくて、ただ猿飛佐助とはどういう男なのだろう、と。

思った。
佐助はそれを恋だと言う。
小十郎には、わからぬ。

そういうあまやかななにかを、あの男に感じているとは思えない。
だって小十郎の感情の全部はもう主のもので、あとはなにも残っていはないのだ。なにもありゃあしねェぜ、と言って
やった。ありますってと佐助は返す。なにがだと問うと俺への愛に決まってるでしょうよ、と。
佐助は笑う。
小十郎は困り果てた。

(ないんだが)

佐助を知りたいとは思う。
知ってくれと佐助は言う。

「恋でいいじゃない」

そうやって笑う。
ただ笑うだけなら振り払っても構わぬ。まとわりついてくる体温は、そうやって言われたその頃にはひどく暑苦しくて
鬱陶しいものでしかなかった。夏の、肌に突き刺さってくるような日のひかりの下で、まっしろな顔をしたしのびはけ
れど、ひどく不安げに笑うのだ。
そして言う。
すきでしょう。

「俺のこと、すきでしょう」

縋るような目だと思った。
小十郎に縋ったところで、出てくるものはなにもない。
それでもそれしか言葉を知らぬ白痴のように、佐助は小十郎に何度も何度もそれを言った。昼がいっとう長くなる頃に
小十郎はそれが厭わしくなくなった。昼が夜にすこしずつ押しやられるのと歩を同じくするように、佐助をすこしずつ
あわれに思うようになった。
そうしているうちに体をまとう空気がひどく冷たくなる。

佐助を拒否する理由が何処かに落っこちてしまって、見つからなくなった。

伸ばされた手を受け入れたら、佐助はひどくたのしそうに笑う。
木々が赤くなり始めていて、時折視線の端にそれが入ると佐助が其処に居るような気がした。

「そりゃ恋ですよ」
「こい」
「そう」
「そうは思えん」
「そうは思えなくても、恋なんだって」

紅葉とおなじいろの目を細くして、佐助はそう言う。
頷いてしまったのは、騙されたというよりは騙されてやりたくなったからかもしれない。
それから寒かったからだ。佐助のぬるい体温を振り払うのを止めたときに小十郎はおのれにそうやって言い訳をした。






































肩が乱暴に揺すられて、意識を底のほうから引きずり出された。
うっすらと目を開くとまだ辺りは闇である。先刻意識を飛ばしてからまだそれほどの刻は過ぎてはいないようだった。
体のうえに重さを感じて、小十郎はついと視線をあげる。
夜に染まった目にぶつかった。

「あ、起きた」

にいとその目が細められる。

「変な夢見ちまったよ」

体のうえの男が苦々しげに吐き捨てる。
小十郎は未だはっきりとしない頭で、ぼんやりと男を見上げた。先刻まで体を合わせていた相手は猿飛佐助なのだから
当然のようにこの男も猿飛佐助なのであろう。そうは思ったけれど、常ならば朝になれば消えている男が未だここに居
ることと、それから夜に消えるからであろうか、男のまとう装束は闇色だったことが呆けた頭のなかでそのふたりを繋
げようとしない。
男は小十郎の胸元に顔をひたりとつけて、ほうと息を吐く。

「あんたがさ」
「・・・あァ」
「あんたがね、起きたら俺のこと知らねーとか言い出すんだぜ」

最悪。
もぞもぞと長い指があらぬ場所を探っている。
小十郎は眉をひそめた。気休め程度に引っかけてある襦袢がするすると解かれていく。押しのけようとして手を伸ばす
が、逆に掴まれて手首に口づけられた。
酷いったらないよね、と手首のところで唇がうごめく。

「珍しく俺が行こうとしたらあんたが起きててさ」

小十郎は障子を開いて外を見ていたのだと言う。
襦袢一枚をまとっているだけである。冷たい空気のなかでそうやって立っている小十郎に呼びかけた。振り返った小十
郎は眉を寄せて、ひとこと言い捨てた。

――――誰だ、てめェは。

夜色の目がひどく冷たくてぞっとしたのだと男は言う。
そんなことを言われても小十郎にはどうしようもない。闇のなかで見ると常は赤い目や髪が闇に溶けて黒くなって、は
てこれはほんとうに猿飛佐助であろうかと小十郎は思った。しのび装束が黒い。髪も目も黒い。小十郎の知っているあ
の男は、赤と緑である。

「確認させてもらいますよーっと」

黒い男が胸元から顔をあげて、にいと視線を合わせてくる。
矢張り黒く見えるその目をぼんやりと眺めながら、ほおに伸ばされた手をすいと押しのけた。

そして首を傾げ、問う。

「おまえ」

男も首を傾げた。
黒い目黒い髪。矢張りちがう。
これは。



「おまえ―――誰、だ」



思いのほか声が座敷に響いた。
それで小十郎は起きた。目を二三度またたかせる。闇に慣れた目はようやっと世界を認識し出して、そうやって見ると
目も髪も黒いがたしかに体のうえの男は猿飛佐助だった。しのび装束は夜に紛れるために黒いのだろう。
発してしまった言葉を取り返すことはできぬが、時折見せる不安定な佐助の顔を思い出すとすこしだけ悪いことをした
ような気がした。手を伸ばしてしろいほおに触れる。
すまん寝惚けた、と。
言おうとした。

が、言葉が途中で詰まった。

小十郎の切れ長の目が丸く見開かれる。
ほおに伸ばした手を何度かぺしぺしとそこへ叩きつける。

「さるとび」

名を呼ぶ。
夜のなかで黒く染まった佐助は。

固まっていた。

ぴくりとも動かない。
肩を揺すってみる。矢張り動かぬ。
さるとび。また呼んだ。佐助は動かず、まるで石のように小十郎の体のうえで静止している。あまりに長い間そうやっ
て動かぬので小十郎が首を傾げはじめた頃に、
ぽたり。
と。

「―――おい」

小十郎は。
戸惑った。ひどく。










佐助は泣いていた。









はらはら、と。
白いほおを伝って透明な液体が小十郎の鼻先に零れてくる。

「どう、した」

佐助は答えない。
ただはらはらと涙を零している。
目を見開いて、口を閉じて、顔を歪めるでもなくただ表情を消した顔で、泣いている。どうした。また問うた。佐助は
顔を強ばらせたままにちいさくつぶやく。あんた。

「わすれちゃったの」
「あァ?」
「俺のこと、わかんないの」
「猿飛」
「もう」

みてくれないの。
そう言って佐助はまたはらはら泣く。

小十郎は途方に暮れた。

佐助が泣いている理由はどうやらおのれにあるらしい。
ほおにあてていた手を所在なさげにしばし宙に浮かせて、それから固まっている佐助の頭に置いた。ぽすん、とそれを
抱き込む。何をすればいいのやら分からないままに、ぽんぽんと髪を手で叩いた。

「すまん」

取り敢えず謝った。
佐助はまだ動かない。小十郎は息を吐いて佐助の髪を撫ぜる。ふわふわとした髪はまだ小十郎の目には黒く見えたが、
触れてみるとああこれは矢張りあの男だなと分かった。
さるとび、と名を呼ぶ。

「見てる」

小十郎は言い聞かせるように言った。

「分かってる。見てる」

ふいと頭が上がった。
濡れた目がこちらを見据えている。小十郎はそれを見返しながらまたぽん、と頭に手を置いた。

「見てるから、泣かんでもいい」

そう言ってから、胸に佐助の顔を押しつけた。
天井を仰いで、息を吐く。濡れた感触がして気色悪かった。しゃくり上げるなり泣きわめくなりするなら振り払いよう
もあるが―――胸元の頭は相変わらず動かぬ。
肺を押しつぶしてくる重みに眉をひそめながら、小十郎はそれでも佐助の頭をそのままにしておいた。さるとび、と名
を呼ぶ。動かぬ頭を撫でながら、何度かそうやって名を呼んだ。
どうしたものだろう。

(そんなにか)

そんなにこの男にとっておのれは大きいのか。
一切理解ができなかった。何時の間に、と思う。すくなくとも小十郎はそんなふうになる由を知らぬ。そんなふうにな
られても困る、とも思った。なにもねェよ。困り果てて小十郎はつぶやいた。
佐助にやれるものなどなにもない。

佐助が空っぽな以上に、小十郎のなかにだっておのれに自由になるものなど無い。

胸に押し当てた佐助はぬるまったい。
縋り付いてくるかと思ったが、佐助の手はだらりと力を無くして体の横に並ぶのみである。佐助は縋らぬ。泣いてはい
るが叫きはしない。泣いている自覚があるかどうかもあやうかった。
縋りもせず叫きもせずに、ただ佐助は泣きながらもうおれをみないの、と言う。

「見てる、だろうが」

胸の奥のほうが痛くなった。
胎児のように語る言葉を知らず泣く男がひどく、そう。










欠片も理解ができない。
あわれだ。

そしてたぶん、すこしだけいとおしかった。









もうどうでもいい、と小十郎は息を吐いた。
ぐい、と佐助の頭を強引に持ち上げる。そして吐き捨てた。

「愛でも恋でも、すきにしろ」

閉じた唇に口づける。
厚めのそれに舌を潜り込ませて、髪に手を差し入れて押しつけた。
ようやっと夢から覚めたようにぴくりと佐助の体が動く。舌が絡みついてきた。長い指が小十郎の髪を絡め取って、も
う片方の手は落ちかけた襦袢を脱がしにかかる。小十郎も手をするりと頭から下ろして佐助のしのび装束にかけた。脱
がしにくいそれを、忌々しげに引っぱって剥がしていく。
一晩で三度も情交をするおろかしさに眩暈を覚えながら、それでもこのときだけは縋る術を知っているあわれなしのび
の為に小十郎は目を開けたまま、また口づける。ほおに舌を這わすと涙の塩辛い味がした。馬鹿泣くな。佐助は首を傾
げてそれから笑った。泣いたりなんぞするものですか。
細められた眼は赤かった。

障子から日のひかりが差し込んできている。

あがっていく体温に息を荒げながら、視界の端にうつりこんでくる色づいた桜の葉をぼんやりと感じ取った。
体のうえの男の目と髪によく似た色に染まった木々は、もうしばらくするとそれを落として年が改まれば今度はまた花
をつける。それは散るだろう。そうすると佐助のきらいな葉桜になる。
みにいきましょうねえ、と佐助は言っていた。ひどくたのしそうに言っていた。

(わからん)

小十郎には佐助がちっともわからない。
恋だのなんだのを言われる前のほうが余程わかっていたような気がする。
それでも佐助の体温はぬくくて、それを拒否する理由を相変わらず小十郎は見つけられない。これから空気は冷たくな
るいっぽうで、きっと理由は雪に埋もれてしまうだろう。奥州の雪解けは遅い。弥生にならねば大地は見えぬ。
では。小十郎はぐるりと体を反転させて、佐助を見下ろしながら思った。

―――ではそれまでは、すくなくともだまされていよう。

口付けを落とす。
佐助がくすぐったそうに笑う。









首元に噛みつかれて、思わず漏らした吐息は障子の向こう側の桜の葉のように朱に色づいていた。












おわり
       
 





小十郎、情に流される。
無自覚家老はこれが恋だと気付かないままに佐助に洗脳されて流されていくことでしょう。
佐助の泣いているとこが書きたくて書いてしまいました。

空天
2007/05/01

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