「ふむ。俗に言う恋の熱か」 「冗談はいいからさ、解薬あンだろ」 体温計は八度を指している。 とっととなんとかしてくださいよ、と言うとしばらく元就は迷っていたようだったけれども、そのうちに諦めたよう に立ち上がって研究室から出て行った。佐助は安堵でほうと息を吐き、それから手伝いに行こうかと立ち上がろうと して、 「――――――またかよ」 伸びてきた腕にうんざりと呻く。 するりとそれを解いて、ソファに押し戻す。寝てなさいよ、とこどもに言い聞かせるように言うと、小十郎は素直に 腕を下ろしてソファにもたれた。そう何度も奪われてたまるかい、と佐助は口角をあげる。 小十郎は熱のせいか苦しげに息を吐いている。佐助は見ないようにと顔を必死で逸らしていたが、そのうち心配にな ってかたくらさんだいじょうぶ、とおそるおそる小十郎を覗き込んだ。 ゆるゆると小十郎の顔が上がる。 ひたり、と視線が合った。 こくんと佐助は喉を鳴らす。 小十郎の黒い目が熱のせいか水分を含んでゆらゆらと揺れている。そのゆらゆら揺れる波のなかに自分が映っている のが見えた。ブラックホォルみたいだな、と佐助は意識とは遠い場所で思う。 それから慌てて目を逸らした。 「――――――ッ、ぅわ」 ほおを大きなてのひらが包む。 それからぐるりと顔の向きを変えられた。目の前に小十郎の顔がある。 ひどく近い。佐助はさあ、と体温が下がるのを感じた。小十郎の腕を掴んでその手を下ろさせる。いい加減にしろよ とすこし強めの語調で言うと、小十郎は不思議そうに目を瞬かせた。 「何、切れてんだ」 「何って――――――」 「猿飛」 低い声が近い。 うわあ、と佐助は思った。声まで湿っているように聞こえる。 ずるずると小十郎が四つん這いで佐助に寄る。腕が伸びて、指がするりと佐助の腕にかかった。 「ま、待ってよ。ちょっと、待とうぜ」 佐助は必死で言いつのる。 小十郎はすこし黙って、首を傾げた。 「なんで」 「なんでって、だから」 「待つのか」 「待つよ、待ってよ、あの、」 「だから」 何で待つんだ。 小十郎にひどく近くでささやかれて、佐助は息を飲み込んだ。 古くさい空調の稼働音がする。薄暗い研究室のブラインドから差し込んでくる午後のひかりが小十郎の肩越しに見え た。さるとび、と小十郎が言う。佐助はソファからずるずると降りて、デスクの影に隠れるように体を進める。小十 郎もソファから降りて佐助の傍に寄る。 しないのか、と小十郎は静かな声で言った。 「どうして」 「どう、してって――――――」 佐助は黙る。 体が熱い。額をつうと汗が伝うのが解った。 さるとび、とまた小十郎が佐助を呼ぶ。あんまり距離が近いので、小十郎の髪を固めている整髪料のにおいがふわり と鼻先をくすぐった。佐助は目をきつく瞑る。なんだこれ、と胸のなかでつぶやく。なんだこれ、なんでこんなに心 臓がうっさいわけ。 ゆるゆると目を開く。 小十郎が居た。 佐助はひう、と息を飲んだ。 それから腕をのろのろと上げて、小十郎の肩に添える。 どうしてしないんだ、と小十郎の声が脳内でリフレインする。佐助はその理由を必死で探したけれども、どこかで落 としてしまったらしく、体中のどこを探してもそれは見つけることが出来なかった。 顔を近づけて、ゆっくりと薄い唇に自分のそれを重ねる。 かすかに触れる感触がした。佐助はすぐにそれを離し、すこし考えてから今度は深く重ねた。小十郎が喉の奥で呻く。 その声に耳がかあ、と熱くなって、佐助はそのまま小十郎をソファに押しつけた。小十郎が唇を開いて舌を差し込ん でくる。熱くやわらかい感触に体が下のほうから溶けていきそうだった。 小十郎の腕が佐助の首に回ったところで、がらりとドアが開いた。 「おい猿飛、手伝え」 元就の声がする。 かたかたと足音がして、それからなんだ居らんのか使えんなという声が遠ざかりながら聞こえる。 足音とそれが完全に遠ざかって聞こえなくなってから、佐助は思い切り小十郎を突き飛ばした。 口にてのひらを押し当てて、佐助は目を見開いて肩で息をする。 今俺はなにしてたんだ、とつぶやく。おいおい、相手は片倉小十郎だぜ。 小十郎は急に突き飛ばされて呆然とした顔をしている。佐助はそれをちらりと見てあれ、と思った。あれ、なんか片 倉さんかすんでる。佐助はくらくらと熱い額に手をあてながらへらりと笑った。ああこれが副作用ね、と思う。 小十郎がどんどんかすんでいく。 そして完全に消えた。 目を開くと視界のはしに黒い頭が見えた。 体の上が重い。なんだなんだと体を起こすと、なぜか佐助の体の上に小十郎が居た。 「起きたか」 元就がふたりを見下ろしながら言う。 佐助は眠っているらしい小十郎をぼんやりと眺めてから、へらへらと力のない笑いを浮かべた。元就の顔が不愉快 げに歪む。気色悪いわ貴様、と元就は吐き捨てた。一体何があったのだ我が居ない間に。 「事細かに説明せよ」 「―――べつになんもねえですよ、なんもねっ」 起きろこの馬鹿、と佐助は体の上の小十郎の背中を叩く。 「どいて、重い」 乱暴に肩を揺する。 それで目を覚ましたらしい小十郎は、眠そうな目のままむくりと体を起こして、きょろきょろと辺りを見回して、 佐助に視線を合わせ、首を傾げた。まだ寝惚けてるのかと佐助が目を細めていると、じい、と小十郎が凝視してく るのですこし背筋が伸びた。 小十郎の目が急にぱちりと開いた。 「――――――猿飛」 「ッ」 次いでほおに熱がはしる。 叩かれたらしい。佐助は呆然とほおを抑えた。 「なんでおまえが一緒に寝ている」 小十郎は不愉快げに吐き捨てる。 それからふと気付いたように首を傾げる。というか何故俺はここに居るんだ。顎に手を当てて眉を寄せて小十郎は つぶやいている。元就が呆れたようになんだ覚えていないのか、と言う。 「困る。実験の意味がない」 「何も覚えていない。まさか」 「まさか、なんだ」 「なにか忘れたいようなことをこの阿呆に」 「なんと」 おまえのせいか猿飛。 元就が非難がましく言う。佐助はまだほおを抑えたまま小十郎に視線をやった。小十郎は首を傾げて、なにかしや がったのかてめェ、とやはり非難がましく言う。 佐助はとりあえずソファに顔を埋めた。 ――――――ふざけんな 怒鳴ってやりたい。 怒鳴ってやりたいが怒鳴ったところで佐助の喉が疲労するだけに終わるということは解りきっているのでそれをす るのも煩わしい。今日は仏滅だっただろうか。朝のニュースの星占いはどうだっただろう。 ぶつぶつとつぶやいていると、元就が小十郎にもう一度飲んでみるかと問いかけているのが聞こえたので、今度は 佐助も我慢できなくなってふざけんじゃねええ、と思い切り怒声を研究室に鳴り響かせた。 おわり |