チョコレェト アクシデント 解薬は飲んだ。 だからあのチョコレェトの効果はとうに消えている。 そうだ思い出せ、と佐助は胸のうちでつぶやいた。そうだ思い出せ。もうあの惚れ薬はとっくにきれてンだぜ。ふ わりと整髪料のにおいがする。それから甘ったるいココアのにおいがそれと混じる。うわあ、と佐助は目をきつく 瞑った。おいこら、とひどく近くでよく響く低音が佐助の鼓膜を揺らす。 「論文の意見聞かせろっつってんのに、なんでおまえは目を閉じてやがる」 耳を引っ張られた。 痛い痛い、と佐助は喚く。 片倉小十郎は呆れたように息を吐き、もういい、と佐助の手のなかからレポート用紙を奪い取る。佐助は安堵に深 い息を吐いて、自分はコーヒーの入ったマグカップを両手で持って小十郎から視線を逸らす。どうも最近体の調子 がよくない。特に心臓と体温調節に難がある。急に煩くなったり、ぴくりと止まったような感触になったり、それ からさあとつめたくなったり麻疹のように全身が熱くなったりする。佐助はうんざりとマグカップに額を当てた。 副作用のうえに後遺症があるなんてなんというはた迷惑な惚れ薬だろう。 ソファに裸足の足を上げて、膝を抱えながら佐助はちいさく丸まる。ぱらり、と小十郎がレポート用紙を繰る音が する。視線だけちらりとそちらへやると、なぜか小十郎の黒い目と目があった。 「ぅわ、あ。な、に」 「最近な」 唐突に小十郎が話し始める。 佐助は眉を寄せて体を小十郎の方へ向けた。小十郎は相変わらず佐助を覗き込みながら、淡々とした声で続ける。 最近どうもおかしいんだが、と言う。 「おまえのことがな」 「――――――おまえって、俺ですかい」 「おまえは二人称だ。この研究室にはおまえと俺しか居ねェんだから決まってるだろうが」 「そんなに畳みかけるように怒らなくてもいいじゃんかよ」 佐助は眉を寄せ、で、と言う。 小十郎はココアの入ったマグカップをくるくると回しながら首を傾げ、どうも気になるんだが、と言う。佐助は首 を傾げた。なにが。小十郎はすこし考えるように視線を外して、それから答える。 「おまえが」 「は」 「気になる」 「へ」 「気ィ抜けた炭酸みてェな声を出すな、阿呆」 小十郎の声は平坦で、一切抑揚がない。 佐助は思わず自分が今聞いたのは空耳なのではないかと思った。言葉の含む意味は甘ったるいのに、言っている本 人はその甘さの欠片も無い。某製菓メイカーが勢いで作ってしまったカカオ99%のチョコレェトに勝るとも劣ら ない甘さの無さだ、と佐助は思った。 あれはチョコレェトというより墨だと思う。 「気になってどうにもし難い。どうしようもねェ」 墨のような口調でチョコレェトのようなことを小十郎は言う。 佐助は混乱した。固まったまま混乱して、なにか言おうとするが口からは何も出てこない。必死で顔を逸らして固 まっている佐助のほおに小十郎のてのひらが当たって、ぐい、と無理矢理顔を合わせられた。 「おまえはどうだ」 首を傾げて小十郎は問う。 佐助は息を飲んで目を瞑ろうとしたが、ふとあるものに気付いて思い切り顔を歪めた。 「――――――毛利教授ッ」 「ちっばれたか」 がらりとドアが開く。 毛利元就が不満げな顔で突っ立っていた。佐助は小十郎の手からマグカップを取り上げて、ずいと元就の鼻先に突 きつける。甘いにおいがふわりと沸き立つ。 「ばれぬと思ったのだがな」 「ばぁれるっつうの」 「わざわざココア仕立てにしたというのに、とんだ骨折り損だ」 「見りゃあ解りますよ。ほら見てよ」 佐助は小十郎に視線を送る。 レポート用紙を持った小十郎が不思議そうにこちらを見ている。 「あっきらかに可笑しいでしょう。言動その他諸々」 「あやつが可笑しいのは今に始まったことではない。我の研究生のなかでも飛び抜けて可笑しい」 「そんなこたぁ知ってるよ。でもそれがあんたのあの可笑しな薬飲んだせいでますます」 「飲んでねェぞ」 佐助と元就は顔を見合わせた。 小十郎はレポート用紙をゆらゆらと揺らしてまた、飲んでねェ、と言う。 「猫舌でな」 飲んでない。 飲んでない? 佐助は元就に背を向けて、ソファまで寄ってがしりと小十郎の肩に手をかけた。小十郎はどうした、と淡々として いる。佐助はその目をじい、と凝視した。この間とちがって潤んだり揺らいだりかすんだりはしていない。真っ直 ぐなブラックコーヒーの色が佐助を見据えている。 「―――片倉さん」 「なんだ」 「あんた」 「うん」 「素面なの」 佐助がゆっくりと言うと、小十郎はこくりと頷いた。 飲んでないの、とまた問う。くどい、と小十郎は眉をひそめてまた頷いた。佐助は黙り込んで、それから目を閉じ て、頭を振って、 「――――――もう一度最初からお願いします」 と言った。 おわり |