チョコレェト トラジック ビール瓶が三本、缶が四本。普段は整理されている研究室のデスクは見る影もなく惨状を曝している。 猿飛佐助はその状況を更に悪化させるべく、新しいビール瓶の栓を抜いてとくとくとグラスに注いだ。同期の前田慶次が覗き込 んで「飲み過ぎじゃない?」と言うけれども、聞こえなかったふりをしてそのまま黄金色の液体を喉に流し込む。 そしてだん、とデスクにそれを叩きつけた。 「別れる」 もう決めた、と佐助は唸った。 慶次の大きな目がぱちぱちと瞬かれる。 「なんかあったの?」 「なんもありゃしませんよ。ただ別れるだけ。決めたの。それだけ」 「ケンカか、佐助」 「煩い。真田の旦那は黙ってて」 佐助は向かいのデスクから声をかけた真田幸村を一蹴してデスクに俯せになった。 まあまあと慶次が背中をさする。大きなてのひらの感触に佐助は思いきり顔を歪めた。素気なくそれを振り払い、気色悪い、と 言うとさすがの慶次の顔も歪んだ。 「なんだよ、折角慰めようと思ったのにさぁ――――――どうせまた、くっだらないケンカのくせに」 「違うね。今度という今度は俺様も本気ですよ」 大体、と佐助は笑ってグラスを揺らす。 ちゃぽん、と音を立ててビールが飛沫を立てる。佐助は蛍光灯に照らされたアルコールを眺めながら、大体最初っから間違って たんだ、とつぶやいた。最初っから。だって俺はべつに、あのひとのことすきなわけじゃなかったんだもの。 「それももうおしまい。良く俺も我慢したよ。偉い、俺様ちょう偉い。涙出る」 「酔ってるなぁ」 「佐助は酒癖が悪いでござるな」 「ねえ」 「酔ってねえっ」 顔を上げて、佐助は慶次と幸村を順番に睨み付けた。 ふたりはさっと目を逸らす。酔っ払いに付き合うのは馬鹿を見るということは解っているらしい。 佐助は静かになったのでまたビールをグラスに注ぎ、一口で飲み干す。アルコールを体に染み渡らせればすこしは感情が鈍るの ではないかと期待したのだけれども、残念ながらどうやら結果は逆のようだった。苛々は倍増し、怒りは右肩上がりで、憎悪の ほうは臨界点を突破しそうだ。それを抑えつけるのに精一杯で、佐助は正面のデスクで幸村が「佐助の恋人はどのような方だ」 と言ったのを抑えることが出来なかった。 慶次が、佐助からすこし離れて「俺知ってる」と手を挙げる。 「おお、して、どのような方であった?」 「そうだなぁ、格好良かったよ。学会での発表も冴えてたし、面倒見良くて、慕われてるみたいだったな」 「ほう」 「俺、あんな恋人居たらすっげぇ自慢だけど」 慶次はにいと笑って佐助を覗き込む。 佐助は目を細め、本気かよ、とちいさくつぶやいた。慶次はにっこりと笑みを浮かべ、「俺どっちもいける派なんだよね」と言 う。だってさ、恋に性別とか関係ないじゃない? 佐助は低く呻いて慶次を手で追い払ってやった。 佐助の恋人は、男だ。 名前は片倉小十郎という。 生物学的にも、社会的にも、視覚的にも100%男だ。 話した覚えは無いのだけれども、慶次はなぜか知っているらしい。 まあこの男は年中そんなことしか考えてねぇからなと佐助はぼんやりと思った。 「どこが不満なわけ。いかにも甘えさせてくれそうな感じじゃん」 「――――――そんなん、見た目だけです」 「へえ」 「言っとくけどね」 だん、と佐助はまたグラスをデスクに叩きつけた。 その振動で、デスクの上の書類ががさがさと音を立てて雪崩れ落ちたが佐助は気にせず首を振る。 「あのひとと付き合って楽しいのは、放置プレイ専門のマゾヒストくれぇのもんですよ」 「はあ、ナニソレ」 「まず、」 まず第一に、と佐助は天井を見上げる。 まず小十郎という男は、同居している伊達政宗という青年のことと、研究のことしか考えていない。一に政宗、二に研究、三四 を抜かすともう多分そこには何も存在していないのだ。もちろんそこに佐助が割り込む隙なんてあるわけがない。でも付き合っ てんだろ、と慶次が言った。佐助ははん、と鼻を鳴らす。 「そんなこと、あの男にとっちゃどうだっていいのさ」 「どうだって良いったって、ねぇ」 「あんたも一遍目の前で二時間他の男と電話された挙げ句、『じゃ、帰る』って言われてみりゃぁ良いンだ」 佐助は笑った。 一度や二度ではない。何度もある。 デートの途中で政宗からの呼び出しで帰ってしまったこともあるし、お土産をそのまま政宗に横流しにされたこともある。研究 で根を詰め始めると佐助のことなどすぐに忘れるし、忘れていたとしても「あァ、悪かった」でおしまいだ。 「――――――うわあ」 それは、という顔で慶次は一歩引いた。 佐助はビールを飲み干し、ふん、と顔を逸らす。 幸村が不思議そうな顔で佐助と慶次を見比べ、それから「しかし今までは我慢しておったのだろう?」と首を傾げた。何か原因 があったのではないか、と言う。それもそうだね、と慶次が言った。周りの研究生達も、そうだそうだと同意する。 佐助は視線をタイル張りの床に落とし、そりゃあ、とつぶやいた。 「無いことは、無いですけど」 「ほら、やっぱりだ」 「でも言っとくけどね、俺様は、一切、まったく、これっぽっちも、悪くないから」 佐助は一言一言、区切って言った。 目を閉じて、アルコールによる眩暈を堪える。思い出すと苛立ってきた。 ――――――昨日、と佐助は思った。そうだ、昨日のことだ。 昨日、佐助と小十郎は随分前から約束していたレストランでの食事の為に、ホテルのロビーで待ち合わせをしていた。何か大し たイベントがあったわけではない。ただ小十郎が「偶には特別なところに行くのも悪かねェだろ」と珍しく自分のほうから誘っ てきたので、佐助は有頂天になった。暇があるの、と聞くと小十郎は首を傾げ、 『無けりゃ、作るさ』 と言った。 佐助は益々舞い上がった。 こんなことって滅多にない。ハレー彗星の到来より希だ。佐助は思いつく限りの飛び切りのレストランを予約して、付き合って 相当経つというのに中学生の初デートの時のような気持ちで小十郎を待った――――――レストランの、閉店時間まで。 小十郎は結局来なかった。 『すまん、忘れてた』 問い詰めると小十郎はそれだけ言って、ノートパソコンに視線を移した。 佐助は口元を歪め、ばん、とパソコンを閉じてやる。小十郎は掛けていた眼鏡を外し、「何するんだ」と言いたげな顔で佐助を 見上げた。佐助は益々顔を歪め、「お言葉ですが」と薄い笑みを張り付けて小十郎の襟を掴む。 『今の便利な世の中には、携帯電話っていう連絡手段があるにもかかわらず、どうしてあんたはちょっと断りの電話をするくら いのことが思いつかないわけ?おかしいんじゃないの?常識無いにも程があんだろ』 『煩ェな。謝っただろうが』 『謝った。あれが』 佐助ははん、と鼻を鳴らす。 『あんなのが謝ったうちに入るンだったら、小学校の道徳教育はいらない』 『そうか。俺も常々道徳科目の必要性については疑問だった』 『そういう話をしてるんじゃないってことは解りますかね、片倉さん』 『おまえが振ったんじゃねェか』 意味が解らない、という顔で小十郎は首を振った。 佐助は自分の血管のどれかが、ぶちり、と切れた音を聞いた。 『――――――俺は、真面目に、話してる、んですがっ』 目を細め、小十郎の襟をぐい、と捻る。 苦しげに小十郎は目を細めた。しかしその顔に浮かんでいる感情はあきらかに「面倒臭ェな」というそれで、佐助は視線を外す。 見ていると殴りつけたくなるが、殴るとその報復が十倍になって返ってくるのは経験上あきらかなので目を閉じてなんとか怒り をやりすごした。あんたはおかしい、と佐助は目を閉じたまま吐き捨てた。 人間として間違ってる。 『あのレストラン、俺がどれだけ必死で予約したか、』 『なんだ、そんなことか』 小十郎はふん、と鼻を鳴らして佐助の手を解いた。 『これでいいか』 そして、パソコンの横に置いてあった自分の鞄から財布を取り出して、一万円札を五枚、佐助に手渡した。 佐助は一瞬どういう意味だか良く理解出来なかった。福沢諭吉がプリントされた紙幣五枚をしばらく眺めてから、ようやくその 意味が頭に到達した瞬間佐助はそれを小十郎に突き返して、思い切り睨み付けた。小十郎は平然とした顔をしている。佐助が怒 る理由が分からないという顔をしている。佐助は息を吐いて、紙幣を握りしめた。止そう、と思う。止そう。あんまり無気にな ってもこの男相手じゃ体力の無駄遣いだ。それに金は欲しい。 佐助はポケットの中から財布を取り出し、レシートを小十郎に突きつけた。 『多い。こんなにいらない。細かいの寄越せ』 『あァ――――――べつに良い。持ってけ』 『金の問題じゃないんだよ。ほら、早く細かいの頂戴』 『一々面倒な野郎だな』 『は、あんたなぁ、面倒って』 佐助はかっとなって怒鳴ろうとした。 が、その前に小十郎が何か投げてきて、慌ててそれを手に取る。 小十郎は首の後ろを掻きながら心底――――――ほんとうに心の奥底から面倒臭そうな顔をして、 『勝手に持ってけ。いくらでも、気が済むまで』 と吐き捨て、またパソコンを開いた。 かちゃん。 グラスがデスクから落ちて、派手な音を立てた。 幸村が慌ててそこに駆け寄るが、幸いなことにグラスは落ちただけで割れてはいなかった。佐助はデスクをどんどんと叩いて いる。慶次は呆れて、幸村と目を合わせた。 「くっだらねぇ」 「下らなくなんてない。今度という今度は、俺はもう、絶対に」 別れる。別れてやる。 佐助はそう言って、うう、と唸りだした。 頭が割れるように痛い。流石に飲み過ぎたらしい。怒りとアルコールがシェイクされて、物凄いスピードで佐助の脳みそを叩 き付けてくる。畜生、と佐助は薄汚れたデスクを睨みながら思った。これもあれも、全部あいつのせいだ。 立ち上がり、ふらふらと窓に近寄る。外はもう真っ黒だった。校舎から正門に向けての道に並んでいるツツジの垣根だけ、し ろく浮き上がっている。それをぼんやりと眺めながら佐助はまたビールを飲んだ。いい加減にしたほうが良いとかすかに残っ た理性が警告したけれども、佐助はそれをそのままビールで胃まで流し込んでやった。 浴びるようにアルコールを摂取していないと、意識が乱れて決意が揺るぎそうでまずい。 「なぁ、あんたの恋人ってさ、片倉小十郎だろ?」 何時の間にか横に来ていた慶次が佐助を覗き込んで聞く。 佐助はグラスを手に持ちながら、虚ろな目で慶次を見返した。 「――――――だったら」 「いやあ、別れるンだったらさ、俺が貰っちゃおうかと思って」 「あんた、俺の話聞いてなかったわけ?」 「ん、聞いてたよ」 「ちっとも大事になんてしてもらえねぇぜ」 「俺、愛されるより愛する派だから平気」 「暴力的だし」 「スキンシップでしょ、それはそれで」 「何言ってンだか訳解ンないんだぜ、時々。人間じゃないかもしれない」 「個性的なひとって、良いよねぇ」 慶次はにこりと笑った。 「な、あんたが要らないなら俺に頂戴よ」 佐助もにこりと笑う。 それから慶次のほおに思い切り拳をめり込ませた。 がたんっ、と音を立てて大きな体が吹っ飛んで、デスク横に積み上げてあったゴミの塊に突っ込む。ざわざわと辺りがふたり を見比べたが、佐助は気にせず残っていたビールを飲み干してからグラスを窓枠に置いて、それからふらふらと研究室を後に した。慶次を殴った右手が痛んだけれども、佐助は研究室を出た頃にはすでに何故それが痛むのかすら忘れていた。 「――――――別れに行ってやる」 佐助はツツジをむしり取って、空に誓った。 ふらふら歩きながら小十郎の家を目指す。大学から小十郎の家まではそう遠くない。何故かと言えば、政宗が小十郎が通い易 いように都内に馬鹿みたいにでかい一軒家を建てたからだ。馬鹿じゃないの、と佐助は夜の中を歩きながら思った。家建てね えだろ、普通。政宗は普通ではない。小十郎も普通ではない。 佐助はかなしいほどに、普通なのだ。 「俺は、我慢した」 佐助は自動販売機にそう、主張した。 片倉小十郎という、一見常識人に見えて実は宇宙人のようなあの男相手に、佐助は随分長い間我慢した。 デートをすっぽかされて、ドタキャンされて、放っておかれて、そのくせこちらの都合は顧みることなく上がり込まれ、挙げ 句政宗とケンカしたからと居候され、目の前で感動の仲直りシーンを見せつけられても佐助はずっと我慢してきた。つらつら とあげつらって佐助は急に何もかもが馬鹿馬鹿しくなった。馬鹿みたいだ。なんで俺はそんなに我慢してたんだろう? 佐助は目の前にそびえる門を見上げて、息を吐いた。 門からは家が見えない。 「馬鹿みたい」 こんなところに住んでる相手と付き合っている。 小十郎は佐助のような貧乏研究生とちがって、金はあるし後ろ盾――――――政宗は一流企業の御曹司だ――――――もある し実績だって佐助よりずっと多い。身長も高い。声も格好いい。顔も、うん、止めよう。 とにかく、男として負けている。 その上蔑ろにされている。 冗談じゃねえ、と佐助は首を振った。 「――――――おい、あんた何してるッ」 下から声がかかって、佐助はぼんやりとそれを見下ろした。 警備員らしい格好をした男が、佐助を見上げて何か言っている。佐助は、門の上に居た。 おや、と首を傾げる。何時の間に。しかしその後アルコール漬けになっている佐助の悩は納得した。小十郎に会いに来たら、 門が閉まっていたのだ。 登るしかない。 「会いに来たんだよ」 佐助は警備員にそう答えた。 門から飛び降り、辺りを見回す。庭とは思えない敷地が拡がっている。迷いそうだ。 佐助は指を差して、よしあっち、と適当に決めて歩き出した。酔っている。まともじゃない。どこかで残っている理性がそう 罵ったが、佐助はそれを手にとって夜の空に放ってやった。馬鹿、と逆に罵ってやる。 馬鹿、俺は会いに来たんだよ。 佐助は立ち止まった。 「かたくら、こじゅうろうっ」 大声で怒鳴る。 しん、と夜が沈黙を返す。佐助はまた怒鳴った。 「常識の無い、いい加減な、全然やさしくない、おおばかたくらこじゅうろうーッ」 「阿呆か」 げし、と後ろから蹴られた。 佐助はそのまま前のめりに芝生に突っ込む。 じゃり、と音がする。痛む額をさすりながら身を起こすと、背後に金属バッドを持った小十郎が仁王立ちしていた。ひい、と 思わず佐助は竦み上がりそうになったが、首を振ってきっと睨み上げる。 小十郎はそれにひょいと肩を竦め、寝間着のポケットから携帯を取り出した。 「政宗様ですか。はい、侵入者は発見しました。こちらで処理するのでお気になさらず。お休みなさいませ」 ぴ、と携帯を切る。 それから小十郎は佐助を見下ろして舌打ちをした。 「何してる、阿呆」 「アホはどっちだ」 「あァ?」 「アホ。馬鹿。大馬鹿」 佐助は立ち上がって、小十郎を思い切り睨んだ。 「あんたと別れに来た」 そして言った。 小十郎はすこし驚いたように目を丸めた。 良い様だ、と佐助は思う。良い様だ。あんただってちょっとは驚いたりかなしんだりするべきなんだ。 小十郎はしばらく黙り込んでいた。そして、ちいさな声で「良いのか」と言う。佐助は鼻で笑って「良いに決まってンだろ」 と手を振った。小十郎は佐助の右手がひらひらと揺れて、そして最後に落ちて足の横に付くのを目で追う。 それから、視線をついと逸らした。 「そうか」 じゃァ、と言う。 じゃァ、しょうがねェな。 くるりと踵を返し、小十郎は手を挙げた。 「さよならだ」 あ、と佐助は思った。 小十郎の切れ長の目が、伏せられているように見えた。 多分それを確認したかっただけなんだ、と佐助は動いている時に自分にそう言い訳をした。気付いたら足が踏み出していた。 気付いたら小十郎の肩を掴んでいた。 気付いたら、 「やだ」 唇が触れる。 小十郎がまた驚いて目を丸めている。 佐助は小十郎にぶつけるようなキスをして、それからずるりと肩に額を付けた。かたくらさん、と佐助は小十郎を呼んだ。 かたくらさん。 「やだ」 「――――――なに、が」 「別れたくない。ごめん、ごめんね」 「何なんだ、おまえ」 「片倉さん、かたく、ら、さん」 「おい、」 小十郎が言葉を続ける前に、佐助はずるりと地面に落ちた。 小十郎はしゃがみ込んで、丸まっている佐助のほおをぺしぺしと何度か叩く。佐助は気持ちよさそうに眠っていた。小十郎 は目を細め、取り合えずどうしていいか解らなかったので、自分もしゃがみ込んで膝に佐助の頭を乗せてやった。 佐助の腕が腰に回る。 かたくらさん、とまた佐助は言った。 「――――――すてないで」 「阿呆か」 小十郎はすこし笑って、佐助の髪を梳く。 それから真っ黒の夜を見上げて「謝り損ねた」とちいさくつぶやいた。 おわり |