会社で社長からチョコレイトを渡されて、そういえば今日はバレンタインデイだったということに
初めて小十郎は気付いた。
チョコレイトの匂いがここ最近、どこを歩いていてもぷんと鼻をつくことには気付いていたけれど
も、実際のところ史実的に見た二月十四日というのは聖バレンタインが虐殺された日であって、そ
れとチョコレイトの関連性は、もちろん日本で生きる以上知識として知ってはいても毎年実際に
チョコレイトを渡されなければどうしても小十郎の脳裏には蘇ってこない。
社長である伊達政宗からのチョコレイトには、ブランド物のネクタイが付いていた。

「いつも世話になってるからな、おまえには」
「勿体ないお言葉です」
「ネクタイ、付けてみろよ。きっと似合うぜ」

包装紙を破り、政宗は小十郎に箱詰めのネクタイを付けるように手渡す。小十郎はすこし考えたが、
社長の好意に従うことにして箱を開いた。ヴィヴィアンウエストウッド。柄は青のドット。
小十郎は珍しくにこりと笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。大事に使わせて頂きます」
「俺のChoiceだからな、間違いないぜ」
「申し訳ないのですが」
「解ってる」

くるりと回転椅子を回し、政宗はぱちんと指を鳴らせた。

「忘れてたってんだろ?」
「お恥ずかしい限りですが、仰る通りです」
「White Day、期待してるぜ」

椅子から飛び降り、政宗は小十郎の肩を叩いて社長室から出て行く。小十郎もちらりと笑みを浮か
べてその後を追った。政宗はプレゼントでごまかせると思っていたらしいが、彼には社長としてま
だやるべきことが山積みになって残っているのだ。
その日は土曜日だったので、会社は午後三時には出られることになった。通りを歩く人並みも心な
しかカップルが多い。なんだかやたらにチョコレイトの匂いがするような気がする。甘い物が食べ
たくなったが、この日に男がひとりでチョコレイトを買うのはなかなか度胸のいる行為だ。それに
左手に下がっている紙袋には会社で女子社員にもらったチョコレイトが大量に入っている。
賞味期限までに食べるとするとかなり努力が必要だな、と小十郎は駅のホームで電車を待ちながら
思った。なにしろ嫁は甘い物が得意ではないし、ひとりで消費しなくてはならない。それでもずし
りと重いチョコレイトたちは小十郎にとって負担ではなかった。甘い物は嫌いではない。
バレンタインデイ。
ローマ帝国時代の司教が処刑された日。
元々はローマ時代の二月十四日が、女神ユノの祝日で、ユノが象徴するのが家庭と結婚であったた
めに、法に逆らってローマ兵を結婚させた司教の処刑日を皮肉ってその日に定めたのだという。小
十郎はそこで、はたと思い当たった。
家庭と結婚。
そういえば小十郎は結婚したのだった。
家庭というものも、去年までは持っていなかったが今年から持っていることになる。すっかり忘れ
ていた。電車に乗りながら小十郎は嫁のことを考えた。へらへらとした笑顔と、常にだらりとした
格好をしている小十郎の嫁は、それでも世間的な基準から言うと「新妻」なのだ。
何か贈るべきか。

―――面倒だな。

小十郎は再び視線を持っている紙袋に下ろした。このなかのどれかを、買ったことにして渡そうか
と一瞬だけ考えたが、やはり止めた。いくらなんでも不誠実だ。それなら贈らないほうがましだろ
う。だったらべつにチョコレイトである必要はない。嫁は甘い物が得意じゃないわけで、これから
の我が家におけるチョコレイト率はキャパシティを超えるものになるはずで、それならば政宗のよ
うにそれらしいプレゼントを渡すというほうが互いにとって効率的なのではないだろうか。
なにがいいか、と小十郎は思った。
嫁のファッションセンスは正直なところ、小十郎には理解しがたいものがある。映画の趣味も合わ
ないのでDVDを渡すというのも微妙だろう。小十郎はそれを見たくない。ネクタイ。佐助は「寿
退社」をきっかけにしてスーツとネクタイを全部リサイクルショップに売ってしまった。花。駄目
だ、と小十郎は思った。考えただけで笑える。
もうすこし前に解っていたら、なにかレストランの予約でもしたのだが、今更当日にどうこうでき
る問題でもない。今日もやはり家で微妙な嫁の食事が待っている。
姉にまたどやされそうだな、と小十郎は電車の座席に座りながら眉をひそめた。姉はなぜだかやた
らに自分たち夫婦に口出しをしてくる。佐助との結婚も、姉に無理矢理に見合いに行かされたのが
最初だった。それが結果的に良いことだったのかどうかは、―――三ヶ月では判断のしようがない
というのが正直なところだ。追々、解ってくるだろう。
ともかく今日のことだ。
小十郎はすこし考えた。
しかし電車のドアが開き、最寄りの駅名が窓から見えたので、一旦考えるのは止めて席を立った。













































「わお、片倉さんモテモテ」

家に帰り、チョコレイトの入った紙袋をテーブルの上に置くとキッチンから出て来た嫁が目を丸
めてそう言った。小十郎はネクタイを外しながら寝室へ向かう。佐助がぱたぱたとその後に付い
てきて、小十郎のスーツを受け取り、クローゼットへしまう。
再びリビングに戻ると、テーブルの上にチョコレイトケーキが置いてあった。

「バレンタインじゃないですか、今日は」

振り返ると、嫁のへらりと崩れた笑顔にぶつかる。
ケーキはちいさかった。一人分だ。いちごが乗っている。形がすこし崩れているようだった。買
ってから家に運ぶまでの過程で崩れたのかもしれない。どうぞどうぞと言われるので小十郎はケ
ーキの前の椅子に座った。佐助はがさがさと紙袋の中を物色している。

「俺様だって会社勤めしてたけど、こんなにもらったことないんですけど」
「人望の差じゃねェか」
「何が言いたいの?」
「事実」
「あ、そ―――ってなんだこれ」

ひょいとネクタイの箱が取り出される。
フォークでいちごを突き刺しながら、ああ、と小十郎は頷いた。

「政宗様から頂いた」
「ブランド物じゃねえか。なんでバレンタインに社長が秘書にネクタイあげるの?」
「欧米ではべつに男女の区別はねェらしいぜ」
「そんなの後付けだね、片倉さん、知ってる?」
「なにが」
「ネクタイプレゼントする意味」

いちごを食べながら旦那は首を傾げた。
嫁は正面の椅子に坐り、身を乗り出して旦那の首に手を掛ける。

「きゅ」
「なんの真似だ」
「あなたに首っ丈、って意味があるんだぜ。ネクタイをプレゼントする意味」
「初耳だが」
「あんたはそういうの疎いから」

振り払うと、唇を尖らせて嫁は元の席に戻る。政宗のネクタイを箱から取り出し、しげしげと眺
め、うわあブランドだあ、てかこれいいねえ、畜生趣味はいいんだよなああの馬鹿社長、とぶつ
ぶつつぶやいている。
小十郎はそこで、ポケットに手をやった。

「猿飛」
「なに」
「手」
「はあ」
「手を出せ」

嫁は首を傾げてから、不思議そうに手を差し出した。
旦那は頷き、ポケットから取り出したものをテーブルの下で蓋を開け、中身を取り出してのひら
に握りしめる。それから差し出された体の割に大きな嫁のてのひらに、ぽとり、と無造作に落と
した。

「やる」

手を引っ込めて、改めてフォークを握る。
嫁は手を差し出した体勢のまま固まっている。小十郎はココア風味のスポンジを口に放り込んだ。
すこしビターに過ぎる。もうすこし甘くてもいい。クリームがしつこいのがこれも原点ポイント
だ。小十郎は正面の佐助をちらりと睨んだ。こいつもしかして、コンビニかどっかで買ってきた
んじゃあねェだろうな。
佐助は小十郎を見ていなかった。
てのひらに落とされたものを、じい、とずっと眺めている。

「―――え、これなに?」

小十郎が最後の一切れを口に運ぼうというときに、ようやく嫁が口を開いた。

「見て解らんか」
「いや解るけど」
「それはなんだ?」

佐助はたっぷりと黙った後に、「指輪?」と首を傾げた。
小十郎は満足げに頷く。

「ならいいじゃねェか」
「はあ、まあ―――え、嘘」
「なにが」
「これ、え、なんで?」
「バレンタインだから」

小十郎は最後の一切れを口に入れた。咀嚼し、飲み込む。はあ、と嫁は間の抜けた返事をした。
甘い物を食べたのでコーヒーが飲みたくなり、小十郎は立ち上がって、佐助を放ってキッチンへ
入った。
コーヒーを煎れて戻ってきても、まだ佐助はぼんやりとてのひらの上の指輪を眺めていた。

「飽きんか」
「そういう問題じゃなくてさ」
「なんだ」
「あんたはなんていうか、うん、まあそういうひとだってことは知ってンだけどさ」

悔しいなあ、と佐助は呻いた。
小十郎は首を傾げる。なんのことだかよく解らない。

「まあ、いいや。もう一個チョコレイトあるんだけど、食べる?」
「食べる」
「この間録画しといた映画見ない?」
「どれだ」
「ドイツ映画。あんたの好きそうな、なんだかよく解らない感じの」
「見る」

コーヒーの入ったマグカップを持ってソファに座る。リモコンでテレビを点け、HDDを起動す
るとマティアス・ルートハルト監督の『ピンポン』が録画されている。前から見たかったが、日
本では単館での放映しかなかったので見逃していた。チョコレイトの箱を持った佐助が横に座る。

「父親が自殺した少年が、親戚の家の叔母さんとセックスしてまあ大変」

旦那のマグカップを嫁は勝手に持ち上げ、コーヒーを飲む。

「世間一般的にいって、あんまりバレンタインデイに夫婦が見る映画として適切じゃあないよな」
「世間一般的にいって、どういった映画がバレンタインデイに夫婦で見るのに適してるんだ」
「世間一般的にいって、」

佐助はけらけらと笑いながら「『失楽園』じゃないことは確かだね」と言った。
箱に敷き詰められたトリュフをひとつつまみ、小十郎の口元まで運ぶ。旦那は映画を見ていたの
で、逆らうのも面倒でそのままそれを口に含んだ。甘い。こちらはケーキとちがってきちんとし
たもののようだ。嫁は自分はコーヒーをまた飲んで、首を傾げた。

「あ、解らないな。セックスシーンが多いから、盛り上がって逆にいいかもしれない。この映画は
 叔母さんと甥っ子のセックスシーンは、結構きつめ?」
「今すぐレンタルビデオ屋でAVでも借りて、ひとりで見てろ」
「なあんで好きなときにセックスできる相手が横にいるのにオナニーなんかしなけりゃなんないの」
「俺はおまえの性欲処理のために存在してるわけじゃねェんだが」
「何言ってンの?性欲とかそういうこと言わないでよ。セックスっていうのは夫婦の愛を確認する
 のに不可欠な行為じゃないか。はい、片倉さん。あーんして」

チョコレイトが半ば強引に口に押し込められる。小十郎は眉をひそめながら、それでも一応はそ
しゃくした。罪があるのは嫁であってチョコではない。
ルートハルトはこれがデビュー作で、まだ確か年齢も四十にもなっていない。映像はドイツ的に最
初から陰鬱に始まっている。窓から差し込む夕日が不釣り合いで、口の中の甘さもまったく似つか
わしくない。しかしこれもアンバランスなのはあくまでも環境であって、チョコレイトに罪はない。

「世間一般的にいって」

しばらくしてからまた嫁が口を開いた。
黙っているということができないらしい。小十郎は返事をしなかった。旦那の無言の非難に、嫁は
気にすることなく言葉を続ける。

「あんたと俺って、すごく性格が不一致だと思うんだけど」

この間話していた離婚会見をまだ引き摺っているらしい。
昼間におかしなワイドショーばかり見ているからこういうことになる。小十郎はうんざりし始めて
いた。嫁はまったく一緒に映画を見るのに適した相手ではないようだった。そろそろ諦めて、今度
ひとりで居るときにゆっくり見るのが正解かもしれない。

「でも案外、もしかすると一致する部分もあるのかもしれないね」
「なんだいきなり」
「いや、なんとなく」

それで会話が終わる。
よく解らない。嫁と自分の間に一致するところがあるとは旦那にはとうてい思えなかった。
しばらく沈黙が落ちる。ゆっくりと映画に浸れる。音楽がややくどいな、と思いながら小十郎は佐
助が定期的に口に放り込んでくるチョコレイトを味わいながら、若手の監督の手によるサイコホラー
風味の群像劇を堪能する。
映画が三分の二程度まで進んだ頃だった。

がき

と、音がした。

「―――なんだ、これは」

口の中で。
小十郎はその原因をてのひらに吐き出し、目を丸める。横を見る。佐助が膝を抱えて、へらりと笑み
を浮かべてこちらを見ていた。そしててのひらに吐き出された物をひょいと持ち上げ、着ているトレ
ーナーで軽く拭い、小十郎の手を取る。

「ハッピーバレンタイン、片倉さん」

そして、左手の薬美にするりとそれを嵌めた。
小十郎はぼんやりと左手の薬指と、それに嵌められた金属を―――指輪を、眺めた。佐助はその間に
小十郎の手をまた取り、そこにさっき渡した指輪を置く。そして自分の左手を差し出した。

「俺にも嵌めてよ」
「―――何故」
「こういうのは相手が嵌めるもんだぜ」

小十郎は首を傾げながらも、一応佐助の薬指にそれを嵌めた。
佐助は手をくるくると裏返したり、揺らしたりしながら、満足げに指輪を検分している。うんうん、
と頷く。うんうん、やっぱりこういうのはあるほうがいいよな。

「結婚してる、って感じ」
「そりゃ、良かったな」
「良くない」
「はあ」

佐助は顔をしかめている。
小十郎も意味が解らなくて顔をしかめた。

「不満か」
「不満だね。めちゃくちゃ不満だね」
「じゃ、返せ」
「なんでよ」
「不満なんじゃねェのか」
「あるほうがいいって言ったじゃんか」

嫁の言葉は旦那にとっては宇宙の言語に近いものがある。
大体なんで指輪を食べさせられなければいけないのかも解らない。嫁は言う。日常にサプライズって
不可欠だと思うんだ。夫婦のセックスとおんなじくらいに。

「本当はさ、ケーキに入れるつもりだったんだけど、なんかきちんと入らなくて、急遽チョコレイト
 に変更したんだよ。ばれるかと思ったけど、全然ばれなかったから逆にこっちがサプライズだったわ」

すごいね、片倉さん。
褒められているらしいが、まるで嬉しくない。

「悔しいなあ」

さっき指輪を渡したときにも言った言葉を、嫁はまた繰り返した。
悔しいなあ。びっくりさせるつもりだったのに、俺のほうがびっくりしちゃうんだもんなあ。

「あんたってずるいよねえ」
「そんなものか」
「そうだよ。こんなん、昨日まで全然くれる気配もなかったくせに」
「今日思いついた」
「天然って怖ぇなあ」
「だが」
「うん」
「俺も驚いたぜ」

旦那がそう言うと、嫁はぱあと顔を明るくした。
ほんと、と言う。頷くとへらりと笑う。そうかあ、そうかあ、片倉さん驚いたんだあ。そりゃあ愉快
ですねえ、くふふふ。
おかしな笑い声をたてて、嫁はまた指輪を見た。

「ねえやっぱりさ、俺ら似てるかもよ」

ふたり揃って、おんなじものプレゼントしあいっこしてるんだぜ。

「意外と一致してんだよ、俺たち」

首に手が回る。
小十郎は息を吐いて、すこし笑った。
リモコンに手を伸ばし、テレビを消す。映画はまたひとりのときに見ることにした。嫁はまったく映
画を一緒に見るのに適していない相手なのだ。
佐助が引っ張るのに逆らわず、ソファに俯せに倒れ込む。
ふわふわと赤毛が額を隠しているのを払ってやって、そこに短いキスをした。

「かもな」

そう言うと、嫁はまたへらりと崩れた笑顔で笑って、伸び上がって唇を塞いできた。
口を離すと、甘い、とつぶやく。チョコの味、と言う。

「バレンタインだなあ」
「ひとの口越しに実感するな」
「いいじゃないか。一個のチョコで、ふたりがバレンタインを堪能できる」

夫婦って合理的だね。
なんだかよく解らないことを嫁がまた口走り始める。
旦那は面倒になったので、今度は自分から嫁の口を塞いだ。すぐには離さず、角度を変えて深く深く
ソファに沈む。佐助の口はコーヒーの味がした。たっぷりと舌を絡めて、それから口を離すと、もう
佐助はなにか喋ろうとはしなかった。代わりに、小十郎のワイシャツのボタンを外し始める。隙間か
ら長い指を潜りこみ、肌に触れると、ふるりと震えが走った。
小十郎も佐助のトレーナーの下から手を突っ込もうとすると、けらけらと笑い声があがった。

「こういうのも性格の一致っていうんだぜ、きっと」

左手を取り、指輪にキスをしながら嫁はそう言う。
旦那はすこし黙ってから、おんなじように嫁に左手の指輪にキスをして、かもな、と言った。











おわり

       
 




夫婦はらぶらぶでなんぼなのです。
きっとこの日はチョコレイトプレ、げほげほ、なんでもありません。

空天
2009/02/12

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