その日、片倉小十郎はおそろしく不機嫌だった。
朝から積もりに積もった鬱憤は、うずたかく雲がかるほどに聳えていたが、それをぶつけられるよう
な相手はひとりとして周囲には存在しなかった。彼らがみな自分のことを思いやって、彼らなりにそ
れぞれの行動をしていることはあきらかだったので、小十郎の膨大な量の苛立ちは決定的に行き場を
失って煮えたぎる油のように煮詰まるしかなかったのである。
だから出し抜けに障子が開かれて、常のように間の抜けた顔で間の抜けた挨拶をした他国のしのびが、
―――ましてその髪と目が赤い、固有名詞として猿飛佐助という名が与えられたものであればなおさ
ら―――その鬱憤を一身に受けるはめになったのも、まったく無理からぬことなのである。























                  Dear our mother!



























そもそもが、朝からすべてがおかしかった。
常のように登城すると、参議の間で小十郎がいつも使っている文机がなくなっていた。小十郎はしば
らく空白になっている板間を眺めたあと、背後を振り返って書状を処理している他の文官たちを見渡
してみた。彼らはみなそろって小十郎のことを見上げていた。そしてその顔には、まるで芸を上手く
こなしたので褒美を待ち焦がれている犬のような、真っ新の期待が満ち満ちていたのである。

「どういうことだ、これは」

小十郎はとりあえず、感情を滲ませぬように彼らに問うた。
するといっとう年かさの文官が立ち上がり、背筋を伸ばし、口を開いた。

「いつも小十郎様に頼り切ってばかりですから、今日ばかりは何もしていただかなくてもいいよう、
 我ら一同、昨夜は夜を明かして仕事を片付けたのです」

そう言って堪えきれぬように笑みを浮かべる彼のことを、小十郎はもちろんよく知っていた。
小十郎より五つほど年上の、決して高い身分ではない侍である。戦働きはからきしだが、こと内政に
関しては彼ほど頼りになる者はなかなかいない。小十郎が政宗に直々に頼み込み、文官の頭へと取り
立ててもらったほどの男である。小十郎はその男の顔をしげしげと眺めた。男の細い眼の下には確か
に濃い隈があった。そしてよく見ると彼の背後で小十郎の顔をうかがう文官には、みな一様におんな
じ隈がくっきりと浮かんでいるのである。
小十郎は、黙った。
男がすこし怯んだように口を開いた。

「余計なことかとは、思ったのですが」
「いや」

小十郎は思わず口を挟んだ。

「助かった。恩に着る」

曇天の空から太陽の日が差し込むように、男の顔が晴れた。
ふと見ると背後の文官たちが頻りに体を伸ばしてこちらを窺っているのが目に入った。成る程、昨夜
徹夜したのは今目の前に居る男だけではないのである。小十郎はすこし考えてから、一歩足を踏み出
すと、目の前に居る文官たちすべてに向けて口を開いた。

「昨夜はご苦労だったな」

雲の切れ目から太陽が顔を覗かせ、風で雲が吹き飛ばされる。
目の前の情景をそんなふうに描写しながら、小十郎は腹のなかに浮いた鬱憤を奥へと押し込んだ。
実際のところ、小十郎は政務がなくなったことをまったく有り難いとは思っていなかったし、もし彼
らが自分のことを思いやってそれをおこなうにせよ、一言くらいの断りはあってしかるべきだろうと
思ったが、目の前できらきらと新緑のごとき真っ新な期待を見せつけられて、それを反古にしてしま
うのは様々な観点から言って大層もったいないことであるように思えた。小十郎が褒めたことで一層
にやる気を出すだろうことを考えれば、多少の不快は堪えるべきだろう。
小十郎は励むようにと言い残して、参議の間を後にした。
午前一杯は使うと思われた仕事が急になくなってしまったので、小十郎は仕様がなく、常よりは早め
に主である伊達政宗の座敷へと向かった。政宗が目を覚ますのはいつもとても遅い。今頃に行っても
どうせ素直に起きてはくれないだろうけれども、どうにも暇なので、もし主さえ承知すれば一緒に兵
の鍛錬所へ顔を出すのも悪くはないだろうと小十郎は考えながら、襖の前に跪いた。

「政宗様」
「おう」

からり、と襖が開く。
見上げると、すっかり身仕度を調えた政宗が笑みを浮かべていた。

「Ha!いい顔だなァ、間が抜けてやがる。鳩みてェだ」

からから笑い、しゃがみ込んで小十郎の額をてのひらで叩く。
小十郎ははっと我に返って、眉を寄せて政宗の手を振り払った。

「―――珍しく、お早いお目覚めで」
「Ah,どうも目が冴えちまってな。しかしおまえも早いじゃねェか。まだお天道さんが顔出したば
 かりだろう」
「それは、」

参議の間の席がなくなっていたので。
と、言おうかと思ったが小十郎は口を噤んだ。
そんなことを言えば政宗にからかわれる材料になるだけである。政宗は黙った小十郎のことは気にせ
ずに、体を伸ばしてうん、と唸っている。さてどこに行くかとまた思案しているのだろう、午前中は
兎も角、午後になれば政宗でなくては出来ぬ書状の処理をしてもらわなくてはならない。遠出はでき
ないと釘を刺しておかなくてはと、小十郎が口を開きかけたときだった。
政宗がくるりと振り返り、

「折角早く起きたンだ。すぐに今日の分の書状を持って来させろ」
「―――、は」
「早めにやっときゃァ、あとが楽だろう?」

頼んだぜ、と言って政宗は踵を返した。
小十郎は主の背中を呆然と見送った。
まさか本気ではあるまいといちおう政務の仕度を座敷に調えさせると、信じがたいことに政宗はさら
さらと書状へ返書を書き、各地の領地から届けられた報告の文に目を通し、印の必要なものへと朱印
を施し、女房から茶を受け取ると、後ろで控えていた小十郎に目を向けて、ひとつきりの左目を細め
てゆるい笑みを浮かべた。

「そんな面して見張ってなくても、今日はきちんとやってやるぜ?」

だから畑にでも行ってこいよ、と主が笑う。

「たまにはおまえにも楽させねェとな」

政宗の言葉は、まったく不純物を混じらせない純度の高いものだった。
小十郎は確かにその言葉に感じ入った。主がそんなふうに考えてくれるなど、これ以上の幸福は従者
としてありえないものである。
けれども、
けれどもだ。

「もういいぜ、退がれよ」

ふつり、と。
鬱憤がまた増える。
泡ぶくが沸き上がるような音が耳の奥で聞こえたような気がしたが、小十郎は腹をやわくさすり、笑
顔を浮かべて主に礼を述べて、頭を下げた。











































「ははあ、それで苛々してるわけねえ」

出会い頭に斬り付けられたというのに、佐助は顔色ひとつ変えずに指先で捉えた刀の切っ先をゆらゆ
らと揺らし、ふんふんと頷きながらするりと小十郎の腕を下ろさせた。
ひやりとつめたい金属の感触に小十郎は眉を寄せたが、何も言わずにそれに従う。
佐助は小十郎の背後に座り込み、こちらにもそうするよう、手で促してきた。

「あいつらは?」
「畑だ。先刻行ったら、追い返された」

小十郎が畑へ行くと、草取り水やり、収穫まで、ちいさなこどもたちが家人を総動員してすべて済ま
せたあとだった。
完璧に整えられた畑を思い出し、小十郎は息を吐く。

「災難だね」

へらりと笑う。
常は苛立ちの元にしかならないはずのその表情が、今日に限っては別の作用をもたらした。小十郎は
黙ったまま佐助の前に腰を下ろし、胡座をかく。佐助は膝を崩して足首を掴みながらゆらゆらと体を
前後に揺らし、いかにもたのしげに小十郎を眺めている。
小十郎は舌打ちと一緒に鬱憤を吐きだした。

「まったく、災難だ」
「いやあんたじゃなくて」
「なんだって?」
「うちの子たちとあんたの主殿やら、部下の御方らがさ。折角あんたのためにと頑張ってくれたんじゃ
 ありませんか」

素直に受け取ればいいのにと言う。
そんなことは言われなくても解っている。小十郎はますます顔を歪めた。

「俺は頼んでねェ」
「難儀なおひとだこと」

けらけらと笑って、佐助は膝に肘を突いた。

「―――しかしそうするとあいつらの計画は失敗かあ」

ぽつりとつぶやく。
小十郎が首を傾げると、いやこっちの話、と話を逸らされた。
小十郎はむっつりと黙り込み、目の前でてのひらをひらつかせる佐助の顔を睨み付ける。佐助が不思
議そうに目をぱちぱちと瞬かせた。小十郎はやたらに丸い赤い目を睨みながら、谷底を這うような低
音で唸り声をあげた。

「おまえもか」
「は?」
「揃って蚊帳の外に追いやりやがる」
「え、あの、何の話?」
「うんざりだ」

小十郎は立ち上がった。

「帰れ」

一旦は収めた脇差しを抜き去り、再び佐助の鼻先に突きつける。
佐助は態とらしく寄り目をして脇差しを眺め、すこし間を置いてから矢張り立ち上がった。睨み付け
るがまったく構わず、へらりと笑って脇差しを握る左手の上に、自分の右手を添える。

「いやなこった」

小十郎はひくりと口元を歪ませた。

「なんだって?」
「だから、いやです、って言った」
「何様のつもりだ」
「ええ、―――俺様?」

けらけらと笑いながら、佐助はぐいと小十郎の腕を引いた。からん、と脇差しが板間に落ちて音を立
てる。拾う間もなく縁側へと引きずり出された。
苛立たしげに振り解こうとしたが、存外強い腕の力で阻まれる。
佐助はいやに機嫌のいい、ゆるんだ顔をして鼻歌など唄っている。

「離せ、阿呆。斬るぞ」
「いやですよ。折角会いに来たのに、早々に死ぬンじゃあんまり報われないじゃない」

くるりと振り返り、悪童のように目を細めて佐助は笑う。

「躑躅がね」
「躑躅?」
「綺麗なところがあるんですよ。行きがけに見つけたンだけど、凄く沢山咲いてンの。そこ、行きましょ
 うよ。良い天気だし、まだこんなに日も高いンだからさ、寝所に籠もるにゃ些と早過ぎるでしょう」

たまには清い逢い引きもオツだぜ、と言う。
小十郎は今度はさらに力を込めて、佐助の腕を払った。

「いらん。餓鬼共でも連れて行きゃァいいだろう」
「畑なんでしょう」
「迎えに行ってやれ」
「なんで」

小十郎は眉をひそめた。

「“なんで”?」
「だって」

佐助は懲りずに小十郎の腕を引く。
そしてほんとうに不思議そうな顔をして、首を傾げながら小十郎の顔を覗き込み、

「俺はあんたに会いに来てンだぜ」

そりゃあいつらもかわいいけど。
でもあんたを独り占めできることなんて、滅多にないんだし、勿体ないじゃねえか。
小十郎は黙り込んだ。佐助はいつの間にか腕を掴んでいた手を、するりと解いててのひらに重ねてきて
いる。そして行こうよ、と言う。小十郎は黙ったまま重ね合わさっているてのひらを眺めた。いわゆる
手を繋ぐというその体勢を、どういうふうに受け止めるべきか、その判断に一瞬思考が停止する。
そのすきに佐助はすたすたと歩き始める。
自然、手を繋いだままふたりで歩く羽目になった。
何度か止せと言ってやったが佐助は一向に聞き入れる様子がない。

「みんなあんたのこと大事にしてくれてるンだよ」

屋敷を出てしばらく歩いたところで、佐助が振り向いて笑いながら言った。

「だから偶にはあんたを休ませようってさ、健気なもんじゃないか」

小十郎は黙ったままそっぽを向いて、ただ歩を進める。
そんなことは解りきっていることである。だからこそ、佐助が来るまでは誰にも言わずに、ふつふつと
沸き上がる鬱憤をすべて腹に抑えていたのではないか。
手甲越しに佐助がてのひらに力を込めた。
視線をやると、へらりと笑う。

「ま、あんたは困らされるくらいのほうが、丁度いいおひとなんだろうねえ」

面倒なおひとだよと言う。
言いながら笑っているのだからよく解らない。
竹林の間を歩いているので、ときどきさわさわと肌に笹が触れてこそばゆくて溜まらない。小十郎は舌
打ちをして顔に当たる笹を払い、前を歩く佐助の足を蹴りつけた。

「その面倒な野郎と手ェ繋いで逢い引きしてる、おまえはなんだ」
「うん」

佐助は相変わらず顔をゆるめながら、天を仰いだ。
真っ青な空には、千切った綿のような雲が幾つかばらばらと浮かんでいる。

「面倒臭いひとに惚れちゃう質なんだよね、どうも」

だからまあ、仕様がないんだなあ。
他人事のように言って、佐助はまた前を向いた。小十郎はふわふわと目の前で揺れる赤毛を眺めながら、
絶句していた。笹の合間からこぼれる木漏れ日が赤毛を斑に染めている。どうしたって目を止めずには
いられない鮮烈な赤が、濃淡をゆらゆら変えながら目の前で揺れている。
小十郎は黙ったまま延々とそれを眺めた。
その光景と一緒に佐助の言葉もゆらゆらと耳の奥で揺れた。


随分間を置いてから、おまえも面倒臭ェよ、と小十郎は辛うじて言い返してみた。
すると即座にあんた面倒臭い奴すきでしょうと言われたので、あまり大した抵抗にはならなかった。










おわり



      
      




母の日話のはずでした。
アップし忘れてたなんて口が裂けても言えない。そしてこどもさんがた出したいんですが出し損ねました。
小十郎は定年退職した途端にぼけるようなタイプですよね、きっと。
空天


2010/05/16
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