拝啓×××、 鎌倉に三度目の雪が降る頃、小十郎はようよう手を動かすことができるほどに回復した。半身を起こすこ ともできるようになったが、まだひとりで歩くことはできない。本人はできると言い張っている。矢張り すぐに脱走するので、佐助は最近では小十郎の座敷の前に必ず見張りをつけるようにしていた。 まるで化け物のような回復ぶりだと薬師は言った。 この調子ならあと二月もすれば問題なく出歩けるようになるだろうということである。 佐助はほんとうに今が冬でよかった、と思った。 たやすく筆談ができるようになると、鎌倉を訪れる愉しみは何倍にも膨れあがり、佐助はますます足繁く 小十郎の元へ通ようになった。小十郎と話すのはたのしかった。小十郎はいつも佐助が来ると、野菜につ いた虫を見るような、ひどくいやそうな顔をして見せて、その苦虫を噛み潰したような表情は特に佐助の お気に入りだった。 からりと障子を開く。 そうして顔を覗かせると、小十郎はもうその顔をしているのだ。 「大分治ったそうじゃないの。とてもひとの回復力じゃねえって、薬師がえらく騒いでましたよ」 一畳台の横に円座を引いて胡座をかくと、小十郎はふんと鼻を鳴らした。ずっと横になったままでは床ず れを起こすというので、布団の上には座椅子が置かれている。小十郎はそれにもたれかかり、書見台を置 いて草紙に目を通しているようだった。 何を読んでいるのかと覗き込んだが、そこに書いてある文字は佐助には読めなかった。おそらく唐の文字 だろうが、小十郎は労せずすらすらと読み進めているようで、定期的に左手が重々しく持ち上がり、紙を 繰る。紙が擦れる音がその度にさらりさらりと鳴った。 「面白い?」 尋ねると、小十郎は浅く頷いた。ふうんと鼻を鳴らし再び覗き込んでみたが、矢張り佐助には何も読み取 ることはできない。草紙は屋敷の蔵に押し込められていたものである。信玄の蔵書か死んだ姫君の蔵書か、 そんなことはもちろん佐助は知らない。 布団の横には、他にも草紙が何冊か積まれていた。 「それ、全部読んだの?」 また小十郎がちいさく頷く。 へえっ、と佐助は態とらしく目を丸めた。 「はあ、暇なんだねえ」 へらりと笑ってやると、気分を害したらしい小十郎の目元がひくりと震えた。何か言おうと口が開き駆け るが、声は唸り声にしかならず、それも骨に響くらしくさあと顔があおざめる。佐助はけらけらと笑いな がら、無理をしちゃあいけないなあと小十郎の背中を撫でてやった。切れ長の目が佐助を憎々しげに睨み 付け、唸り声が一層に低くなる。 それでもなおくつくつと肩を揺らしていると、膝に小十郎の手が乗せ られた。ひょいと眉を持ち上げ、てのひらを差し出してやる。小十郎の太い指が、さらさらとそこに文字 を綴る。 『おまえもな』 佐助はくすぐったげに笑った。 「忙しい合間を縫って、あんたのために来てあげてるとは思わない?」 首を傾げてやると、うんざりとしたような深い息で応えられる。佐助はまた籠もった笑い声をたてた。 てのひらを、指に押しつけてやる。 小十郎が面倒臭そうに、また指を動かす。 『三日に一度は来てる』 「そうだったかしら。あんまり覚えてないな」 『暇人』 「随分な仰り様だ。命の恩人にさあ、まったく、あんたを運ぶのはえらく骨が折れたンだぜ?」 ほおがゆるむ。軽口はたのしい。害がないからだ。 すこしためらってから、また指が動いた。 『心配しなくていい』 するすると指は動く。こそばゆい感触がする。小十郎の指は矢張りとてもつめたい。 『もう逃げん』 指の動きを追っていた佐助は、はっと顔を上げた。小十郎は相も変わらぬ仏頂面を浮かべている。それで もそこにはどことなく罰が悪そうないろが浮かんでいるようで、佐助はまじまじと切れ長の目を覗き込ん でみたが、あんまり黒過ぎていっとう奥深くまではとても見通せそうにはなかった。 反省してるの、と問う。 するとてのひらにぐっと爪が深く抉り込んだ。 「痛い」 文句を言うが、もう小十郎は佐助を見ていなかった。先刻まで佐助のてのひらの上にあった節張った手は、 布団の上に置かれている。骨の浮いた固そうな手の甲を見ながら、佐助はすこしだけ布団の傍に体をずら した。ちらりと視線を向けられる。佐助は構わず、さらに体を寄せた。 掻い巻きの上に乗った小十郎の手が、かすかに動く。 佐助はそれを見計らって、草紙に手を伸ばした。驚いたように小十郎が佐助を見る。それにへらりと笑っ てやって、佐助ははらりと草紙を繰ってやった。 「次見たかったンでしょ」 小十郎は何か言いたげに薄く唇を開いたが、面倒になったのか結局そのまま口を閉じた。それから小十郎 の手が動こうとする度に佐助は先んじて草紙を繰った。そのうち小十郎は手を動かすのを止めて、軽く頷 いて佐助を促すようになった。佐助は何も言わず、その通りに紙を繰ってやった。 ぱらり、ぱらりと、微かな音が座敷に響く。 半刻ほどそうしていると、疲れたのだろうか、急に小十郎が文字を読む速度が遅くなった。疲れたの、と 問うてやると深く頷かれたので、佐助は小十郎の背中から座椅子を抜いてやって、ゆっくりと背中を布団 に横たえてやった。枕を頭の下に置き、体に掻い巻きを被せる。 包帯が縒れていないかと問うと、首を横に振られた。 「右目の旦那、何か不自由はない?」 再び横に首が振られる。 佐助はへらりと笑って、書見台を座敷の隅に押しのけた。 「そう。なんかあったら、遠慮なく言っていいンだよ。あんたはお客さんなんですからね。無碍に扱った ら俺様が旦那に怒られちまう。ね、寒くないかい。些ッと炭を足しましょうか?」 なにしろ今日は雪が降っているからねえと言うと、横たわった小十郎が伸びをするように首を反らせた。 視線を追うと、障子を見ている。 佐助は立ち上がり、障子を半分ほど開いてやった。つめたい空気がひっそりと座敷に染み入っていく。そ れでも風が弱いのですぐには寒くならない。火鉢を小十郎の足下に寄せてやって、佐助は障子の隙間を隠 さぬように、体を引いた。 雪がはらはらと降っている。 小十郎は目を細め、ただそれを見ていた。 佐助は雪を見る小十郎を眺めながら、きっと彼は奥州のことを思い出しているんだろうと、ごく自然の流 れで想像した。そしてそれはたぶん間違っていないだろうとも思った。 雪を見る。北のふるさとを思う。そうしてそこに居るであろう主の安否を思う。小十郎の眉がひそめられ る。佐助は自分の想像が間違っていないことを改めて確認する。 とても単純な生き物だと感心する。 大した付き合いのない佐助にも、手に取るように仕組みが解る。 「積もるかね」 独り言のようにつぶやくと、ちいさく首を振られた。 「奥州のほうはもう、そりゃあ沢山積もってるンだろうね」 今度は小十郎は何の反応も示さなかった。 嗚呼、なんて解りやすい。佐助は薄く口に笑みをひいた。小十郎はじっと雪に目を凝らしている。耳も澄 ませているように見える。音でも聞こえるのだろうか。佐助は真似るつもりでそっと息を潜めたが、よく 解らなかった。 どちらかといえば小十郎の鼓動のほうが大きく聞こえた。 それはすこし乱れているように思えたので、佐助は安堵させるように、掻い巻きに覆われた胸にそっと手 を置いた。 「今度真田の旦那が直々に奥州に文を出すから、それを渡すついでに俺が直接龍の旦那の様子を見てきま すよ。今頃はもう、あっちも起きれるくらいにはなってるんじゃない?」 弾かれたように小十郎が佐助を見る。佐助はへらりと笑った。 「そしたら帰りにここに寄りますから、まあ愉しみに待ってて頂戴よ」 ぽん、と胸の代わりに小十郎の手を叩く。 小十郎は物言いたげな目で佐助を見上げ、左手を持ち上げた。てのひらを差し出してやると、 たのむ と、指がもどかしげに動いた。 思わず、佐助は破顔した。 「承知致しました、と。じゃあ怪我人はせいぜい大人しく養生していてくださいな。龍の旦那が治ってン のに、あんたが悪化したってんじゃ笑い話にもなりゃしない」 揶揄にも素直にこくりと深く頷かれる。 佐助はくすぐったげに首を竦めて、立ち上がった。 座敷を出ようとすると小姓を呼ぶように頼まれたので、何か用事があるというなら自分が聞くと言ったが、 いかにも嫌そうに首を振られた。一体何なんだ俺が聞くよと何遍も繰り返すと、苛立たしげにてのひらに 『厠』と綴られた。 「なんだあ、漏れそうならもっと早く言ってくれりゃあよかったのに」 俺様が連れていってあげましょうか? けらけらと笑いながら言ってやると、思い切り顔に草紙を投げつけられたので、佐助は逃げるように慌て て座敷を出た。 |