Melancholy in the rain day 猿飛佐助はひとつ息を吐いてから、がらりと職員室のドアを開けた。 密閉されていた空間は開くと不快な空気がふわりと拡がって、佐助はちらりと眉を寄せる。きょろきょろと閑散とした 職員室内を見回すと、いっとう左端の机にひょこりと黒い頭が見えた。 「片倉先生」 佐助はちいさく呼びかけた。 頭は動かない。佐助はしばらく待ってからまた呼びかけた。 そこでようやく黒い頭が動いて、ファイルと書類の間から見慣れた顔がのぞく。切れ長の目が不思議そうに何度か瞬か されて、それからこくりと首が傾いた。佐助はそれを見ながらなんとなく、ああまたか、と思った。このおっさんまた なんで俺のこと呼んだか忘れてやがるな。 「―――あんた、呼んだよね、俺のこと」 「俺が」 「四限」 「四限。ああ、そういやァ」 呼んだかね。 担任の片倉小十郎はそう言ってからまた視線を下に落とした。 書類でも書いているのかもしれない。さらさらとペンがはしる音がする。佐助は怒りを覚える気にもなれず、ドアに背 をもたれさせて目を細めて窓の外に視線をやった。昼前から降り始めた雨はひどくなるばかりで、降るというよりは叩 きつけるというほうが適切なほどにその勢いは強い。 ざあざあざあざあ。 雨が建物を突き破るのではないかとぼんやりと佐助は思った。 そうしたら目の前のあのおかしな担任もびしょ濡れだ。ざまあみろ。 「思い出した」 佐助がむなしく妄想で小十郎を貶めていると、ふいに当の本人が声をあげた。 ちらりと視線をやる。鞄に荷物を詰め込み終えたらしい小十郎は席を立って、横の教師になにか挨拶をしてから佐助の 場所まで歩いてくる。佐助はこっそりと息を吐いた。もう慣れたけれども、このぞんざいな扱われ方はどうだろう。 佐助の横に立った担任は、かさ、と一言言う。 「かさ」 「あァ」 「傘」 「他に何がある」 「――――――傘と俺とどんな関係が」 「持ってるか」 「持ってるけど」 朝から雨が降りそうだった。 佐助は大きめの紺色のストライプの傘を持ってきた。案の定雨が降って、どうしようかと騒ぐ同級生を眺めながらちい さな優越感に浸ったりしていたのだ。おばかさんだなあ、天気予報を見なさいよ。馬鹿にしながらいつものメンバーで 帰ろうとしていたのに四限の終わりに小十郎に放課後職員室に来いと言うものだから、孤独な放課後になってしまった。 これで友情が壊れたらどうすんのさ、と佐助は無理矢理逆恨みをしてみる。 傘を持っているという佐助に、小十郎はそうか、と頷き、 「寄越せ」 と手を差し出した。 はあ、と佐助は口元を歪める。 「何言ってるんでしょうかね、先生は」 「おまえは耳が遠いのか」 若いのに気の毒だな、と小十郎は言う。 佐助はしばらく黙ってからにこりと笑った。それから差し出された手を振り払う。 「俺様はどっちかって言うと先生がその年で既にアルツハイマーなんじゃないかと常々可哀想だなあと思ってました。 でもちがったね。アルツハイマーじゃねえや。 アルツハイマーで苦しむ全国の患者に失礼だったねこりゃ。 ちなみに俺は傘一本しか持ってないので、あんたに貸す傘は持ってませんのであしからず」 一息で言うと、小十郎は感心したように腕を組んだ。 それからよくそれだけ口が回るなとほんとうに感心して言った。佐助はどうもありがとうございますと心の篭もってい ない敬語でそれに返す。帰らせてくれ、と心の底から思った。今日はたのしみにしていたドラマの再放送があるんだよ ちくしょうお願いだから帰してください。 「じゃあ、貸せ」 「ねえねえ、俺の話聞いてたかな。一本しか持ってねえって言ったんですけど」 心から思ったけれども、口にはしなかったので当然のように小十郎には伝わらなかった。 小十郎は佐助の不機嫌な声にも一向に構う様子もなく、心配しなくてもコンビニで傘は買う、と言う。そこまででいい。 佐助は首を傾げて、じゃあ買ったらここに帰ってくんのかよ、と聞いた。コンビニと学校は歩いて十分程度の距離があ る。そこからユーターンするのはそれなりに手間だ。 案の定小十郎は面倒だ、と言った。 「じゃあどうすんの」 「おまえも付いてこい」 「はあ」 濡れろと言うのだろうかこの教師は。 外道め。佐助が喉元まで罵倒の言葉を迫り上げていたら、小十郎はドアを潜って勝手に廊下に出てしまった。昇降口に 向かう背中をぼんやりと眺めていたら、それがくるりと振り返って、上にくっついている顔が不愉快げに歪む。阿呆、 と言われた。佐助は苛立つのも忘れてはあ、と間の抜けた声を出す。 クラゲみたいな声だな、と小十郎が言った。 「おいクラゲ。なに呆けてやがる。とっとと来い」 帰るぞ。 そう言ってまた踵を返した小十郎の背中を佐助はまたぼんやりと眺めたが、次にかけられた担任からの声がさっきより も幾分低くなっていたので、ひいと怯えながら慌ててその後を追った。 何故こんなことに。 佐助は思った。雨が傘を叩いている。 だだだだ、と叩きつけられた雨の滴が跳ねてしろい飛沫になるのが見える。だだだだ、という音が振動として肩の上に も降ってくる。傘では覆いきれない部分が露出して、そこを雨が直に叩きつける。つう、と生ぬるい水が左腕を伝って 地面に落ちていく。 ちらりと視線をあげると横の男は相変わらず平然とした顔をしていた。 「ふたりで一本使えば足りるだろうが」 ついさっき、昇降口でそう言ったときも小十郎はこういう顔をしていた。 佐助は目を目一杯丸くしてそれに抗議したけれども、小十郎は一切構わず佐助の手に持っている傘をひょいと奪い取り、 ぱさりと開いて当然のように雨空の下に出て行ってしまった。佐助を振り返り、どうした要らねェなら俺が貰っていっ ていいか、と言う。佐助は首を振った。 「だったら早くしろ」 とろいな。 自分が悪いのだろうか、と一瞬思ってしまうほどに小十郎の顔は迷惑そうだった。 ちがうよね、と佐助は歩きながら確認する。これ俺悪くねえよな。世の中というのはなんて不公平なんだろうと佐助は 濡れる肩の感触に眉を寄せながら思った。俺様なんにも悪いことしてねえのに、なんでおっさんと相合い傘とかしなきゃ いけないんだろうどんな罰ゲームだこれ。 小十郎は何も話さない。 雨の音だけがふたりの間に響いている。 「――――――せんせいさあ」 居たたまれなくなって佐助はつぶやいた。 うん、と小十郎が視線を向けずに返事をする。 「先生さあ、今日降水確率八割だったのニュースで見なかったわけ」 「見たな」 「じゃあ持ってきてくださいよ」 「荷物が多かった」 テストの返しがあったんでな、と言う。 ああそうですかと佐助は適当に返事をした。その多い荷物のテスト用紙も確か佐助が小十郎に言われてひいひい言いなが ら教室に持っていったのだ。しかも別クラスだ。佐助は一切関係がない。 これではまるで小十郎専用の雑用係のようだ。 冗談じゃあないよと佐助は胸のなかでだけ吐き捨てる。 特に会話もないままにコンビニに着いて、さて解放されるかと佐助が息を吐いていたらぱさりとなにかが頭に被さって きた。首を傾げながらそれをつまみ上げてみると、ハンカチだった。 小十郎に視線をやる。傘の水滴を払い終えた担任は、佐助にそれを渡してすこし待っていろ、と言う。え、と佐助は声 をもらした。けれども、小十郎はそれに構うことなく自動ドアを潜って店内に行ってしまった。 残された佐助は、とりあえず渡されたタオルで濡れた肩を拭いながら、不幸のおのれの身を嘆きつつ空を見上げる。す こし小降りになってきた雨脚は、それでもしばらくはこの天気が続くことを嫌というほどに伝えている。携帯を開いて みると、既にたのしみにしていたドラマの再放送の三分の一が終わっている時間だった。はばかる相手も居ないので、 佐助は思い切り息を吐く。 しばらくしてから、後ろでうぃん、と自動ドアの開く音がした。 佐助は癪だったので視線を空から動かさないままに担任を待つ。こつん、と頭になにかが当たった。 「痛いンですけど」 「やる」 「は」 「手」 言われたので素直に手を差し出す。 ビニール傘を左手に持った小十郎の右手から、ころりとなにかが転がって佐助のてのひらに収まった。それはコーヒー の缶だった。佐助が視線をあげると、小十郎は既にぱさりと傘を開いている。なにこれ、と佐助が言うと小十郎はすこ し考えるように視線を宙に浮かしてから、遠回りさせちまったからな、と返した。 「礼と詫びだ」 そう言って小十郎は歩き出す。 佐助はてのひらの上のコーヒー缶をしばらく眺めてから、自分も傘を差して雨の下に出た。小走りで大きな背中を追っ て、追いついたところでぐい、とその肩を引いた。ひんやりとつめたい。佐助の肩が濡れているのとおなじように、小 十郎の右半分の肩も濡れている。 なんだ、と言う小十郎に佐助は息を吐いた。 「お礼ぐらい、俺にも言わせてよ」 「礼」 「そう」 「それが礼なのに、更に礼をするのか」 おかしな事を言う。 ほんとうに不思議そうに言うので佐助は呆れた。 今までの人生をこの男はどうやって生きてきたのだろう。佐助が鈍いから小十郎の言っていることがよくわからないの だろうか。それとももうすこしすると解るようになるのだろうか――――――と、考えて佐助は頭を抱えたくなった。 この男の意味不明な言動を理解できるほど一緒になんて居たくない。居たくないに決まってる。 小十郎は首を傾げて、いらねェ、と言った。もう一回礼をするのも面倒だからここで止めにしておけ、と言われて佐助 は心底から目の前の男の脳みそを覗いてみたいと思い、それからすこしだけ苛立った。 ドラマの再放送をふいにしてまで佐助はここに居るのだ。 小十郎が言うからここに居る。 「面倒」 佐助は目を細めてつぶやく。 面倒だろう、と小十郎が言う。 佐助はへえめんどうねえ、とまた繰り返した。苛々した。濡れたワイシャツは体に張り付いてきていて、小十郎の顔は いつもと変わらない仏頂面で、そしてドラマの再放送はもう終わっている。 貰ったコーヒーの缶を、ずい、と佐助は小十郎の鼻先に押しつけた。 「覚えといてくれっかな。 俺様ねえ、無糖派なんですよ」 こんな甘ったるいもん飲めますか。 カフェラテの表示のされたそれを小十郎の手に押しつけて、佐助は大股で来た道を戻る。ローファーの中に水が入って 歩く度にぐしゃぐしゃと靴下と水と靴底が不愉快の音を立てている。佐助は唇を引き結びながら横断歩道を渡ろうとし たら、ぐい、と後ろから襟を引かれた。 「死ぬ気か、阿呆」 目の前をバイクが通り過ぎていく。 見ると信号機は赤かった。小十郎は目を細めて、ぽい、と佐助を放ってまた阿呆、と言った。もらったものが好みじゃ ねェくれェでむくれてんじゃねェと言われて佐助は思わず担任の胸ぐらを掴み上げてやろうかと思った。もちろんそん なことをしても返り討ちだからしない。思うだけだ。 しかし苛立たしさもここまで来るといっそ拍手でも贈ってやりたいほどだと思った。俺が苛立ってんのはカフェラテじゃ なくてあんたのその意味の解らなさだと言えたらどれだけすっきりするだろう。 何も言わずに目を細めている佐助を拗ねているとでも勘違いしたのか、小十郎は面倒だなとまた言った。それから、次 からはそうしてやるからそれでいいだろう、と言う。 はあ、と佐助は眉を寄せた。 「つぎ」 「次」 「つぎって、なに」 「次おまえにコーヒーを買うときだろうな」 無糖だな、と小十郎は確認するように佐助を覗き込む。 佐助は思わず頷いてしまった。全く面倒な生徒だぜ、と小十郎は呆れたように――――呆れたようにだ!――――息を 吐いて踵を返してコンビニのほうへ向かって歩き出す。振り返りもしなかった。 なんだそりゃ、と小十郎が見えなくなってから佐助はつぶやいた。 「――――――次とか、あんのかよ」 ふるりと体が震える。 冗談じゃない。また思う。 けれどそういえばさっきの発言は多少「次」を見越してのものに聞こえる危険性はあったな、と佐助は思い当たって眉 を思い切り寄せた。なんてことだろう。あの意味の解らない生命体にそういう口実を与えてはいけないとあんなに思っ ていたはずなのに、油断した。 油断したのだ。もちろん。 それ以上の意味なんてない。 ぐ、と傘の柄を強く握る。 それから目の前の水たまりを飛びこえて、早歩きで自分の家を目指す。ああとっとと帰りたい、と思った。いつの間に かするりとてのひらに戻ってきていたコーヒーの缶のつめたさが、佐助の指をひりひりと痛ませる。これを飲むのかと 思うと癪でしょうがない。冷蔵庫に放り込んで賞味期限まで放っておいてやろうかと佐助は思った。思ったあとに、自 分はそれをしないだろうなあと思って立ち止まる。 自分はそういうことが出来ない男なのだと自分が一番知っている。 雨がひどく降っている。 ざあざあざあ、と雄叫びのように雨音が鳴り響く。 そこでもらった仏頂面の担任教師の好意のかけらのようなものが、ひどくてのひらの上で重かった。 おわり |