空は澄み渡るような青空で、如月だというのに空気はやわらかく風はやさしい。 木々はほのかに芽吹き始めていて、そこここに春の気配が漂うような、そんな日だった。片倉小十郎は縁側から見える立春過ぎの 風景を愛でつつ、来月おこなわれるはずの戦における兵の編制表に目を落とす。 それはごくふつうの、日常だった。 「小十郎ォ!!てめェの初物を頂きに来てやったぜ!」 がらり、と。 主である伊達政宗が乱入してくるまでは、の話だが。 一 時 凌 ぎ の 願 望 突然の乱入者に、しかし小十郎は慌てることはなかった。 ちらりと一瞥だけくれてやり、すぐにすいと視線を落とす。編制表をぱらりと捲りながら、如何致しましたか、と問うた。そんな 家老の様子にもいっこうに気分を害したふうもなく、政宗はどすどすと歩いてすとんと文机の横に胡座をかく。そして文机の上か ら編制表を掴み上げて後ろへ放った。 「てめェ、主が直々に訪問してやってるってェのに随分な礼儀もあったもんだなァ、AH?」 「未だ政務のお時間だというのに、あきらかにさぼっていらっしゃった方に礼儀も糞もあるとお思いか」 ばさばさと散らばった編制表に視線をやりつつ、小十郎は腕を組む。 主に向けるものとも思えぬ呆れかえった目で政宗を見る。その視線にすこし政宗はひるんだが、ぐい、とてのひらを突き出してま た先ほどとおなじことを言った。初物を寄越せ。小十郎は首を傾げ眉を寄せ、顎に手をあててしばし考える。 それから言った。 「今の時期ですとまだ鰆は早うございますが」 「・・・おまえはなにを言ってンだ」 「筍なら探させればいくつかは見つかるやもしれませぬ。ああ、そういえば小十郎の畑ではそろそろゴボウが収穫時期ですので、 今夜の夕餉には間に合いませぬが出来るだけはやくお口に入るように致しましょう。そうですな、それから成実たちに浜辺に行 かせましょうか。浅蜊ももう取れる時期ですし汁物に入れましょう」 「話が読めん」 「初物の話ですが」 ご所望では、と首を傾げる。 政宗はつり上がった眼をぱちくりと瞬かせて、それからGod domn!と叫んだ。意味は小十郎にはわからないが、今の発言が主の望 みにかなわなかったことだけはわかる。小十郎はなにやら外来語で罵詈雑言をぶつぶつと呟いている政宗をしごく静かに見つめた。 慣れているので、今更戸惑うことはない。 食べ物のことではないのですかと問うと、あたりまえだと政宗はふてくされたようにほおを膨らませる。 「そんなことの為にわざわざ政務さぼって来るか!」 「何もなくとも政宗様は政務をさぼりやがるように記憶しておりますがこれは小十郎の記憶違いでありましょうか」 「知るか。俺はTodayしか見ねェ男だ」 「・・・左様で」 長く息を吐きつつ、で、と小十郎は主を促した。 言いたいことは山のようにあるがそれでは話が進まぬ。小十郎が聞く体勢に入ると、政宗はにやりと口元を笑みに歪ませてぐい、 とおのれの着物の袷を開いた。ついで目を見開いている家老の袷にも手を伸ばし、肩から力づくで着物を落とす。 更に帯にまで手を伸ばそうとぐぐぐ、と政宗が小十郎に迫る。そのときになってようやっと事態を飲み込んだ小十郎は、主の肩に 手をかけて押し返そうとした。が、遠慮があるのでなかなか体の上の政宗は跳ね返らない。 戯れが過ぎると怒鳴りつけるも、政宗は俺はいつだってSeriousuだぜ、と取り合わない。形のいい唇が、下弦に歪んで小十郎の耳 元にささやきかける。 「さァ観念しててめェの初物を俺に寄越しな」 ぞく、と背筋につめたいものがはしる。 思わず小十郎の切れ長の目が細められる。政宗は更に笑みを深くして、おのれの肩にかかった家老の手を胸元に持っていって握り しめた。そして膝を浮かせてさらに重みをかける。後ろにつくべき支えを失った小十郎の体はぐらりと揺らいだ。 その体はそのまま畳に押しつけられる。 かに思えた。 「・・・・っ!?」 政宗の視界がぐるんと反転する。 ついで政宗の視界にうつりこんできたのは天井だった。畳に叩きつけられたので肺がいっしゅん呼吸を忘れ、それからその忘れて いたぶんの酸素を取り込もうとするように大量の空気が政宗の口からこぼれ、かは、という音になった。ごそごそと政宗の頭上で は小十郎が乱れた着物をただしている。乱された袷だけでなく、裾の部分も開いて足があらわになっていた。 政宗はふ、と笑う。 「相変わらずいい巴投げしてやがるなァ、おい」 「お褒めに預かり光栄です」 「惚れ直すぜ・・・」 うっとりと言う。 小十郎は目を細めながら、遠い目の主を見下ろした。それから着物をただし、政宗の正面に正座をして言う。 申し訳ありませぬが政宗様。 「初物とは、こういう意味のことですか」 「Too Late!おまえは逐一鈍すぎる」 「でしたらそのご期待にはこの小十郎、添えませぬぞ」 「Ah?」 首を傾げる政宗に、小十郎は淀みなく言った。 「既に小十郎は衆の心得がございますゆえ、たとえ掘っても初物にはなりませぬ」 「ほ・・・!」 政宗が口ごもる。 小十郎は更にたたみかけるように言った。それでもよろしければお相手致すことに異存はございませぬが、衆道は政宗様にとって 初の試みとなられますゆえ、よき思いをしたいのならばもそっと見目よい小姓など選ばれたほうがよろしいのでは。 「小十郎はちと薹が立っておりますので」 「ほ、ほるとか、おまえもうちょっとOblateに包んだ言い方をしろよ」 「包んでどうします。どう言おうとすることに変わりはありませぬ。もしご自分で探すのが面倒なら小十郎のほうで相応の者を探 して手配させますが如何致しますか」 「・・・・っ馬鹿野郎っ!いらねェよそんなもん!」 すくりと政宗は立ち上がり、小十郎の鼻先に指をつきつけた。 そして怒鳴る。大体なァ! 「俺はてめェの前の初物が欲しいんだっつってんだよォ!!」 しん、と。 座敷が静寂に支配された。 かこん、という鹿威しの音がひどく間抜けに響いた。 ところでもちろん小十郎はとうに筆下ろしなど済ませている。 政宗とてまさかおのれの家老がいまだ童貞だなど思ってはいない。そもそも小十郎には妻がいる。しかもその妻は政宗自ら選んだ のだから、そのふたりの仲によもや関係がないなどとはさすがに思わない。大体が片倉小十郎という男はその手の猥談にすすんで 加わることはないが、その手の武勇伝には事欠かない男だった。いわくどこどこの廓で一晩遊んだら遊女に金は要らぬから間夫に なるように頼み込まれたとか、城下でも評判の小町が文を届けてきたというのに「素人は面倒だ」と一蹴したとか、言い出せば切 りがない。小十郎はもてるのだ。女はもちろん、男にも。 この男にも、という部分が政宗にとっては大事だった。 雑兵まで交じった軍事訓練が終わったときだった。 政宗は具足を外し、汗を手拭いでぬぐいながら馴染みの兵たちの輪を見つけてそこへと向かっていた。よく見てみると小十郎もそ の輪のなかに居た。政宗はにやりと笑い、近くにあった木に姿を隠してそろそろと近づく。脅かしてやろうと思った。平素苛立た しいほど冷静な家老のあわてふためく姿はいつだって政宗の大好物である。 あと数歩、というところまで近づくとその輪のなかの会話が漏れて政宗の耳に入ってきた。 「・・・・で、そいつどうしてやったんすか」 「信じられねェな、小十郎様にそんなこと言うなんざァ余ッ程死にてェとしか思えねェ」 口々に言う兵に、小十郎は竹筒から水を喉に流しつつ、苦く笑っている。 政宗は竹筒に顔を突っ込ませてやろうと木の陰から飛び出そうとしたが、会話の行方が気になったので一旦留まる。竹筒を地面に 置いた小十郎は、殺しちゃァいねェがな、と言う。 「もう男としちゃあやってけねェんじゃねェか」 「え」 「それって・・・」 「皆まで言わすんじゃねェ。胸糞わりィ」 不快げに眉を寄せる小十郎に、兵たちは顔を青くしている。 政宗は木の陰で首を傾げた。男としてやっていけないってなんだ。なにをした小十郎。 で、でも。兵のひとりが言う。当然だぜそのくらい。 「よりによって小十郎様に抱かせてくれなんてよオ!」 そうだそうだという声が広がる。 小十郎は黙って髪をかきあげている。政宗は木の後ろで固まっていた。抱かせろ。抱かせろ? (・・・俺の小十郎に?) 誰かが抱かせろと言った。 ふつふつと腹の奥底から煮えたぎるような怒りが湧き出てくるのがわかる。どこのだれだ、男としてもう二度と再起できねェよう にしてやるーーーとそこまで考えて政宗はさきほどの小十郎のことばを思い出した。もうしてるらしい。さすが俺の右眼は仕事が はやいなと政宗は思った。 小十郎は平然とした顔で、どうでもいいだろうがよ、と面倒臭そうに言う。 「大したことじゃねェ。なにも初めてってわけでもねェし」 「大したことですよっ!って、え?」 「初めてじゃないんすか!?」 「えええっ?」 「元は小姓だからな。まァ俺にもこうなる前があったってこった」 動揺する兵たちに、小十郎はくつりと笑う。 もっとも今は御免だがな、と言うのも忘れない。伽の相手をするのは童子と相場が決まっている。小十郎は眉をひそめた。今思い 出しても気色悪くて胸のあたりがもやもやしてくる。相場があろうとなかろうと、世の中には物好きが居てその物好きは世間の大 多数とおのれが異なる価値観を持っていることを認めようとしない。小姓の昔なら兎も角、小十郎は今となっては抱くのも抱かれ るのも男は御免である。なぜ女も居るのに男を抱きたいと思うのか不思議でしようがない。更に謎なのは抱いてくれと言ってくる 連中だった。抱かせろ、より抱いてくれ、のほうが実際問題として小十郎の頭を痛ませている。 どちらにせよ男と床を共にする気はない。毛頭ない。 小十郎が眉をひそめていると、横にいる伊達成実がけらけらと笑った。 「小十郎さんの武勇伝はすげぇなあ。経験してねェことなんてないんじゃないの?」 「生きてる時間の違いだろ」 「ちがうって。俺、あと十年生きても小十郎さんになれるとは思えない。なあ」 成実が言うと、兵たちも頷く。 小十郎はやはり無表情のまま、野郎を抱いたことと子を産んだことはねェと言う。輪のなかに笑いが広がった。 その一連の流れを木の陰から聞きながら、政宗は黙って腕を組む。 「・・・・よし」 そしてある決意を固めた。 「Un Fairだ」 と、主はのたまう。 だから俺を抱けもしくはおまえが子を孕めるなら逆でもいい、と言う。小十郎にはさっぱり話が読めない。説明を聞いてもなお見 えない。そういう会話を交わした覚えはあるが、だからといってこの政宗の奇行を理解することには繋がらない。こっそりと息を 吐きながら、小十郎は問うた。 「なにがですか」 「・・・俺の初めては全部おまえなんだぞ」 おまえはそうじゃないなんてあっていいわけがねェ。 憮然として言い放たれた主のことばに、小十郎はぱちくりと目を瞬かせ、それからくつくつと笑った。政宗の顔がさらに不快げに 歪んでいくが、構わず笑う。腹のあたりを抑えながら肩を震わせれば、政宗から蹴りが飛んできた。 「・・・なにがおかしい」 「いえ、政宗様があんまり」 「あんまりィ?」 笑いながら、小十郎は口角をあげる。 そして言った。 「かわいらしいことを仰るので」 目を細めて言えば、政宗の左目が見開かれる。 それからぽんと顔が赤くなった。Noooooo、という雄叫びが座敷に響く。それを目を細めながら小十郎はほのぼのと眺めた。はじ めてがすべておのれだと主は言う。もちろん小十郎は政宗の筆下ろしをしたことも無ければ接吻をかわしたことも無いが、そうい う意味ではないのだろう。そう思えばすこしだけ小十郎の胸は痛んだ。九つの梵天丸の頃、政宗はひととして与えられて当然であ ることをなにひとつ享受していなかったことになる。そのことに、痛みを感じるとおなじだけの優越を感じていることもまた小十 郎はわかっている。が、それは見て見ぬふりをした。 顔を真っ赤にして転げ回っている主に、小十郎は言う。 「政宗様」 「・・・What」 「くだらねェことでそう取り乱すのはおやめください」 「くだらねェだとオ!?くだらなくねェよ!」 「くだらねェです」 そうでしょう、と小十郎は笑う。 「初めてがなんだというのか」 「Specialだろうが」 「初めてがたとえ、他の者の物であろうと」 すい、と手を伸ばして政宗の手の甲に重ねる。 そして言う。この小十郎、今もこの先も来世さえもあなたさまの物にございます。それでは不満かと問えば、すこし黙った政宗は ちいさく頷く。欲深い主だと思った。小十郎は苦く笑う。 ふるえるほどにそのことに喜びを感じるおのれを浅ましいと思うのも今更だ。 お望みにお応えはできませぬ、と言うと政宗の顔が歪む。 主を抱くなど、常識では考えられぬ。そう言っても政宗はいっこうに納得しないようで、不満げに睨み付けてくる。腕を組んで小 十郎は考え込んだ。どうすれば主は納得してくれるのだろうか。 黙り込んだ小十郎に、政宗はとうとう詰め寄ってぐいと袷を掴み上げ、 「俺じゃァ不満か」 と低く言った。 小十郎は眉を寄せてそうではないと返す。が、政宗は聞いていない。不満かそうか成る程なとただでさえ鋭い目つきをさらに鋭く させて、ひどい悪人面でくつくつと肩を震わす。どん、と体が押されて小十郎は畳に背中を打ち付ける。 倒れた小十郎を見下ろしながら、政宗は言った。天下を取った後、もう一度同じ事を言う、と笑う。小十郎は倒れながら首を傾げ た。やはり笑いながら政宗は小十郎の膝を足で蹴り、言う。 「天下を取った龍なら、抱くのに不足があるたァ言わせねェぜ」 そこまで昇りつめてやろうおまえが望むならば。 勿論元々そこまで行くつもりだがな、と政宗は不敵に笑う。小十郎は目を見開いて、しばらく黙ったまま政宗を見た。政宗はやは り笑ったまま、小十郎の視線を受け止めている。く、と小十郎は笑った。笑うことでなにかを押しとどめているような笑いだった。 なんてひとだ、と呟く。体を起こして、政宗の顔におのれのそれを近づけてささやく。 「勿体ないお言葉です」 「Ah?眠たいこと言ってんじゃねェよ。YesかNoか。どっちだ」 「・・・そうですな」 片目だけの主の目を見据える。 天下を取った暁には、と小十郎は笑った。 「謹んで頂きましょう。龍の身を」 政宗がにやりと口角をあげた。 忘れるなよ、と言い放って座敷を出て行く。残った小十郎は政宗の去った先の廊下を眺めながら、長く息を吐いた。今伊達の軍は 急成長しているとはいえ、天下を統一するのにはまた長い年月がかかるであろう。きっと忘れるだろう、と呟く。主の好奇心は常 に様々な場所に向けられる。気紛れの好奇心なら、すぐに冷めよう。 (それでも) 天井を仰ぐ。 きっと永劫、おのれはそれを忘れないのだろうと小十郎は苦く笑った。 おわり |