ひと。 「オイ、おぎん」 「アレ、なにすんのさこの御行は」 仕掛けが終わり淡路から四国へと、おぎんと百介が一行から離脱しようという少し前に、又市はおぎんをずるずると宿 の影へと引っ張っていった。おぎんがその手を忌々しげに払うが、御行は気にした風も無く難しい顔で腕を組んでいる。 「陰気くさい顔するじゃないか。心配しなくても先生は巻き込まないよぅ」 百介が四国へ行くのは、例によって怪談奇談を収集するためであるが、おぎんは新しい仕掛けの為である。もちろんそ のことを又市は知っている。だからこそ、おぎんが四国へ行くという百介に同行を申し入れたとき又市はひどく驚いた。 今回の仕掛けに百介を絡ますつもりはない。 「じゃァ、なんだっておめェ先生にひっついてくンだい。1人で行った方が余ッ程早ェだろうが」 「旅は道連れ世は情けッて言うじゃないのさ。野暮なこと言いなさんな。大体妾は良くッたって先生のことは心配だろ うに。だったら妾がひっついてた方が又さんも安心じゃないのかえ」 おぎんがそう笑うと、又市は苦虫を噛んだような顔になって黙れこの阿婆擦れと吐き捨てた。 四国で八十八カ所巡りでもなどと弾んでいた百介をあの手この手で諦めさせようとしていた小股潜りは、しかしその面 目躍如とはいかなかった。物好きな若隠居はたいていのことは小股潜りに従うが、ことその手の話題となるとさながら 岩のように頑なである。根っからの好事家なのだ。 「目的地着いたら、とっとと別れろよ」 諦めたように又市は言う。おぎんに己の話術を使おうとは思わない。大概付き合いも長いので、無意味なことをよく知 っているのだろう。言葉少なな小股潜りが可笑しいのか、おぎんは戯けて頭を下げて笑った。 「承知つこうまつって御座ぁィ」 「っとに解ってンのかァ、てめェ」 「くどいよゥ。天下の小股潜りがあの青瓢箪のこととなると形無しだねェ」 「五月蠅ェよ。とっとと先生連れて行っちまえ」 虫でも追い払うように手を振る又市に、言われなくても、とおぎんも手を振る。が、表情の方は相変わらずにこやかで ある。おぎんは機嫌がいい。長丁場だった仕掛けが終わり、すぐに次の仕掛けに取りかかるとはいえ観光がてら向かえ ばいい気楽さもある。 それに。 「おぎん」 「なにサ」 又市の再度の制止にも、おぎんはかるく笑んだまま応える。 御行はひどく嫌そうに顔を顰め、 「惚れンなよ」 と言った。 おぎんは又市の言葉の意味がわからず、その切れ長の目をぱちくりと瞬かせしばらく黙ってから、 「誰が誰に」 と問うた。 小股潜りは当然のように答えた。おめェが先生にだよ。 (なァにが『惚れるな』だかねェ) 船幽霊騒ぎから一夜が明けた。 何が何だか解っていないであろう右近を始めとする人間たちをおいて、船幽霊もとい又市一味は四国の海の上である。 朝日が上り始めていた。まだ肌寒い季節であったが、おぎんはひとり甲板で凪いだ海面を眺めている。ざざぁ、ざざぁ、 と規則的な波のおとが心地良い。 船室では、百介が朝の食事の支度をしていてそれを横で又市が見ている。江戸でも指折りの大店の若旦那だというのに 旅慣れている百介は、存外そつなくそういったことをこなす。又市は食事の支度などしない。大抵は人にやらせるし、 そうでないなら生ででも食べる。口で騙くらかすより、自分でやったほうが早いと思うのだけれど小股潜りには小股潜 りの譲れぬところがあるのだろうか。 だから百介の手伝いはしないのだがいつも傍で見ている。 だらしなく口元を緩めて、ひどくいとおしげに。 (どっちの話だィ) 又市は百介がすきだ。 そんなことはおぎんだって知ってる。治平も、徳次郎も、玉泉坊も、要するに又市と百介がともに居るところを見た人 間ならそんなことはすぐに解る。ただどういう「すき」か、は知らぬ。本人も解っていないのだから他人に計り知るこ となど出来ようはずもない。 ただ、治平もおぎんも、なにも言わずにふたりを見ているのは又市にとってそれが良かれ悪しかれきっとしあわせなこ とだと思うからである。しあわせ、が必ず理に適っていて正しいことだとは限らない。むしろそうでないからこそ人は それを求めるのかもしれなかった。 百介が昼の人間だから又市は百介を求めるのだろうかとふと思った。だとしたらそれは、ひどく儚くて無意味でどうに もならない不条理なことではないか。 おぎんは、解らない。 解らないけれど、又市がしあわせであればいいと思う。 感傷的な感情だった。 おぎんは己をらしくないと笑う。それでも、それはほんとうだった。 そしてそれとおなじだけの感傷を百介にも思った。 あの若隠居にも、おぎんはひとしくしあわせを願う。 「おぎんさん」 海に柔らかい音がひびいた。 振り返ると百介が立っている。寒がりの若隠居はもこもこと厚ぼったい綿入れを着込んでいた。 食事が出来ましたよ、と言う。頬が寒さでうっすらと赤い。 はぁ。と。 おぎんは白い息をその赤い唇から吐き出した。 「いッつもすまないねェ。偶にはあの怠け御行にもやらせてやッておくれよゥ」 「いえいえそんな。私にはこれくらいしか出来ませんから―――」 ふと、百介はかなしそうに笑い、 「ほんとうに、私はなにも出来ぬ男だ」 とやはりかなしそうに吐き出した。 「どう―――したンだよゥ、いきなり。又公に何ぞ言われたのかィ」 「そんな、又市さんはなにも仰いませんよ。巻き込んでしまってすまないとまで言ってもらって、そんな、私は勝手に 首を突っ込んで邪魔になっただけだというのに」 「そンなこと」 「いいえ」 百介は、一度空を仰いでそれからやわらかに波うつ海面を見て、おぎんを見た。常になく強い目である。おぎんはすこ し身構えた。目の前の長細い男が、百介でないような気がした。 と、思ったすぐあとに百介はうっすらと笑った。 「私はねェ―――笑わないでくださいよ」 おぎんさんをね、守りたかったんですよ。 内緒話を告白するように、おぎんのすこし赤くなった耳に口を寄せて、ちいさく百介はつぶやいた。 だからね、自分に呆れて居るんですよと。 「だって却って助けられてしまったんですからねぇ」 おぎんは思わず吹き出した。 百介があんまり切なげに溜め息をつくものだからけらけらと笑って、それからすこしだけ泣きたくなった。 守りたいと言われるなんて思いもしなかった。つん、と痛む鼻を誤魔化すようにまたけらけらと笑って、おぎんは弱い 風にほつれた後れ毛をなびかせる。日はすっかり昇って白々と空を染め上げ、水面はきらきらと光っている。おぎんは 言った。朴念仁にしちゃァ殊勝な心がけだねェ。 「天下のおぎん姐さんを守ろうなんざァ、なかなか言えたもんじゃないよゥ」 「そうですねぇ、自分でも差し出がましいとは思いましたが」 苦笑いしながら、でもおぎんさんに何かあっては又市さんに顔向け出来ませんし、とあの山中でおぎんが百介に言った ことをそのまま繰り返す。 おぎんは笑った。あの小股潜りがそんなたまかよゥ。 又市は、例えばおぎんを失ったら、どうするんだろうと考えないこともない。そんな下手を踏む可愛げのある男とも思 えぬけれど、それでも仕掛けがいつだって成功する保証などない。いつ、命を落としても可笑しくはない。 それは又市もおぎんも、この世界に携わる人間ならみな同じ事である。だからこそおぎんは、己が女だというそれだけ で庇護の対象として見られるのをなにより厭うている。 女であることを利用するのはいい。 そのことを躊躇おうとは思わぬ。 けれど守られたくはない。己で選んだ道だ。ひとりで歩く覚悟のもとに其処に居るのだ。ともすればおぎんのことを妹 かなにかのように扱い、保護者ぶる又市につい反抗するのもそう思うからである。おぎんはひとりで生きる。傍らに又 市が居ようと、小右衛門に育てられようと、おぎんはひとりで生きてひとりで死ぬ。 「でも」 これは、私の。 ふわりとおぎんは笑った。 ―――私の、妹です。 「ありがとうねェ、先生」 おぎんがそう言うと、百介はその丸い目を一層まるく見開いて、 破顔した。 まっしろい笑顔である。余計な感情がいっさい入っていない笑顔だと思った。おぎんはべつに百介がなんの苦悩も知ら ず今日まで生きてきたとは思わない。だから、百介の笑顔がこんなにもいつも眩しくきれいなものに見えるのはおそら くは―――おぎんがそう見たいからそう見えるだけなのかもしれない。 おぎんは思う。又市は己が死んだら泣くだろうかと。 泣かぬ。と思う。 思うより強く感じる。おぎんは又市が死んでも泣かぬだろう。小右衛門が死んでも、泣かぬだろう。そんなやわらかな 感情を持ったまま、生きるにはすこしこの世は悲しすぎる。きっとおぎんの一生分の涙は、父母を亡くしたときに流れ 尽くしてしまった。彼処から先のおぎんは、もうひとという括りから外のものである。 おぎんは百介に視線をやった。百介はすこし照れたようにふわふわと耳にかかった髪をいじっている。 百介は、かなしいほどにひとである。 きっとおぎんや又市が死んだら声をあげて啼くのだろう。置いて行かれても啼くのだろう。啼いて泣いてないて、いつ か枯れ果ててしまうほどに悲しむのだろう。 容易に想像できて、胸が引きちぎられそうになった。 百介が髪をいじりながら、おぎんさん、と言う。なンだい、とおぎんが答える。 「私は―――ご存じのように青瓢箪ですし、武芸の心得もなければ又市さんのような智恵もございません。ですがね、 たとえば何か困ったことがあったら、ほんとうにいっとう最後でいいんですけれど―――私も、なにか力になれたら と思うんですよ。いえ、相談されたって私なんかじゃぁ、ものの数にもならないんですよ。それでも、ただ、心の片 隅にでも捨て置いていただければと」 やはり照れたように、今度はすこしかなしい顔で、百介は言って、 それからしろい息をはいた。 おぎんはそれが宙に消えるのを見て、うつむいた。冗談に紛らせて、いつものように百介をからかえばいいのかもしれ なかった。あたしはそんなヤワじゃなィよと言えばいいのかもしれなかった。でも言いたくないと頑ななまでに何故か 思った。目を細めて唇をあげてひそみ笑いをする代わりに、おぎんはぽんと百介の背を叩く。 「頼りないこと言わないでおくれよゥ。先生は妾のお兄ィさんじゃないのかえ」 ふい、と百介の顔が上がる。 おぎんは目を細めた。 「言ってくれたじゃないか。あの賊共の前でさァ」 なにを言うのか、と最初は思った。 あんまり突拍子がなかったから、嘘かと思った。夢かなにかかと、思って。 夢ではなく、ほんとうに、百介は、おぎんを妹だと言っているのだと知って、 「嬉しかったよゥ」 やわらかくて暖かくとおい記憶のなかにしかそんな感情は存在しないのに、百介はいとも簡単にそれを引きずり出して くる。それはひどく痛みを伴う、それでもあまい感触だった。 百介は戸惑ったようにおぎんを覗き込んで、ちいさくつぶやく。 「よいのでしょうか」 「なにがサ」 「こんな野暮が兄でも構いませんか」 「連れには御免でも兄様なら別サね」 「成る程。それは道理だ」 ひどい罵倒ともとれる言葉を、百介は笑って受け流した。 それから丸い目をほそく笑みに歪めて、それではそろそろ参りましょうかと言う。おぎんに背を向け、船室へと向かう その背は、矢張りうすくて細くて頼りないのにおぎんはそれに縋り付きたいような気分に襲われた。 けれど縋り付くことはない。 百介は、やわらかくて暖かくてあまいから、同時にとおくなくてはいけない生き物である。 おぎんは、ひとであっては生きていけない。 「困ったねェ」 又市が戸惑う気持ちも解る。 闇で生きる人間にとって、ひとである、というそのことがどれだけ危険なことかあの男は誰よりもよく知っているだろ う。百介はなにもしなくても、自然にあの男を変えていく。又市は臆病だから恐れるのだろう。変わっては生きていけ ぬ。けれど又市は其処でしか生きていけぬ。 それでも又市は、 百介の手を、取った。 おぎんは。 己はどうだろうと考えようとして、やめた。 おわり |