恋をするのは人間の特権だとかいうが、それは大きな間違いだと思う。 なぜならば、恋は必ずしも正しい選択をするとは限らないからだ。ときどき感情は暴走して、とんでもない相手をそ の対象としてしまう。人間とはとても思えないような、ひどい相手に恋をしてしまうことだってある。 それでも逃げることができないのだ。 ああ、なんて馬鹿げてるんだろう、―――恋というやつは! 人 で な し の 恋 目を覚ましたら横に知らない女が居た。 安い小説やドラマでならばよく聞くようなその状況に、猿飛佐助はきっかりと十秒固まった。五月の連休に入る前日、 同僚と居酒屋でひとしきり飲んだあと、まだ満足できないでひとりですこし寂れた飲み屋に入ったところまでは記憶 がある。でもそれ以降はまったく覚えがない。 見回してみると、どうやら場所は自分の部屋のようだ。 おそるおそるベッドの横を確認すると、やはりそこにはしろい背中がある。 「―――うわあ」 佐助は思わずそう唸って、膝に頭を埋めた。 腕時計をちらりと見るとまだ七時半で、そんなに寝ていたというわけでもないようだったが、酩酊感はまったくなか った。さっきのショックで全部飛んでいってしまったのだ。代わりにがんがんと耳の奥で何かが鳴り響いているよう な痛みがこびりついている。 死んでしまいそうなくらい痛い。 カーテンの向こうからはゆるい朝日が差し込み、スズメの鳴き声も聞こえてくる。 世間が浮かれる連休の始めに、なんでこんなに自分は追い詰められているんだろう。佐助は膝に額をすりつけて、腹 を空かした犬のように唸った。視界の端に脱ぎ散らかした女と自分の衣服が見えて、世界の晴れやかさと反比例する ように佐助の気分にはどんどん暗雲が立ちこめていく。 酒に弱いつもりはない。 そんなに昨日だって飲んだつもりはなかったのに、――― 「ていうか俺、ゴムした、っけ」 恐ろしい想像にさっと背筋が寒くなる。 青ざめた顔で膝をにらんでいると、横から低い声があきれたように答えた。 「安心しろ。そこまでいってねェ」 「マジで!よかったあ、―――って、」 弾かれたように顔を上げると、隣で寝ていた女がころりと寝返りを打って、こちらを見た。 最初に目につくのはその左のほおに刻みつけられた痛々しい切り傷だ。黒髪が秀でた額にさらりとかかり、切れ長の 目がまぶしぞうに細められている。平らな喉が目の前に居る生き物をあきらかに女だと主張していたが、それ以外に は「女」である必然性が感じられない、硬質な輪郭と顔つきをしている。 毛布から出た肩も首も、佐助と同じほどには太い。 でも問題はまったくそんなことではなかった。 「―――かたくら、ぶちょう?」 「おう、猿飛。おはよう」 にたりと女の口元に笑みのようなものが浮かぶ。 佐助は自分の横に居る上司、片倉小十郎の姿に、今度は一分以上硬直したまま動けなくなった。 片倉小十郎は佐助が勤める会社で女だてらに部長職に就いている。 175の長身と、女とは思えないほどに強面で、彼女のことをよく知らない他の部署からは「鋼の女」というあまり うつくしくないあだ名をつけられたりしている。でも同じ部署で働いていれば小十郎に向けてそんな悪口を言うこと はできなくなる。女らしさとはまったくの無縁だが、それでも小十郎は佐助にとっては理想的な上司だった。機転も 利くし、判断も確かで、そのうえ部下に裁量を任せてくれるだけの度量もある。 失敗すればそれはもう恐ろしい小言が待っているが、成功したときに見せてくれる、滅多に見せない笑顔はそれだけ でひどく働く人間の励みになるのだ。 佐助は小十郎のことがすきだった。 「―――ええっと、ですね」 でもそれはもちろん、上司としてだ。 目の前では、佐助の部屋着をまとった小十郎が涼しげな顔でモーニングコーヒーを飲んでいる。新聞を片手にマグカ ップを傾ける姿は女とは思えないほどに様になっていて、思わず佐助もみとれてしまいそうになるが、もちろんそん なことをしている場合ではない。 佐助は小十郎の前にトーストを差し出して、正面の椅子に腰掛けると意を決して口を開いた。 「おれたち、―――昨夜は、なにが、あったんでしょう、か?」 小十郎はトーストにバターを塗りながら、ぱちりとひとつ瞬きをした。 「なんだ、覚えてねェのか」 「はあ、申し訳ない」 「ふうん。酒が弱いんだな」 「そういうわけじゃないンですけど、なんか昨日は、ちょっと、調子乗っちゃったかなあ、みたいな?」 「まァ、いい」 小十郎はトーストを皿の上に置いて、足を組んだ。 佐助の部屋着はおそろしく彼女の体にフィットしていて、男として若干の複雑な気持ちがこみ上げてくる。足はいく らか彼女のほうが長いかもしれない。足を組むと、裾がすこし持ち上がり、おもいのほか細い足首が視界の端にちら ついた。 小十郎は髪をかき上げ、すこし首を傾げてから口を開いた。 「昨夜、俺がひとりで飲んでいたら、おまえが同じ飲み屋にベロンベロンになって乗り込んできた。そこまでは覚え ているか?」 小十郎の一人称は「俺」だ。 佐助は膝に手を置いて、俯いたまま頷いた。 「まあ、―――なんとなく」 「で、おまえは俺の横に座ったが俺にまったく気づかず、あまつさえ俺が飲んでいた日本酒を猪口ではなく癇から一 気に飲んだ。そしてそのまま潰れちまって、店が閉まるってんでしょうがなく俺がおまえを背負ってここまで連れて きたってことだ。本当に覚えてねェのか」 「―――まったく」 「ふうん」 小十郎はたのしげに目を細めると、足を組み替えた。 「どうやら猿飛、おまえさんは絡み酒らしいぜ?」 ずい、とテーブルに肘をつくと、小十郎はほおづえをつき、佐助を上目に見上げてくる。切れ長の目の迫力に、佐助 は思わず背を反らした。 小十郎はくつくつと喉を鳴らし、長い指でとん、とテーブルを叩く。 傾げた首筋がしろくひかるようで、佐助は意味もなくこくりと喉を鳴らした。 「部屋まで連れてきてやると、急に俺に抱きつきやがって」 恋人と勘違いでもしたか、と聞かれ、耳がかっと熱くなる。 小十郎はそこまで言うと、間を空けるようにマグカップに手を伸ばした。薄い唇にマグカップの縁が触れるのを見な がら、佐助はおそるおそる、それで、と話の続きを急かした。 まさかそれだけで、お互い全裸でベッドに入っているわけがない。 小十郎はコーヒーをすこしだけ口に含むと、きれいに口角の両端を持ち上げた。 「キスをされた」 どん、と心臓が鳴る。 次いで全身の血液が凍り付く。顔にそれが出ていたのだろうか、小十郎は心の底からたのしそうに肩を揺らしながら 笑って、椅子の背もたれに腕をついて背をもたれかけた。 「酷ェ顔だ、なんだ。そんなに俺とキスをしたのが嫌か?」 「いや!そういうことじゃなくて、―――ていうか、」 すみません、と頭を下げる。 小十郎はますますたのしげに笑い声をあげた。 「謝るようなことじゃねェだろうが。おかしな奴だな」 「でも、―――無理矢理、だったわけでしょ?」 「いや」 「え」 「そうでもねェよ」 にこりと小十郎が笑う。 「おまえのキスは悪くなかったぜ、なかなか上手かった。器用だとは常々思っていたが、そういうのやはりこういう ところにも出るもんだと思ったよ」 低い声が笑いを含む。 そうすると彼女の声はおそろしくいやらしいものになった。自分の顔が赤らむのが解る。それを見た小十郎がまた笑 った。職場で見る笑みとはまたちがう、その屈託のない笑い方は確かに彼女が女であることを佐助に教えてくる。 佐助はこっそりと焦った。 なんだ、この雰囲気は。 「まァ、そのあと自分ひとりで服脱いで勝手に寝ちまったのはどうかと思ったが」 からかうような口調に怒りはこもっていない。 「え、じゃあ、―――なんで部長まで裸に?」 「いつもそうしているからだ」 「いやなにも俺の家でまでそうしなくても」 「昨夜は暑かったからな。それに一日着た服をそのままで寝るのは趣味じゃない」 まるで当然のことのように言う。 佐助はくらりとめまいを感じて頭を押さえた。小十郎は話は終えたとばかりにトーストを食べている。なんでこんな ことになっているんだろう。佐助は痛む頭を押さえながら必死に考えた。 ていうかどうしたらいいんだろう? 小十郎がやたらに機嫌がいいので、対処の仕方がよく解らない。 佐助がうんうんと唸っているのを横に、朝食を食べ終えた小十郎は椅子から立ち上がると部屋のなかをきょろきょろ と見回し始めた。ふうん意外と片付いているんだなと言う。 はあどうもと佐助は力なく応えた。 「ひとりくらい増えても、問題がなさそうだな」 「はあ、そうですね」 「ところで猿飛、おまえ今恋人はいるのか」 「はあ、居ませんけど」 「ふむ、そうか」 くるりと小十郎が振り返る。 「なら、俺がここに住んでもなんの問題もないわけだな」 「はあ、そうですね―――って、」 え。 佐助は失語した。 小十郎は満足げに腕を組んで、うん、とひとつ頷き、 「これからよろしく頼むぜ、猿飛」 にんまり、と。 まるで悪徳金融業者のように、邪悪な笑みを浮かべたのだった。 次 |