・・・ 船幽霊 ・・・
佐助はしげしげとおのれの手を見つめた。 なんの変哲もない、いつものおのれの手である。指は長めで佐助の器用さを伺わせ、口先で生きてきた小股潜りにふ さわしくその手は下手な女のそれよりすべらかでしろい。船の舳先で水平線をうしろにしながら、佐助はぽつりとつ ぶやく。 「なんでかなあ」 咄嗟に。 咄嗟に掴んでしまった。 こたびの仕掛けは船幽霊を模したもので、佐助をはじめ仕掛けに関わった者はみなこの世の者ではないと少なくとも 相手側は思っただろう。だから小十郎は、ほんとうならあちら側に居るべきだった。そうしてこの世の者としてお得 意の知識を披露するのが常の小十郎の役目である。 いつもそうやって小十郎との間に一線を引いてきたのは他ならぬ佐助で、だというのに岸辺でひとり佐助たちを見上 げる小十郎を見て、佐助は。 佐助はなぜだか、その手を掴んで船へと引き上げた。 仕掛けとしても、小十郎の地位や立場を考えても、どちらにせよ益のないことをしたと思う。 「どういうつもりだ」 と、かすがにも言われた。 金色の髪の人形廻しは、思いのほかあの物書きを気に入っている。あの女も好んで入ったこの世界ではない。表の世 界で生きるあの男に憧憬めいたものを抱いているのだとしても佐助はそれを笑おうとは思わなかった。 ぼんやりと波が白く泡立つのを見ていたら、きしりと船が軋む音が背後から近づいてきた。 振り返ると、小十郎が立っている。 「おや、旦那。おはやいお目覚めで」 「船ってなァ、慣れねェな。眠れん」 「まあねえ。そりゃあ此方は船幽霊、酒や芸子にの屋形船たァいかないさ」 佐助はへらりと笑う。 潮風に髪が靡くのをうっとうしげに抑えながら、小十郎は佐助の横に並んだ。纏っている旅装束はすっかり薄汚れて いる。本来ならば小十郎を引き込むはずではなかった仕掛けに巻き込まれたが為に、随分と過酷な環境へと放り込ん でしまった。佐助は眉を寄せた。 かすがに言われたことばが耳によみがえる。 ――――――死んでいたかも、しれないんだぞ。 ぞくり、と。 背筋になにかが走る感触に佐助は身を震わせた。小十郎がそれを見て、寒いのか、と言う。佐助はあいまいに笑って 小十郎のことばを流す。それからじいと小十郎を見る。薄汚れた物書きは、それでもやはり生まれであろうか育ちで あろうか、朝陽に照らされてどこか荘厳な空気をまとっている。 このおひとが、しぬ。 胸のうちでそうつぶやいてみる。 それは正しく恐怖だった。 ひとり黙り込んだ佐助を不審に思った小十郎が、さるとび、と声をかける。佐助はふいと頭を上げた。小十郎が苛立 ったような顔でこちらを見ている。 「聞いてんのか、てめェ」 「え、あ、ごめん。ぜんぜん聞いてなかった」 「様子がちげェな、っつってんだよ」 「様子。そりゃ俺の話かい」 「ああ」 頷いてから、小十郎はすうと目を細めて言う。 「後悔してんだろ」 佐助はそのことばの意味をいっしゅん計りかねて、小十郎を眺めた。 それからこの船に小十郎を乗り入れさせたことを言っているのだと判って、ああ、とつぶやき、それからちいさく頷 いた。小十郎が不満げに鼻を鳴らす。佐助はそれにけらけらと笑った。 「なんだい、ご不満かよ」 「――――べつに、除け者にされるのはいつものことだからな」 「除け者だなんて滅相もない」 「事実じゃねェか」 小十郎は佐助を睨み付ける。 夜に似たその目に射すくめられながらも、佐助はなおも笑った。笑いながら、なんてこのひとは怖ろしいのだろう、 と思う。苛立たしい、とも思う。誰の為だと思っているのだろう。他の誰の為でもないのだ。 小十郎の為だ。 だから佐助はもうだめだ、と思った。 もうだめだ。だって佐助は小十郎を巻き込んだ。危うい目に合わせ、挙句まるで小十郎までこの世ならぬ者であるか のように扱った。それはすべて、小十郎の為であるはずもなく、 ――――――おれのよくだ。 そのうち、きっと遠くない先に。 佐助は小十郎を除け者にすることが出来なくなることを、半ば確信して絶望する。小十郎はそうなったら拒むまい。 それがさらに佐助にとっては怖ろしかった。 きえよう、と佐助は思う。 その日が来るまでに、佐助は小十郎の前から消えなくてはいけない。 2007/07/22 プラウザバックよりお戻りください。 |