「ねえ、別れて欲しいンだけど」 言った瞬間に相手の顔がまったく変化を見せなかったので、佐助はああしまったなあ、と 口を閉じた途端に後悔した。 嘘 吐 き は 三 文 の 得 佐助の旦那である片倉小十郎は、動じない男だ。 顔は一般的に言っておだやかではない険悪な顔をしているし、性格だって決して気の長い ほうではないのだけれども、それでいて小十郎は物事に対するあらゆる意味での「感動」 が薄いように佐助には思えてならない。それは偏に彼が彼の持ちうるすべての感情の機微 を、彼の最愛のひとであるところの伊達政宗に対してのみその発露を偏らせているからで はないだろうか、と嫁は常々考えている。 例えば小十郎はあまり怒らないが、喜びもしない。 声を荒げることもないが大声で笑うところなんて見たこともない。 嫁としてまだまだ新米の佐助の作るコメントに困る料理の数々に文句をつけることもない が、多少努力してそれらに改善が見えてきても、表面上旦那の顔になにかしらの感情が浮 かぶことは、やっぱりないのだ。 普段、佐助はまあそれはそれでいいかと考えている。 感情の薄い旦那の、それでも浮かんでくる感情の切れ端を、見逃さないように手に取った 瞬間というのはなかなか満足感があるものだし、口角を微妙に上げるだけの微かな笑みや、 好物にだけおかわりを要求する解りにくい機嫌の良さだとかそういうものも、実際のとこ ろまったく悪くないものだ。 でも、と思う。 でもやっぱり、と思うのだ。 ときどきは動じる旦那というのも見てみたい。 そう考えてしまうのは、人間としてまったく自然な感情ではないだろうか。 無味乾燥なインスタント食品的に知り合ってからたった二ヶ月で結婚してしまった佐助と 小十郎ではあるものの、ふたりで暮らし始めてからはもう二年経つ。そのあいだに佐助は 小十郎についていろいろなことを知ったし、小十郎もまた佐助のことを最初よりは知って いるはずだろう。嫁は旦那のことをたっぷり二年かけて、軽く見積もって結婚したばかり の頃より三倍はすきになってしまっているし、旦那だって五割り増しくらいにはこちらに 好意を持っていてくれるであろうという自信だってないわけではない。 だから、それはほんとうに些細な思いつきに過ぎなかった。 「ねえ片倉さん。ちょっと聞いて欲しいことがあるンですけど」 テーブルに朝食を並べ終え、向かい合ってお互いに座り合う。 旦那は朝は大抵嫁の顔なんて一瞥もせずに新聞ばかり眺めているので、佐助は新聞の一番 後ろ側に載っているテレビ欄を見ながら口を開いた。 「どうした」 ぱらり、と新聞が捲られる。 旦那の眉が解りにくくすこしだけ持ち上がる。どうしたのかと佐助が逆に問いかけると、 ライバル企業の脱税が発覚したらしい。ふふん、あそこももう終わりだなと言う旦那の顔 は、はっきりと悪役の顔だった。 佐助はそれにうっとりと見入りそうになり、慌てて首を振る。 「そう、まあ、話なンですけどね」 「おう」 「前々から言おうと思ってたことなんだよ」 「ふむ」 新聞を捲る指は止らない。 左手の薬指に嵌められた銀色のわっかを眺めながら、佐助は言葉を続けた。 「ねえ、別れて欲しいンだけど」 新聞がぺらりと、半分まで捲られたところで止った。 旦那がようやく顔を上げる。今日初めて目が合う。小十郎の黒い眼は朝になってもすこし もいろを薄めることなく、朝日のなかで違和感があるほどにまったくの黒だ。佐助はその 黒のなかに、期待したいろを探そうとしたつまり、―――動揺だとか、驚愕だとかを。 じっと黒い切れ長の目を凝視する。 その間、小十郎は一度だけ瞬きをしたが、他には何もしなかった。 「そうか」 そして二度目の瞬きと一緒に、旦那はそう言って頷いた。 佐助はその返答に、動揺を探すのを忘れて、はあ、と間抜けた声を出してしまった。 「そいつはまた、突然だな―――いや、ちがうのか。どうしてまたそういう心境になった」 半分まで捲られていた新聞が完全に捲られる。 佐助はすこし黙ってから、テーブルの真ん中に置かれた皿にのっているトーストに手を伸 ばし、焦げた面にバターを塗りながら俯いた。それから、まあいろいろ、と適当につぶや く。小十郎はふうんと唸って、新聞を畳んだ。読み終わったのだ。 「いろいろ、ね」 「思い当たること、ないわけじゃないでしょ」 小十郎は黙ってコーヒーの入ったマグカップに手を伸ばす。 ことりとマグカップがテーブルから離れる音と、再びことりとテーブルに乗る音がやたら に静かな室内に響き渡る。佐助はその音を聞きながら、冷や汗でじっとりと濡れた背中を どうしたらいいのかを必死で考えていた。 ちらりと、壁にかかっているカレンダーを見上げる。 旦那もそれに倣ってくれることを期待したが、彼はすでにトーストもベーコンエッグもサ ラダもコーヒーも空にして、会社へ行こうとテーブルを立ったところだった。 立ち上がった小十郎は佐助を見下ろし、ほう、と面倒そうな息を吐く。 「まァ、その話は帰ってからじっくり聞くとしようか―――離婚届は?」 「はい?」 「離婚届けはもう用意してあるのか」 「ああ、いや、まだだけど」 「そうか」 昼間のうちに、市役所に行ってこい。 旦那はそう言い残してリビングを出て行った。 玄関のドアが閉まる音を聞き終えてから、佐助は再びカレンダーを見上げ、四月一日とい う今日の日付を見つけ、完璧に言い出すタイミングを失った自分の嘘についての処遇にひ とりで途方に暮れた。 そんなにたくさんのことを期待していたわけじゃない。 敢えて言うなら、例えば目を見開く旦那とか、動揺してマグカップを落としてしまう旦那 とか、咳き込む旦那とか、慌てて立ち上がる旦那とか、その程度のことを嫁は期待してい たのだ。もちろん、それ以上のことだって期待していなかったわけではない。どうしたん だ考え直せと言い募ったり、俺のどこが不満だ何かあれば直そうと譲歩してきたりしたら、 それはもう愉快に一日が過ごせるだろうと思っていた。もちろん最初からばれてしまうこ ともあるだろう。阿呆、といつもの呆れ顔で罵られ、エイプリルフールなんて真剣にやる んじゃねェよと軽く頭をはたかれる。そうしたら佐助はへらりといつものように笑って、 だってあんたの驚いた顔が見てみたかったンだもん、と。 言う筈だった。 他愛ない戯れのつもりだったのだ。 「―――これはやばい」 旦那が居なくなったマンションの一室で、佐助はおろおろと歩きまわる。 あきらかに嘘を本気にしてしまった旦那が、やはりあきらかにその嘘をそのまま享受しよ うとしている。離婚届けなんて用意しているわけがない。考えたこともない。佐助は深く 後悔した。そういえば旦那はとんでもない堅物で、冗談だとかそういうものが通用するよ うな相手ではぜんぜんなかったのだ。 でもまさかここまで本気で取られるなんて思いもしなかった。 しかも案外簡単に、佐助の嘘を受け入れようとしている。 佐助はうろうろと部屋のなかを行ったり来たりするのを止めて、ソファにすとんと座り込 んだ。天井を見上げ、ほうと息を吐く。 この部屋に越してきてからまるまる二年。 それなりに上手くやってきていると思っていたけれども、それは自分だけだったんだろう か。佐助はなんだかやたらに気分が落ち込んできて、たかだかエイプリルフールにこんな 状況に陥っている自分をこのうえなく愚かしいと思ったが、そう思ったところで憂鬱な気 分が晴れるということはまったくなかった。 旦那の気持ちと自分の気持ちの間に不等号記号が歴然と存在し、しかもその下にイコール がつくことはなく、不等号の記号がぱっかりと口を開けているのは自分の方向であること を、嫁はとてもよく知っている。 でも旦那の気持ちだってゼロではない。 そう思っていたが、気のせいだっただろうか。 佐助はしばらく鬱々と考え込んだあと、立ち上がって両手を思い切りぱんとたたき合わせ た。よし、とつぶやいて深く頷き、キッチンに向かう。考えてもどうせ事態は旦那が帰っ てくる夜にならなければ変わらない。ならば今どれだけ考えても無駄というものだ。佐助 は棚からインスタントラーメンのパックを取り出すと、小鍋でお湯を温めてから乾麺をそ こへ放り込んだ。腹が減っているから嫌なことばかり考えてしまうにちがいない。そうい うときはチープなジャンクフードが一番だ。旦那が絶対に容認しない、当座の食欲を満足 させる以上の何者にもなりえないインスタントをぐるぐると菜箸で掻き混ぜながら、嫁は とりあえず現実から目を逸らすことに決めた。 それがとりあえずにでも適ったのはもちろん、目の前に現実がなかったからで、それは今 頃会社で、佐助のことなんて忘れて仕事をきっちりとこなしているにちがいなかった。い っそ帰ってこなけりゃいいのにと佐助はその現実について思っていたが、生憎と残業がな かったらしく、眉間にしわを常備した現実はいつもより早い午後八時頃にドアを開けて帰 ってきてしまった。佐助は玄関まで迎えに行くかどうかをすこし迷ったが、迷っているう ちに旦那はリビングのドアを開いて入ってきた。 「晩ご飯まだ出来てないけど」 「知ってる」 旦那は短く答えると、鞄を椅子に置いて、キッチンに居る嫁を手招いた。佐助は刻みかけ のキャベツを放置して、手を拭きながらリビングに戻る。旦那が座るように促すので、素 直に椅子に腰掛けた。それを見て小十郎も正面の椅子に掛ける。 ちらりと見た旦那の顔は、やはりいつもと変わらない仏頂面だった。 「今朝の話の続きだが」 佐助は口元を歪め、目を細める。 あんなの嘘だよおばかさん!と言いたいところだけれどもぜんぜんそんな雰囲気じゃない。 旦那は腕を組み、佐助をじっと凝視している。 「原因について、俺も二三考えてみた」 「はあ」 「俺にあると言うんだろう、おまえは」 「―――はあ」 佐助は俯いて、どうしたもんかな、と考えている。 このままだと旦那は、おまえの言い分も解るしこういうものはお互いの気持ちが切れちま ったらおしまいだから面倒になる前に早い内に処理したほうがいいだろうそれで――― 離婚届けは持ってきたか? くらいのことは言い出しそうだ。 「それで」 続く小十郎の言葉に、佐助はほおを痙攣させる。 こんなことならエイプリルフールにかこつけて馬鹿なことを言い出すんじゃなかった。そ もそも小十郎を動揺させようなんて思うこと自体が間違っていた。そんなのは仏陀をソー プランドに連れて行こうと思うような暴挙で、罰当りな行為だったのだ。 すいませんでした俺が悪かったです、と言ってしまいたい。 ああでも、それは果たしてどのようなタイミングで言うべきだろう。 離婚届けの存在について問うであろう旦那の言葉を、佐助は死刑宣告を待つ受刑者のよう に悶々と、そして粛々として待った。 「どこが不満だった」 けれども旦那から出て来た言葉は、予想とはかなりずれたものだった。 佐助は思わず顔を上げて、へ、と呆けた声を出した。 「いろいろ考えてみたんだが、俺はこの二年、それなりに上手くやっているつもりだった」 「―――はあ」 「もちろん、おまえさんはちがうんだろうが」 「いや、ううん、あの」 「猿飛」 旦那が自分を呼ぶ声に、嫁は背中をぴんと伸ばした。 小十郎が真っ直ぐに佐助を見ている。夜にそっくりな黒い眼は、蛍光灯の下でもやっぱり どこまでも黒い。 その目がすこしだけ細くなる。 薄い唇がそれとタイミングを合わせるように開いた。 「そいつは、決定事項か」 佐助は目を瞬かせた。 小十郎は息を吐き、額に指の節を置いてすこしだけ眉を寄せる。 「そうか」 心なしか、いつもは平らに均された声が沈んでいる。 いやいや、そうかじゃないだろうと佐助は思った。俺はまだなんにも言ってませんし、首 ひとつ動かしちゃいませんし、何をあんたはひとりで納得しているんでしょうか? それでも佐助が黙っていたのは、目の前の旦那が何か、今とんでもなく珍しい状態異常を 起こしているように見受けられたからだった。小十郎は佐助から視線を逸らし、テーブル の木目を睨むように凝視している。どことなく苛立たしげに寄った眉だとか、すこしだけ 歪んだ口元だとかは、もともと穏和とは言い難い旦那の顔をこのうえなく凶悪にデコレイ トしていたが、嫁は慣れているので特に怯えたりはしない。 それよりもその顔の原因について考えるとどくどくと心臓が煩くなる。 もしかして、―――と佐助は思った。 もしかして、旦那は今自分を説得しようとしているんじゃないだろうか。 凄く解りづらいけれども、俺を引き留めようとしているんじゃないだろうか、このひとは。 「片倉さん」 上擦りそうになる声を必死でいつものトーンに押さえ込み、佐助は口を開く。 「もしかして、あんたは離婚したくなかったりすンの?」 佐助の問いに、小十郎はあからさまに顔を歪めた。 阿呆か、と言う。 「当たり前だろう」 こくり、と佐助は息を飲む。 背筋に震えがいって、顔が一気に熱くなる。佐助は思わず緩みそうになる口元にてのひら を押しつけ、眉を寄せた。その表情を他の感情と取り違えたらしい旦那がますます顔を不 快げに歪ませる。そうかそんなに嫌だったかと言う。佐助は慌ててちがうんだと弁解しよ うとしたが、すっかり憤ってしまったらしい旦那は急に椅子を蹴って立ち上がり、嫁を思 いきり睨み付けてくる。その視線に佐助は息が止りそうになった。 旦那が本気で怒っている。 怒りの滲んだ目がきらきら蛍光灯のひかりを反射している。 「昨夜までそんな素振りはすこしもしなかっただろうが。おまえはいつも唐突過ぎる。思考 回路が一切理解できねェ」 いやそれはこっちの台詞だと浮かれながらも佐助は思った。 「何か俺に不満があるんだったら、もっと早くから言うべきだろう。別れるだなんだという 話になるまで黙っていられちゃァ、こっちだってなんの対処のしようもねェ」 捲し立てる旦那に、嫁はぼうと黙り込む。 こんなにいっぱい喋っている旦那を見るのは結婚以来初めてかもしれない。ああそれにして も、自分のために怒る旦那というのはこんなにも素晴らしいものだったのかと佐助は震える ように実感した。小十郎が怒っている。佐助のためにだ。社長のためでも会社のためでも仕 事のためでもなく、ただ佐助が別れようと言ったので怒っている。顔はいつもの五倍くらい 怖いし、いつもは腹に響くような低音がすこし上擦って高くなっているし、目の前に居る旦 那はまったくいつもの旦那とはべつのものだった。 どうしよう、と佐助は思った。 幸せすぎて心臓が潰れちゃうかもしれない。 思わず目を逸らすと、小十郎が舌打ちをして顎を捕えてきた。 「なんとか言ったらどうだ」 切羽詰まった旦那の声と顔に、ぷつりと何かの糸が切れた。 佐助は旦那の手を振り払って立ち上がると、テーブル越しに思い切り太い首にしがみついた。 小十郎がすこし体を震わせ、けれども直後になんなんだと苛立たしげに佐助を振り払おうと する。佐助はぶんぶんと首を振って、ますます強く旦那にしがみついた。 「嘘」 「は」 「嘘。ぜんぜん嘘。俺もあんたと別れたくない」 旦那が黙り込む。 しばらくして、佐助の背中にためらいがちに腕が回された。 「―――そうか」 つぶやいた声には確かに安堵が滲んでいた。 耳元に響いたその声に、佐助は心臓がくしゃりと潰れた音を確かに聞いた。 体をそっと離し、旦那の目を覗き込む。夜のいろをした目にはやはり安堵のいろが浮かんで いて、佐助はへらりと笑みを浮かべ、しわのよった眉間にキスをしてから、切れ長の目を縁 取る睫毛を吸うように瞼にもキスを落とした。旦那は咄嗟に目を閉じたが、すぐにまた開い て、佐助の唇に軽いキスをしてくれた。 唇が離れると、阿呆、と罵られる。 エイプリルフール万歳。 くしゃくしゃになった心臓の痛みに堪えながら、佐助は小十郎の肩に顔を埋めた。 日付に気付いた旦那が鬼の形相で嫁をベランダに放り出すまで、あと三十分。 おわり |