切なくなるほど予想通りに、旦那は社長にかかりきりだった。
佐助はホテルの一室で今日も社長に振り回されて疲れ切っている旦那をぼんやりと眺める。
シチリア滞在二日目、シラクサのオルティージャ島の海岸で遊びに遊びまくった政宗に付き合わされた小十郎は、当然
のように日焼け止めなどしていないので元々浅黒い肌が強い日差しで真っ赤に染まっている。佐助は氷をタオルでくる
んで、特に日焼けがひどい首筋にあててやった。

「どうよ、ちょっとは楽かい」
「あァ」

旦那はほうと息を吐く。
佐助はベッドに横たわってる小十郎の首筋にかちゃかちゃとそれを当ててやりながら、こちらは出そうになる息をぐぐ
っと堪えた。旦那の黒いブイネックのサマーニットから露出している鎖骨にぺたんと額をくっつける。
おい、と旦那がうんざりとした声を出した。

「俺は疲れてる」
「わかってますよ」

触るぐらいいいじゃん、と佐助はつぶやいた。
小十郎の赤い肌はじんわりと熱をはらんでいた。

「すげえな、熱い」
「相当焼けたからな」
「かわいそうだね」
「おまえは焼けんな」
「俺日焼け止め塗ったもの」

ポケットから日焼け止めのボトルを取り出すと、小十郎の顔が歪んだ。
気色悪いなおまえ、と言われる。佐助は特に気にせず首をひょいと竦めて、ひりひりと赤い旦那の項を無遠慮にぺしり
とひとつ叩いてやった。ひくりと小十郎の体が揺れる。けらけらと佐助は笑って、殴られる前にするりと体をベッドか
ら降ろした。小十郎は恨めしげに佐助を睨み付けている。
はん、と佐助は鼻を鳴らした。

「折角俺様がやさしくしてあげてるってのに、この旦那様は全く感謝しねえンだから」

困っちゃうぜ。
大仰に息を吐いて、佐助はバスルームに向かった。
ひょいひょいと服を脱ぎ捨てて、シャワーの栓を捻る。溢れ出てくるお湯が音を立てて、バスルームがそれで埋まる。
やれやれこまったね、と佐助はそれに紛れてつぶやいた。
やれやれこれはこまりましたよ。

「聞いてるのと、見てるのはまたちがうな」

旦那が社長命なのは今に始まったことではない。
そんなことはずっと知っていたし、知っていて結婚したし、知っていて今日ここまで一緒に暮らしている。
こりゃ計画外だな、と佐助はお湯を引っ被りながら眉を寄せた。
今更だ、と思う。


今更こんなに苛立つとは思っていなかった。


シャンプーを泡立てながら、首を傾げる。
おかしいなあ、と思う。一番最初に政宗と小十郎が居るのを見たときは、うわあ、と思った。うわあ、なんだこいつら
暑苦しいな。結婚式当日で、政宗は泣きながら小十郎に抱きついて、小十郎も涙を浮かべながらそれを宥めていた。す
っきりと自分の伴侶に存在を忘れられても、それでもそのとき佐助は腹は立たなかったのだ。
噂には聞いてたけどここまでかよ、と笑ってしまいそうになったくらいだった。
それから幾度か政宗と小十郎が一緒に居るところは見た。その度に、それは佐助だって多少の苛立ちは覚えた。おいお
い俺も居るんですけど、と言いたくなることだってなかったとは言わない。それでもまあそれが旦那だし、そういう約
束で結婚もしたし、べつにあの暑苦しい関係を小十郎と築き上げたいとも思ってないのでまあいいやと思っていた。
おかしいなあ、と今後は佐助はつぶやいてみる。

これは認めなくてはいかんかなあ、と思う。

バスルームを出ると、旦那はベッドで死んだように眠っていた。
佐助はほうと息を吐き、旦那の横にぽすんと沈み込んで、苦しげに寄っている眉間のしわをくりくりと指で撫でる。そ
のうちにすう、としわが引いた。佐助はそれを見届けてから、うっすらと開かれている旦那の薄い唇にこっそりキスを
した。すぐに離して、もぞもぞと小十郎の腕を持ち上げて自分に勝手に巻き付ける。
胸に耳を当てると、心臓がとくとく騒ぐ音がした。
やべえなあ、と思う。

「ああ、こりゃ駄目だ」

佐助はうんざりと息を吐いて、腕を小十郎の首に回す。
小十郎はまったく起きない。とことん疲れているのだろう。それを良いことに佐助はコアラのように旦那に抱きつきな
がら、もうほんとに困っちゃうなあ、とつぶやく。旦那の首筋からは、さっき付けた痛め止めの軟膏のにおいがした。
それから髪からはホテルに備え付けのシャンプーのにおいがする。おんなじだな、と思った。佐助の髪からもたぶんそ
れとおんなじにおいがする。
もう一度耳を胸に当てた。

とくとく、とくとく、とく、とくん。

他の誰でもなくて、片倉小十郎が生きている音がする。


「ああもう」


ぎゅう、と大きな体を思い切り抱き締める。
どうすんだこれ、と思った。



こんなに自分の旦那を今更すきになってどうすんだよ、と嫁は途方に暮れた。



























最終日になった。
明日の飛行機で、日本に帰る。

「楽しかったでござるなあ」

幸村はしあわせそうにジェラートを食べて笑っている。
佐助はこぼれかけているオレンジのそれをハンカチで拭って、はいはい、と適当に相槌を打った。幸村はすっかり焼け
て小麦色になっている。佐助は焼いても赤くなるだけですぐ戻ってしまうので、できるだけ焼かないようにしている。
旦那に女々しいと罵られようと知ったことではない。
シチリアの太陽はなんだか日本のそれとはちがうもののようだな、と思う。
空の青さが嘘のようにあざやかで、油絵のように粘着質だ。佐助はそれを見上げながら、もう明日だねえ、と幸村に言
った。そうでござるなあ、と幸村が返す。

「旦那はどこが一番たのしかった」
「そうでござるなあ。やはり海かな」
「海ねえ。旦那泳ぐのすきだものな」

佐助はへらへら笑って、ふと視線を街の一角に止めた。
シチリアの県庁所在地のラグーサは、小十郎が行きたいと言ったので行くことになった場所らしい。どうやら映画に出
ていたらしい。佐助にとっては縁もゆかりもないただの未知の街に過ぎない。ラグーサには新市街と旧市街があって、
佐助と幸村は丁度その中間地点に居た。シチリア島のなかでも特に渓谷に囲まれているラグーサは、今まで見てきた街
とはどことなく雰囲気がちがって、ちがう国のようだった。
佐助は裏道のような場所に目を止めて、ひょいと顔をのぞかせる。くねくねと迷路のように曲がりくねっている道は、
建物に太陽を遮られて薄暗く、たまらなく好奇心を刺激された。しばらくじいとそれを眺めていると、随分前のほうへ
と進んでいた幸村に大きな声で名前を呼ばれる。

「佐助、何をしておるでござるか」
「いや、ちょっと面白そうな裏道見ッけちゃった」

へらりと笑って、路地を指さす。

「俺ちょっと行ってみるよ。旦那はどうする」
「其腹が減ったでござる」
「じゃあ、先帰っててよ」

俺も後で行くからさ、と手を振る。
わかった、と幸村はやはり大きな声で答えた。
幸村が角を曲がって――――きちんとホテルへと向かう角を――――行くのを見届けてから、佐助は狭い路地にするり
と入り込んだ。建物を構成している煉瓦はどれも薄い褐色で、蜂蜜のようなねっとりとした感触を見ているだけでての
ひらに感じ取れる。それはどれも地中海の潮風にあおられてうっすらとしらんでいる。石畳の足下は、歩く度にかたん
かたんと音を立て、狭いそこで反響するような響きをはらむ。
佐助はきょろきょろとあたりを見回しながら、ひたすらに道を進んだ。

そこは、ほんとうに迷路のようだった。

建物同士が微妙にずれているせいで、道が曲がりくねっている。
佐助はそこをふらふらと進みながら、ふと空を見上げた。狭く切り取られた青空は、やはり作り物じみて濃く青い。
雲の一切れすら浮かんでいない。太陽のひかりが当たらない路地はひんやりとつめたかった。日本とちがって、イタリ
アの空気にはほとんど水が含まれていないので、刺すようなひかりがないと露出した肌には寒すぎるほどだ。
ちがう国だな、と佐助は思った。
ここはちがう国だ。
しばらく進むと、広い空間に出た。
急にそこに浮かんできたような唐突な空間に、佐助は足を止める。日中なのでひとは溢れるようにそこかしこに転がっ
ていて、けれども誰とも視線が合わないのでまるで自分が空気になったような気がして佐助は愉快になった。軽い足取
りで広場の中央に出て、真ん中のベンチに腰を下ろす。
右肩にかけたリュックからペットボトルを取り出して、こくりと飲み干す。
目の前を通り過ぎていく人間の群れを眺めながら、さて、と佐助はほおづえを突く。

「さて、どうすっかな」

ほう、と息を吐く。



さてここは何処だろう。




























しょうがないので元の道を戻ろうかとも思ったけれども、どうにもここが何処かが解らない。
とりあえず喫茶店に入って、英語で注文をして、しばらくひとの群れが引くのを待ってからまた外に出た。さっきまで
空にこびりついていた青は何処かへ消えてしまって、代わりに橙で空は覆われていた。
ひとは元から居なかったようにすっかり消えている。
薄暗くなった路地に入って、きょろきょろと道を探しているうちに本格的に迷った。しかも日も暮れてしまった。やれ
やれと佐助は壁に背を預けて首を傾げる。地図もなければ土地勘もない。ついでに言葉も通じない。あれ俺相当これや
ばいなあと思いつつ、佐助は髪を掻き上げてまあしょうがねえや、とまた歩き出そうとした。

そこでぐい、と腕を引っ張られる。

さあ、と一瞬体温が下がった。
シチリアはマフィアの街だ、というとても偏った情報が頭を駆けめぐる。
やべえ殺される、と思った。それからそんなんいやだし、とすぐに思い直し、くるりと振り返って肘を思い切り顔に打
ちつけてやろうと腕を構えると、

「阿呆か、おまえは」

呆れた声と一緒に、佐助の顔のほうが思い切り叩かれた。
ぐう、と声がもれる。鼻が潰れたような鈍い痛みが顔の中心部に止まっている。それを抑えて顔を上げると、物凄い仏
頂面をさらした目つきの悪い東洋人が居た。
身長は佐助より拳ひとつぶん大きい。
左のほおに傷がすうとついて、耳の下まで伸びている。
眉間には谷のように深いしわがついていて、眉は鋭角に上を向いている。




要するに旦那が居た。




あれえ、と佐助は首を傾げる。

「なんで片倉さんここに居ンの」

愛ですか、と聞くと今度は耳を思い切り引っ張られた。
痛い痛いやめて、と騒ぐとそれでも旦那は十秒ほど引っ張ってから、満足したのかぱ、と手放した。ひりひりと耳が痛
む。耳と鼻を抑えていると、上から物凄く馬鹿にした溜め息が落ちてきた。
見上げると小十郎がてのひらを額に押し当てて、ああ、と低く呻いている。

「おまえは」
「へ」
「どうしてそう」

阿呆なんだ、と言う。
佐助は首を傾げてから、きょろきょろと辺りを見回す。
誰も居なかった。太陽はどこかに隠れてしまって、人間も何処にも居なくて、それから街灯がほとんど無いので旦那の
顔もいまひとつあいまいだった。小十郎はひとりのようだった。
ああ、と佐助は声をあげた。

「片倉さん」
「なんだ、阿呆」
「もしかして」

探しに来たの、俺のこと。

「もうどうでもいい」

小十郎はつぶやいて、くるりと踵を返した。
すたすたと長い足でくねくねと曲がりくねった道を物凄い速さで歩いていく。佐助はあわててそれを追った。追いつい
て腕を掴もうとすると、反対にぐい、と腕を引っ張られる。小十郎の大きなてのひらが、佐助の手首を掴んでそのまま
引っ張られていく。佐助はすこし小走りでそれに従った。小十郎は佐助を振り返らないので、どういう顔をしているか
はよく解らない。
おまえ何時だと思ってる、と小十郎は言った。

「知らねェ土地で勝手な行動をするな、餓鬼か」
「だって面白そうだったんだもの」
「だったらせめて道確かめて進みやがれ。ここは迷路で有名なんだぞ」
「そんなの知りませんよ」

佐助は眉を寄せて、それから辺りを見回した。
なんとなく見覚えがある。来た道を戻ってるのだ、と思った。片倉さんってここ詳しいの、と聞くと、詳しい訳ねェだ
ろう初めて来たんだから、と返される。それにしては随分と迷いがない。
あまり話しかけるな、と旦那は低い声で言った。

「解らなくなる」
「え、なにが」
「道が」
「へ」
「間抜けた声を出すな」

忘れるだろうが、と小十郎は言う。
要するに今まで来た道を旦那は必死に忘れないようにこんな物凄いスピードで戻っているのだ、と佐助は納得した。大
人しく黙って小十郎に手を引かれる。時折擦れ違う人間が、不思議そうに小十郎と佐助を振り返った。さらわれてるよ
うに見えンのかなあ、と佐助はつぶやく。知るか、と小十郎は短く返す。
そうだねえ、と佐助は続けた。

「それに」

暗い路地は、ちがう世界のようだった。
小十郎はそのなかを迷いもなく進んでいく。
佐助は大きな背中を見ながら、それに、と声を路地に響かせる。







「それにどっちかって言うと、俺があんたを攫っちゃいたい」







ぴたりと小十郎の足が止まった。
勢いづいていた佐助は止まることが出来ずに、こてんと肩に顎をぶつけた。
佐助は前に回って、どうしたのさ、と小十郎の顔をのぞきこんだ。途端にぺしりと額を叩かれる。おう、と後ずさると
旦那の低い吐息が、木管楽器のように路地に響き渡った。
ふわふわと、どこかに篭もるような音だった。
佐助はすこしだけ目を細めて、それからへらりとそれを笑みに崩す。

「なんちゃって」

ぽん、と旦那のほおを叩く。

「早く行きましょうぜ。日ぃもとっぷり暮れちゃったし、ホテルまで結構あるでしょう」
「―――――――た」
「へ」
「忘れた」

ほう、と小十郎が息を吐く。
それからぎろりと佐助を睨み付けた。

「今ので忘れちまっただろうが、道を」

佐助の手を振り払って、小十郎は髪を撫でつける。
そして携帯を胸ポケットから取り出して、耳に当てる。しばらくしてから、小十郎は口を開いた。まさむねさま、とい
う音が路地に響く。佐助は聞き慣れた、たぶん旦那が一番よく使うその音を聞きながら、ぼんやりと暗い世界でたった
ふたりだけ存在しているような、そういう異様な感触を全身で吸い込んだ。
やはりそれは、ちがう世界だった。

「はい、明日には必ず。空港には直接向かいます。
 申し訳ございません。荷物のほうはもしなんでしたら郵送でも構いませんので、はい、それでは」

通話が終わった。
ぱちりと携帯を閉じて、小十郎はまた息を吐く。
そしてちらりと視線を佐助にやった。口を開いて、何かを言う。佐助はぼんやりとしていたので、最初それを聞き逃し
てしまった。へ、とパンクした自転車のタイヤから漏れる空気音のような声を出して首を傾げると、小十郎は舌打ちを
して、けれどもその後にすこしだけ笑った。
そうして手を差し出す。

「今夜だけだ」

そう言う。
佐助は訳も分からず、とりあえず旦那の手を握る。
また首を傾げると、今度は小十郎は思いきり呆れた息を吐いて、



「攫いたいなら、攫えばいい」



そう、淡々と言った。
佐助は呆然として、それからぐい、と腕を引いた。
旦那の体がひどく近くまで寄る。すぐ傍の旦那の仏頂面をしばらく眺めてから、佐助はようやくおなじように口角を持
ちあげて、それから耐えきれずにやはりへらりと顔を笑みで崩す。
何処に攫ってやろうかな、と嫁は旦那の耳元で言った。

「何処へでも」

小十郎はやはり淡々と言う。









佐助はほんとうにつまんないひとだな、と笑いながら、小十郎の唇に触れるだけのキスをした。






















おわり


       
 




何て言うか、もらったものが凄すぎてなにを返してもどうにもしようがないんです。
なんかもうどうすればいいんですか?(聞かれても)うわあああああん、自分の実力の無さが切ねえです。
七瀬さん七瀬さん、いただいた素晴らしいイラストと漫画に対してこんな話で申し訳ありませんが、愛だ
けは詰め込んだのでもしよろしければお納めくださいませ・・・!



あ、ちなみに管理人シラクサに行ったことなんて一度だってありません。

空天
2007/08/19

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