「―――何者だ、おまえは」 口にしてから随分と間の抜けた文句だと小十郎は悔いた。案の定男の笑みが一層に深まっている。 男は赤毛の上に目まで赤かった。 「さて、何者でしょう?」 赤毛で赤目の男は、剽げた調子でそう言うと徐に立ち上がった。小十郎はそこで始めて、男がいや に古風な、そうして仰々しい格好をしていることに気付いた。草色の狩衣に、無帽なところを見れ ばそう高位の者ではないだろうが、もしやすると神社の関係者かもしれない。神官かと試しに問う と、男はけらけらと笑って首を振った。 「しかしあんたもよくこんなところで御百度参りなんてしようと思いますね。さぞかし面倒だった ろうに」 百度碑がおかしなところに置いてあるでしょうと男は言う。矢張り神社の関係者なのだと小十郎は 思った。 「あァ、―――なんだって階段の下にあるんだろうな」 「そりゃもちろん、嫌がらせのためでしょう」 「なんだって?」 「いや此方の話」 へらりと男は笑う。 笑った顔は存外におさない。 「それよりもお疲れでしょう。どう、すこし休んでいったら。大したものはありませんけど、近く に氷室があるから氷なら出せるよ」 「いや、―――折角だが」 もう余程急がなくては、城の者に夜抜け出したことが知れてしまうだろう。小十郎が首を振ると、 男はそう大して落胆した様子も見せず、そいつは残念、と態とらしく首を竦めた。 「新座者は苦労するでしょう」 男はそう言って、同情するように小十郎の肩を叩いた。 「特に問題の御嫡男の傳役なんて、いっとう面倒な役職に就いちまって、俺様同情しちゃうなあ ―――大変だね、片倉小十郎さん」 そこまで聞いて、小十郎はぞっと背筋にはしるつめたいものに全身を震わせた。 男はいかにも労しげに小十郎の顔を覗き込んでいる。 小十郎は一度も自分の素性を話してはいない。 「―――何者だ?」 小十郎は腰の刀に手を添え、再び問うた。 男はくふふ、と口のなかに籠もるような笑いをこぼし、一歩退いてぴょんと軽く拝殿の階段を登る。 さて何者でしょうと繰り返す。小十郎はすらりと刀を引き抜いた。 夏だというのに辺りはひんやりと冷えている。 男の張り付いたような笑顔がひどく不気味だった。 「いいね、気に入ったよ。あんた、なかなか面白そうだ」 しばらく睨み合ったあと、唐突に男はそう言った。 そして小十郎がその言葉の意味を問いただす間もなく、ふわりと浮くように階段から飛び降り、その 一瞬あとには小十郎のすぐ目の前にまで近寄っていた。刀を突き付ける間も間合いを取る間もない。 小十郎は体を引きかけたが、男の手がそれよりも先ににゅっと伸びて腕を取った。女のように細い腕 が、その見目からでは想像しようもない力でぐいと小十郎を引き寄せる。そして息を吐く暇もなく、 左手を男の両手に包まれた。 「あんたの願いを叶えてあげよう」 男はもったいぶった口調で言った。 ぬるい温度がじわりと伝ってくる。男は笑みを浮かべながら、小十郎の左手を口元に近づけ、唇をそ っと押し当てた。男にしては厚い唇がぎょっとするほど赤く、そのいろを見留めて小十郎はようやく、 その手を振り払うことを思い付いた。 しかし振り払おうとする前に男のほうが離れて行ったので、小十郎が腕を振り上げたのはまったくの 無意味な行為になってしまった。 男は笑いながら拝殿を昇り、罰当りにも賽銭箱の上に腰を下ろした。足をばたつかせ、満足げに口角 を持ち上げる。 「あんたのかわいいご主人様の悪いところに、その左手を翳しておあげなさいな。そうすりゃ、きっ とすぐによくなるよ」 小十郎は自分の左手を眺めた。 何も変わったところはない、常の無骨な、見慣れたおのれの手でしかない。改めて男の顔を見るが、 そちらも変わらずにやにやと腑抜けた顔をしていて、とても奇跡を起こせるふうには見えなかった。 からかわれたのかもしれない。 小十郎は仏頂面をして男を睨んだ。 「まあ、騙されたと思ってやってみればいいじゃない」 小十郎の胸のうちを読んだように男が笑う。 「それよりさ、もう大分お天道さまも昇っちまってるけど、お城へはまだ帰らなくても大丈夫なの?」 男は頭上を指さした。空は夏の朝らしく、真っ青に染まって雲のしろが目に痛いほどに、しろい。 小十郎は舌打ちをして踵を返した。 男が笑いながら、お侍さん、と背中に声をかける。 「願いが叶ったら、また会いにお出でよ。今度は氷をご馳走するし、―――それにあんたのお願いを叶 えてあげたご褒美だって、貰わなけりゃいけないからね」 本気か冗談か判じかねる男の言葉を背に受けながら、飽きるほど上り下りした長い階段を、小十郎は転 げるようにして駆け降りた。 |