カモとサギ たぶん、―――と佐助は思う。 どこかで、なにか、間違えたのだ。 きちんとした約束をしているわけでもないのに、小十郎は毎週律儀に映画館にやってくる。しろすぎて眩しい くらいの真新しいロビーで、たいてい彼はベンチに座って本を読んでいる。読んでいるのはクラシカルな海外 の推理小説ばかりで、ミステリが好きなのかと一度聞いてみたら、最近読み始めたばかりだと小十郎は答えた。 「暇を潰すにはミステリが一番いいと聞いてな」 そうやって文庫本をしまう小十郎は、べつに暇なわけではない。 日曜でもときどき休日出勤があるようだし、話を聞いていると毎日遅くまで働いているようだった。でも小十 郎は働くことを苦だとはまったく思っていないのだという。仕事があるのは有り難いことだと小十郎は言う。 それはべつに、不況だからだとか、仕事が大好きだとか、そういうことではなくて、仕事もしないで生きてい くには人生というのはあんまり長すぎるという、そういうことのようだった。 片倉小十郎はおおまかにいって、おかしな人間だ。 ひとの話を聞くのが上手で、どんなことにもそれなりの知識があって、頑固かと思えば案外柔軟だったりする。 いかにも大人な男かと言えばそれはまったく見当違いで、ときどきこどものようにわがままなことを平気で言う。 人当たりがいいようで、その実、世のなかのだいたいのことに興味がないのではないかと佐助は疑っている。 毎週見ている映画だって、たぶんそんなに好きなわけではないのだ。 コーヒーはブラックでしか飲まないくせに甘いものが好きで、酒はいくら飲んでもちっとも酔わない。恋愛映画 を見ているといつも途中であくびを噛み殺している。女の趣味は佐助とはあまり合わない。一方的に音信不通に していた恋人とは、あのあときちんと別れたらしい。あまり笑わないので、たまに笑ってもどこか不慣れで、本 人は隠しているけれどたぶん、すこしばかりさみしがりやなのだと思う。 そしてとびきりの、騙されたがりだ。 詐欺師なんてなるもんじゃない。 佐助は今、痛いほどにそう感じている。 でもそれは、いつかに金色の女に言われたような。深刻でありながらもどこかぴんとして清々しい、過去を断ち 切るためのヒューマニスティックなメソッドの結果として生まれた必要不可欠な感情ではまったくなかった。そ れは日常に当然のように存在しうるとてもちいさな違和感で、感情というよりはむしろ恐怖だった。 たぶん。 佐助は思う。 自分はだんだん、片倉小十郎のことをすきになっている。 とても単純に、ずいぶん持つことができなかったごくふつうの友人として、この男と一緒にいたいと思い始めて いる。佐助が映画についてどうでもいいような批評をまくしたてているのを、聞いているのか聞いていないのか 解らない顔で見ている小十郎が気に入った映画にだけ一言二言口を開くのが、なんだかとても大事なことのよう に思える。 皮肉げな笑みなら簡単に浮かべられるくせに、ほんとうに笑うときにはすこしだけ不器用に引き攣ってしまう口 元を見ていると、こちらまで際限なく笑ってしまいたくなる。 たぶん、たのしいのだ。 佐助は自分の感情を整理する。 そう、たぶん、俺はあのひとと一緒にいるのがたのしい。そこまではいいだろう。悪くない推移だ。そう思う。 必要もなくなったのに、なにも詐欺師なんて因果な仕事を好んですることもない。たまたまカモにした相手に情 が沸いて、それで騙すことができなくなったというのなら、それはかすがの言った方法が佐助にもうまく当ては まったということだ。つまり佐助は詐欺師に向いていないということで、だったら今からでも別の仕事を探せば いい。それだけのことだ。 だから問題は佐助にあるのでもなければ、かすがにあるのでもない。 シンプルな性善説に基づくかすが発案のこの実験に不備があったとすれば、それは被験者側ではなく媒体に対す る思慮がいささか不足していたということにつきる。それでも佐助は彼女を責めようとは思わない。いったい誰が、 この世に騙されたがっているカモがいるなんて想定しうるだろうか? ああそうだ。問題はそこにある。 佐助は改めて、丁寧に、確認していく。 片倉小十郎は猿飛佐助に騙されたがっている。 この喜劇的かつ悲劇的で、支離滅裂でありながら単純明快な結論に至るまでに、佐助はずいぶん時間をかけた。 だいたい、意味が解らない。金を溝に棄てるように、簡単に佐助の言葉を鵜呑みにして湯水のように金を使う小 十郎の姿は、普段の彼とはまったく一致しない。ほんとうに騙されているなら、それでもまだいくらか救いはあ ったように思うけれど、残念ながらその可能性は限りなく薄かった。小十郎は百パーセント覚醒しながら、正気 のまま剛速球で佐助に金を投げつけてくる。その理由はいまだ謎に包まれているが、明らかになる日がくるとは 思えなかった。それを理解しようと思うことは、モアイ像の謎を解くのと同じくらい不可能で、解ったところで 埒の飽かないことであるようだった。 それでもなんとなく佐助には、小十郎が求めていること自体は始めから解っていたような気がする。頭のほうが 理解することを拒絶していたのだ。だってそれじゃあんまりかわいそうだ―――俺が。 この場合、問題は大きく分けて、二つだ。 一つは佐助がもう小十郎を騙したくないのに小十郎は佐助に騙されたがっていること。そしてもう一つは、佐助 は詐欺師をやめても小十郎と一緒に居たいけれど、小十郎はどうだかよく解らない―――もっと言うなら、ひょ っとすると小十郎にとって詐欺師でない佐助なんて用がないかもしれない、ということだ。 佐助は、考えてみる。 かすが式詐欺師リトマス紙実験によれば、おそらく自分は詐欺師には向いていないと言うべきだろう。ATMの ようにいくらでも金を搾り取れる相手が隣にいてもたのしくもなんともないどころか、むしろだんだん呼吸がし づらくなっている。小十郎が投げつけてくる札束に首まで浸かって身動きがとれない。松永に与えられた仕事に 比べれば、小十郎から騙し取った金額など微々たるものなのに、「片倉小十郎から」というエクスキューズがつ くだけで、匿名的な紙幣が急に質量と具体性をもって佐助を押し潰す。 息が出来ない。 ふつうに、付き合えたらいいのに。 佐助は単純に、そして切実に、思う。 ふつうに、そのあたりに掃いて捨てるほど歩いている男友達の群れのように、馬鹿なことで笑って、たまに食事 をして、女の話をして、そういうふうに付き合えたらいいのにと思う。そんなふうに思うのはあんまり虫が良す ぎるだろうか。もとはと言えば、下心をもって彼に近づいたのは佐助のほうなのだ。 ああでも。 こんなに反省して、悔い改めて、きちんとやり直そうとしているのに、相手がそれを望んでないなんて、 「―――いったいどうすりゃいいんだよ」 |