か た う で 。 「片腕を一晩貸してやってもいい」 そう言うと彼は、右肩から腕を外して左手でそれを持つと、唐突にこちらへ放り投げてきた。 猿飛佐助は柄にもなく驚いてしまって、慌てて宙に浮いたその腕を受け止めようとしたが、慌てたので まるでお手玉でもするように、幾度か取りこぼしてはまた宙に放り上げてしまった。腕を放った当の本 人はその様子をおかしげに笑みを浮かべて眺めていた。呑気なものである。 危ないじゃないか、と佐助は腕を胸に抱き留めて唸った。 「あんたの腕でしょうに」 「落ちた位で壊れるような柔な物じゃあねェ」 なにせ俺の腕だからな。 平気な顔で言う男は、片倉小十郎という。 障子には月が映り込んでいる。夜である。冬なのでひどく寒いが、佐助が抱き留めた腕はうっすらと したぬるさを湛えていた。手首に触れると、とくとくと血管が動いている。 佐助は顔を上げて首を傾げた。 「いいの?」 「利き腕じゃあねェからな。一晩なら、構わんだろう」 「でもさ」 「なんだ」 不満げに小十郎の顔が歪んだ。 おまえさんから言い出したことだろうと言う。佐助は言葉に詰まった。実際その通りなのである。 伊達家の当主と家老が、武田の宴に招かれたのは三日は前のことになる。佐助は幸村の警護をするつ いでに、北から訪れたそのふたりの姿を見るともなく見て、その睦まじさに言い難い焦燥を覚えた。 常になにをするにも隣合い、言葉を交わすことがなくとも通じ合うようなその様は、あたかも彼等ふ たりがふたつの身体に分かたれているのはただの見せかけで、ほんとうはひとつの何かなのではない かという疑念すら佐助に抱かせるほどだった。 あんたらはまるで一個の塊のようだね。 揶揄をするように佐助は小十郎に言ってみた。 すると小十郎は真面目腐った顔で、 「俺はすべて政宗様の物だから、それは当然のことだろう」 と言ってのけた。 佐助はますます複雑な不快感を覚えた。 そして三日経った夜に、唐突に佐助はその不快な焦燥が嫉妬であることを自覚した。自分は滑稽にも 独眼のあの若者を羨んでいるのだ。片倉小十郎という男のすべてを所有している、あの男に嫉妬して いる。雲に覆われた夜の空は暗かった。月のある場所だけぼんやりと薄いひかりが漏れている。佐助 はその朧な光を見上げながら、自覚したところでどうしようもない感情にひとりで戸惑った。 すると下から声がかかった。 下を見ると、小十郎が庭先から屋根の上の佐助を見上げている。 屋根から下りると、そんなところで何をしているんだと問いかけられた。佐助は困ったように笑って 誤魔化そうとしてみたけれども、雲のかかった夜など比べるべくもないほど黒い眼に見据えられると どうにも嘘を吐く気になれず、つい、 「些っと、あんたのことを」 と言ってしまった。 小十郎はふうんと鼻を鳴らした。 何か変なふうに思われなかっただろうかと佐助が案じていると、その間に小十郎は庭から縁側へと上 がってしまった。障子を開き、そして閉める。 からりと音が残って、目の前から小十郎が消える。 起らせただろうか。 佐助がぼうと突っ立っていると、また障子が開いた。 「阿呆」 不機嫌な顔を出した小十郎が、佐助を罵倒した。 目を瞬かせると、障子を開いたままにして小十郎がまた座敷の奥へ消えていく。 佐助はまたしばし弛緩したままその隙間を眺めていたが、ふとこれは彼なりの入れといういざないだ と気付いて、ようやく座敷へ足を踏み入れた。小十郎は何故だかやたらに火鉢に近い場所へ腰を下ろ していた。熱くないのと問うとそんなことはないと言う。 佐助は障子を閉じて、その近くに腰を下ろした。 月が雲間から出てきたようで、自分の影だけを刳り抜いて板間にしろいひかりが敷き詰められる。小 十郎は佐助を見ないで、板間に落ち込んだその影のほうにじいと目を伏せている。佐助は自分の影を 見ている小十郎を見ながら、ほう、と息を吐いた。 吐息の音が聞こえたのか、小十郎が顔を上げる。 目が合うと、知らずに口が開いた。 「あんたの主殿が羨ましいな」 まるで言うつもりではなかった言葉が口をついた。 今度も佐助は大層慌てたけれども小十郎はまったく涼しげないろを崩さない。ほうそうかと、むしろ 常の厳めしい口調に比べたら軽く感じられる程度の声音で返してくる。 佐助は小十郎のその様子に、ますます彼の主が羨ましくなってしまった。 この声を、この目を、この男のすべてを一手にしているというのはどんな気分なんだろう。佐助はそ んなことを考えた。それは無論馬鹿げた妄想でしかなかった。たかだか一介のしのび風情にそんなこ とが適うわけもなく、第一適ったところで龍の右目など、佐助の腕にはあまりにも重すぎるのだ。だ から例えば彼の主を殺して彼が手に入るとしても決してそんなことはしないだろう。ひとひとりを全 部背負うには猿飛佐助という男の容量は決定的に不足している。まして相手が片倉小十郎であれば尚 更のことである。 佐助はちらりと小十郎を見た。 「なにか?」 嗚呼だとしても、一瞬でいいから手に出来ないものだろうか。何もすべてとは言わない。彼の一部で もいいのだ。肌でも髪でも爪先でもいいから触れてみたらどんな心地がするだろう。 佐助は小十郎の目の前で、ひとりそんなことを考えていた。 伝ったのだろうか。 口には出さずとも伝わったのかもしれない。 他ならぬ小十郎であるのでそういうこともあるのかもしれない。 ともあれ小十郎は姿勢を正して佐助に向き直り、そして徐に右腕を外して見せたのだ。 いつの間にかすっかり雲から顔を出し切っていた月のこぼす淡いひかりに、佐助は小十郎の腕を翳し て見た。褐色の腕はしらじらと照らされて、まるで鞣した革のように鈍くつやめいている。佐助はう っとりとそれを手首から肘まで指先で撫で下ろし、膝の上に下ろした。 屋根の上から見る夜空には、月しか浮かんでいない。他はすべて雲に隠れている。月の周りにも依然 として雲は存在しているので、ねずみ色の雲にひかりが滲んでうっすらと虹色に染められている。 一晩だけだが、その間ならどうとでもするといい。 だが、 「明日には必ず返せ」 と小十郎はきつく言って、佐助を座敷から追い出した。 明日までと期限が定められていると、なにやらおかしな焦りが浮かんできてしまって、佐助はとりあ えず今晩中に彼の一部を手にしていることを十二分に味合わなくてはなるまいと屋根に登ったのであ る。月のひかりはとても小十郎の腕に似合っているようだった。堅い皮膚とそれに浮かぶ傷の跡がひ どく鮮明に浮かび上がって、指でなぞると傷痕の凹や凸がなんとも甘美だ。 佐助は肘のすぐ傍を真っ直ぐに長く付け根へと伸びる傷痕をつうっと指でなぞり上げてみた。すると 中指がぴくりとうごめき、かすかに折れる。 「くすぐったい?」 問いかけてみると中指は殊更に真っ直ぐにぴんと伸びた。 佐助はくつくつと喉を鳴らす。中指を口に近づけ、舌先で触れて見る。塩辛い皮膚の味とかすかな土 の匂いが舌に残った。指はまたひくりと動く。爪を舐めてやると、拳の形にきゅっと握られる。 くすぐったいんだ、と佐助は笑った。手の甲に浮き出た骨の形にそっと唇を寄せてみた。今度は腕は 動かなかった。ただちょうど佐助が握っていた手首の辺りの血管がぬくく躍動しただけだった。 佐助は腕を胸に抱いて、また月を見上げた。先刻よりまた大分落ちている。これではすぐに夜が明け てしまう、と佐助は思った。そう思うことは大いにかなしいことであり、またかすかには安堵でもあ った。佐助は腕を膝の上に乗せ、嘆息する。 嗚呼矢張り重い。 腕だけでも自分にはあまりにも重い。 一晩というのも片腕だけというのも、こうなってみると小十郎のやさしさであったのやもしれない。 聡い男であるからきっと最初から佐助の容量のことなど解り切っていたにちがいない。そう考えると なにやら悔しいような気がしてきた。佐助は口を尖らせた。すると腕が馬鹿にするように、手首を返 しててのひらを宙を向けた。佐助はますます腹が立ったので、腕の付け根に歯を立てた。 肘を曲げて痙攣した腕を、ぎゅっと抱き締める。 重い。 重いけれども、 「勿体ない」 このまま朝になって手放すにはあまりにも勿体ない。 どうしようかと佐助は次第にあかるくなっていく東の空と薄くなっていく月を見上げながら途方に暮 れた。借りたものは返さなくてはならない。返さなくては小十郎はきっと怒るだろう。そしてこの腕 も怒るだろう。怒るのはいいけれども、もう動かなくなってしまうかもしれない。そうなったらそん なに恐ろしいことはない。小十郎も腕も、どちらも動かなくてはひとしずくの水ほどの価値もない。 佐助は腕をころりと瓦の上に横たえ、切なげに目を細めた。 どうしたらこの腕をこの腕のまま自分のものにして、そしてその重さに耐えていけるだろうか。 佐助はじっと腕を見下ろし、ふとあることに思い当たった。自らの肩に手を当て、腕の付け根をゆっ くりと撫でる。そしてまた腕を見下ろした。艶やかな褐色は、今はすでに明け始めた夜のぼんやりと したひかりに照らされている。 月はもう見えない。 一刻もしないうちに朝が来るだろう。 佐助はこくりと息を飲み、自分の肩から腕を外して素早く瓦に横たわった腕とそれをすり替え、また 肩に嵌め直した。すると嵌められた場所から腕はいろを見る見る変えて行き、あっという間に元の佐 助の腕とおんなじように肌に馴染んでしまった。すり替えた腕を佐助は見下ろした。 瓦の上にあるのは小十郎の片腕だった。 「ありがとう。お返しするよ」 佐助は何食わぬ顔を装って、自分のそれとすり替えた腕を小十郎に返した。 小十郎は左手で右腕を受け取ると、検分するように目を細めてあらゆる角度から眺めた。佐助は耳の 奥で心の臟が煩く鳴っているのに戸惑った。寸分違わぬものである。まさか解らないだろうとは思う ものの、他ならぬ自分のそれであることを考えると断言することはできなかった。 佐助は不自然に見えぬように右腕をさすった。 小十郎はその仕草をちらりと見留めてから、ふんと鼻を鳴らした。 「確かに」 小十郎は佐助の右腕を肩に嵌めた。 確認するように幾度か手を握りしめては開きを繰り返す。それから腕を組み、まるで長さを確認する ようにそれを見下ろし、またふんと小十郎は鼻を鳴らした。 「小十郎」 廊下の向こうから彼の主の声がした。 小十郎はそれに振り返り、はい、と低い声で応えると佐助には何の挨拶もしないままに廊下を渡って いく。佐助は黙ってその後ろ姿を見送った。 真っ直ぐな背中が真っ直ぐに主へと向かって歩いて行く。 小袖の裾から右腕が見える。 嗚呼、あれは俺の右腕だ。 佐助はそう思って、満足げに息を吐いた。 おわり |