「おまえは正直者ですね。 ではおまえの鉄の斧に加えて、この金と銀の斧もあげましょう」 正 直 者 は 一 石 二 鳥 佐助の旦那である片倉小十郎は、多趣味だ。 正確に言うと、多趣味に「見える」。実際のところ、彼の趣味は土いじりと精々読書というところで、本来なら 無趣味なほうに分類されるんだろうと思う。でも見た目には小十郎は多趣味なように思える。スポーツはほぼな んでもこなすし、絵画に文学、音楽まで驚くほど守備範囲が広い。 けれども、それは自分の為の趣味ではないのだ。 「じゃァ、行ってくる」 ドアの前で一応振り返りそう言った旦那に、佐助は顔をわざとらしく膨らませた。 小十郎は自分の嫁のフグのような顔にすこしだけ眉を上げたけれども、その後ちらりと視線を腕時計に落とし、 結局何も言わないまま「晩飯はいらん」と結んでドアから出て行った。佐助はがちゃりと閉じたドアをしばらく 睨み付け、それからゆっくりと口の中から空気を吐き出した。ぷすう、と間抜けた音がする。 くすんだ赤毛を掻き毟り、舌打ちをしてからリビングに戻る。ソファに沈んでクッションを思い切り二つに折り 曲げ、ちくしょうめ、と佐助は吐き捨てた。 「―――まぁた、社長ですか」 今日は映画の試写会だと言う。 先週は美術館だった。先々週はどこかのアーティストのコンサートだった。 その前はゴルフで、その前は乗馬だ。乗馬?佐助は折り曲げたクッションを更に四つに曲げた。乗馬だと?おま えはどこの貴族だ、あほ社長め。 おかげで佐助は、旦那とここ一ヶ月以上一緒に休日を過ごしていない。 今に始まったことではないし、そういう小十郎のことも佐助は決して嫌いではないけれども、それにしたってこ れはないんじゃないか、と思う。旦那は普段、九時を過ぎなければ帰ってこない。翌朝は七時には家を出て行く。 過重労働だ。労働基準法違反だ。でも問題なのはこれを自分の旦那が心から喜んでやっているというところだ。 むしろ社長は働き過ぎだから休めと言っているのだ。救いようがない。馬鹿は死ななければ直らない。 でも旦那に死ねと思うには、残念ながら嫁はすこしばかり旦那に惚れすぎていた。 クッションは四つ以上には曲げられない。役に立たないそれを佐助は窓に向かって放り投げた。 新婚の頃から旦那が自分に構わないことは解りきったことだし、佐助も毎週旦那が休日自分に構いきりというの は多少うっとうしいと思うような気もするけれども、二週に一度くらいは一日一緒に居たいじゃないかと思う程 度の執着心はないわけではない。しかも仕事ならともかく、社長とのデートだというのだからまったく納得でき ない。佐助だって旦那とデートがしたい。社長の伊達政宗は毎日一日中小十郎と一緒に居るのだ。こんな不公平 ってない。嫁だというのにまったく所用感がない。 佐助はそこまで考えて、深く息を吐いてから首を振った。 「俺もなんか趣味作ろうかなぁ」 つぶやいて、ソファにずるずると寝転ぶ。 今まで考えていたことの無意味さに薄く笑みを作って、そうするかあ、と続けてつぶやく。考えてもしかたがな い。旦那の体内成分の九割九分九厘までが社長で満ちているのは解りきってることだ。今更どうしようもない。 それに、佐助が例えば文句を言ったとして、それに遠慮するような男は片倉小十郎ではない。 それよりも、このむず痒いような苛立ちを抱えたままのこの時間が問題だ。じめじめと、どうしようもないこと を考えるのは性に合わない。 よし、と佐助は立ち上がり、それからテーブルの上の携帯電話に手を伸ばした。 「と、いうわけで、俺様今日から料理を趣味にすることにしました」 家に帰ると嫁が唐突にそう言い出した。 小十郎は映画のパンフレットを本棚にしまいながら、すこしだけ黙ってそれから嫁を振り返った。ジャケット を手渡される。それをクローゼットにしまってから、ようやく小十郎は「趣味?」と首を傾げた。 「趣味です」と佐助は胸を張る。 「休みの日にだらだらしてるよりは、料理でも習いに行ったほうが有効でしょ」 「ふうん、料理教室にでも行くのか」 「まあ、そんなようなところ」 佐助はふふん、と鼻を鳴らし、「まあ見てなさいよ」と小十郎のほおをぱしんとてのひらで覆った。 「このほっぺ、落としてやるくらい美味しい料理作るようになってやっから」 「それより今命を落としたくねェならその手をどけろ、阿呆」 小十郎は佐助の手を払って、まァいいんじゃねェか、と頷く。 小十郎の嫁はあんまり料理が上手くない。下手ではないが、上手くない。器用だが創意工夫が足りないという か、向上しようという意欲が見えないというか、一言で言えば「可もなく不可もない」。べつにそれでも構わ ないと言えば構わないけれども、もちろん向上するならばそれに反対する理由もない。 佐助はへらりと笑い、楽しみにしてなよ、と小十郎のほおをまた軽く叩いた。小十郎はまたそれを振り払い、 「ところで飯は」と聞くと、嫁は首を傾げて「あんたがいらないって言うから今日は外で食ってきた」と言う。 小十郎は何も言わず、なんとなく自分のほおがこの嫁の料理で落ちる日と人類が火星に移住する日のどちらが 遠いだろうか、ということを考えた。 「言ったからには、一応、通うだけでもきちんと通えよ」 「なんだよその言い方、通う前から。もちろん通いますよ」 いつまで続くか、と小十郎はその時に思った。 だから、それから一ヶ月経ってまだ嫁が料理教室に通い続けているので正直なところ、とても驚いている。 正確に言うと、佐助が通っているのは正式な料理教室ではないらしい。知り合いに料理を教えてもらっている のだと言う。基本的には日曜の午前中から出かけて、午後の三時辺りに帰って、そしてそこで習った料理を食 卓に出してくる。それが驚くほど、予想外に美味い。 ふふん、と佐助は満足へに言う。 「ほっぺ、落ちる?」 「落ちねェよ」 「でも美味いだろ」 「まァな」 「作り甲斐のないおひとだねぇ。まあいいや、問答無用でいつか落としてやる」 「ほおをか」 「あんた自体を落とすのは大分前に諦めてる」 茄子の煮浸しを突きながら言う嫁に、たのしそうだな、と小十郎は言ってみた。 続いて二週間程度かと思えば、楽しげに通っているのでとても意外だ。たのしいよ、と佐助は答えた。やって みると色々やり甲斐もあるし、 「あんたも美味しいだろ、それ。茄子」 「―――茄子?」 「煮浸し。すきなんでしょ」 「まァ、嫌いじゃねェ」 「はいはい、あんたはゴボウも人参もなんでも、「嫌いじゃねェ」んだよ」 へらりと笑い、佐助は口に茄子を放り込んだ。 小十郎もそれに倣って茄子を口に含む。出汁のほのかな味と、生姜のかおりが口のなかいっぱいに広がった。 控えめで、けれども美味い。いつも佐助の作る、器用ではあるけれども多少味の派手な料理に比べると格段に 小十郎の好みに合っている。小十郎は皿の中を空っぽにしてから、「まだあるか」と聞いた。 佐助は思い切り顔を崩して、「もちろんですとも」と手を差し出し、皿を受け取った。 「いや、いいですね料理。時間も潰れるし夫婦の愛も深まる感じで」 「愛は知らねェが、そんなに暇なのかおまえ」 「ほらこれだよ。やってらんねえよ。まあいいですよ、これからは好きなだけ社長とデートでもなんでもすれ ばいいよ。俺様はその間、たのしくたのしく料理の腕を磨いてますから」 茄子の煮浸しをキッチンで皿に盛りながら、佐助は笑った。 小十郎は嫁の後ろ姿を眺めながら、これからもなにも政宗と出掛けるのに佐助のことを気にする理由が特にな いだろうにと、すこし首を傾げ、それからまあその間に佐助にすることがあるのは悪いことではないなと思っ た。どこで習っているのか知らないけれども、嫁の料理の指導者の味付けは小十郎にとても合っている。 出汁の染みた茄子を租借しながら、小十郎は機嫌良く、 「まァいいんじゃねェか」 と、 言った。 その時はそう思ったのだ。 特に自分に不都合があるとは思わなかった。 その次の日曜日、やはり小十郎は政宗と一緒に出掛けた。祭があるというので、日帰りでそこに向かうことに したのだ。土曜日にそれを嫁に言うと、いつもならむくれた顔と低い唸り声が返ってくるのだけれども、その 日は代わりに「へえ」という淡々とした声が返ってきた。 「何時まで?」 「晩飯はこっちで取る」 「あ、そう。ならいいや、いってらっしゃい」 手を振って言う。 小十郎はすこし黙ってから、一瞬もやりと腹に浮かんだ感情を頷くことで遠ざけた。 翌朝は小十郎が出掛けるのと一緒に佐助も家を出た。例の料理教室だ。佐助は笑顔で駅に向かい、小十郎は首 を傾げてそれから車に乗り込んだ。真夏の空は真っ青で、車窓から降り注ぐひかりは恐ろしく強い。サングラ スをかけて、キイを差し込む。震える車からは、既に赤い髪の後ろ姿は見えなかった。 嫁はとても上機嫌だった。 料理をはじめてからとても気持ちの落ち着きがいい。旦那が社長とどこかに行っていても、なにかに集中して いればそのことを考えていなくてもいいし、それに「確実に」小十郎が気に入る料理を覚えるのは実に心地良 い。今までも旦那はきちんと完食していたけれども、今では絶対におかわりもする。 勝ち誇った気分だ。 「明日はなんか用事あるの?」 土曜日の夜だ。 明日ももちろん、佐助には「料理教室」がある。きっと旦那にもまた社長との約束があるにちがいない。そう 思って聞いてみたのだけれども、予想に反して小十郎は新聞を読みながら、「特にねェ」と答えた。 佐助は目を瞬かせる。 「へ」 「明日は政宗様はご親戚の集まりがある」 「へえ、ああ―――ふうん、そうなの」 「なんだ」 何か不満か、と言う。 佐助は慌てて、いやべつに、と笑みを顔に貼り付けた。 小十郎は佐助をしばらく不審げに眺めてから、また視線を新聞に落とす。佐助はほうと息を吐き、そうか明日 はなにもないんだ、とつぶやいた。けれども今更「料理教室」の約束を反故にすることもできない。もっと前 から言ってくれりゃあいいのに、と眉を寄せて自分の旦那に胸のうちでだけ八つ当たりをした。 おまえは明日も料理教室か、と小十郎は言う。 「うん、まあ」 「何時から」 「十一時、くらいに家を出るかな」 「そうか」 「ごはんとか、作ってったほうがいい?」 「べつにいらん。自分で作る」 「そう」 旦那は佐助よりよっぽど料理が上手い。 その地位を逆転させるためにも、明日もきちんと「料理教室」に行くべきだ、と佐助は思い直すことにした。 これからはきちんと予定を確認することにすればいい。なにもこれが最後の旦那にとっての暇な日曜日という わけでもないのだ。暇なら暇って言えよな、と言ってみたけれども、旦那は何も言わず新聞を捲っている。佐 助は息を吐いて、小十郎の横顔を眺めながらビールの入ったグラスをあおった。今に始まったことじゃない。 いつだって基本的に、佐助は片思いなのだ。 「結婚してンだけどねえ」 「なんか言ったか」 「なんも。あんたもビール飲む?」 「飲む」 「かしこまりました、っと」 冷蔵庫を開き、ビールの缶を取り出す。 「まあ、何時の時代も嫁って報われないもんですからねえ」 「なんの話だ」 「俺の話。はいビール」 釈然としない顔で、旦那はそれを受け取った。 その眉間にしわの寄った仏頂面を見て、とてもとても癪だけれども、やはりすきだなぁと佐助はしみじみと実 感した。この怖い顔。驚くほど言葉が少ない口。ビールの缶を受け取る手の大きさ。報われなくても、すきな のだからしょうがない。諦めて料理の腕を磨こう、と佐助は思った。そうしたらまたいずれ、いつか、もしか すると―――旦那が自分に惚れることもないことはないかもしれない。あったらいいですねえ、と佐助は思っ た。焦ってはいない。そんなに急ぐ気もしない。なにしろ小十郎と佐助は夫婦なのだ。時間だけはたっぷりと、 それこそ腐った後に発酵して、美味しくワインになるくらいある。 ゆっくりワインにしていけばいい、と、 「――――はあ、」 思ったのだ。 翌朝佐助は間抜けた声を出して、旦那を見上げた。 家を出ようとしたところを後ろから肩を掴まれ、何かと思えば「送ってやる」と言う。良く解らない。佐助は 首を傾げた。小十郎は既に手にキイを握りしめ、ドアを開けている。 そこから見えた空は、とても青い。夏以外のなにものでもない空だった。 「どうしたのさ、急に」 「べつに。暇だからな、それとも迷惑か」 「そんなこたぁ、ねえけど。でもなんか、ふうん」 「うっとうしい野郎だな。ひとの好意は素直に受け取れ」 「はあ、まあ、かしこまりました。お願いします」 頭を下げると、軽く叩かれた。 真夏の熱の中でもいつも通りに長袖の旦那は、何も言わずにエレベーターのほうへと進んでいく。佐助は髪を 掻いて、ドアを閉めた。空を見上げる。雲ひとつない、という陳腐な表現がやはり陳腐なほどに似合う空だ。 雨の降る気配はない。いやまだ解らないな、と佐助は思い直した。 狐の嫁入りっていうこともあるし、 「今日って午後から雨の予報だっけ」 「―――なんだいきなり」 「いやなんとなく。うん、じゃあ出発進行」 車に乗り込み、前を指さす。 小十郎はすこしだけ顔をしかめ、それからエンジンをかけた。車が震える。佐助は小十郎をちらりと見た。い つもの仏頂面だ。いや。佐助は目を細める。いつもよりも仏頂面度が高い。五割り増しくらいに怖い。どうか したの、と佐助は聞いてみた。小十郎は不思議そうに佐助を見返す。 「何故」 「いやなんていうか、顔が怖いから」 「地顔だ」 「いつもより怖いンですけど」 「余計なお世話だ」 舌打ちと一緒に車が動き出した。 旦那は日除けのサングラスをして前を向いている。表情が見えない。しかしサングラスが恐ろしいほど似合う 男も居たものだと佐助はしみじみと横顔を見ながら思った。どう見ても白い粉の一袋か二袋は所持しているよ うにしか見えない。まずはスーパーに寄るように佐助は頼んだ。材料を買うのだ。 「解った」と小十郎は答えた。それからすこし黙り込み、 「それは、絶対ェ行かねェといかんのか」 と聞いてきた。 佐助はすこし黙った。 「はあ」 それからそう、口から音をもらした。 どういう意味か、いまひとつ良く解らなかったのだ。 旦那は何も言わない。佐助が理解できなかったからと言って言い直すようなことはもちろん片倉小十郎という 男の性質上絶対的にありえない。黙って運転をしている。だから佐助が考えなくてはならない。 絶対に行かないといけないのか。 行かないと、 「どこに?」 「料理教室」 「へ、」 「一回くれェ休めねェのか」 「なんで」 「―――べつに理由はねェ」 「はあ」 旦那の声がすこし機嫌が悪くなった。 「無理なら良い。聞いてみただけだ」 「無理っていうか、良く解ンねえんですけど」 「何が」 「なんで休まないといけないの」 「だから理由はねェっつってんだろう」 「それじゃあ休めねえじゃん。いくらなんでも。一応頼んでやってもらってんだからさ」 「じゃあべつに良い」 「いやいや、すねないでよ」 佐助は小十郎の袖を引いて、顔を覗き込んだ。 小十郎は黙っている。随分長い間黙っていた。信号を三つ通り過ぎた後ようやく、 「―――久しぶりだからな」 口を開いた。 佐助は目を瞬く。 「なにが」 「俺が暇なのが」 「そうですね。だから?」 「どこか、」 「うん」 「行っても良い、と思っただけだ」 このまま車で。 天気も悪くねェし、まァ、 「無理なら良い。行ってこい」 「ううん」 「なんだ」 「あのさあ」 「おう」 「あんたさ、ここ二ヶ月ずうっと社長と遊んでたよね」 「―――おう」 「それって、たのしかった?」 「まァな」 「俺はさあ、とっても暇だったんだよね、そのあいだ」 「そうか」 「うん、そうなんですよ。だから料理も始めたンですけど」 「うん」 「あんたは自分が暇になったら、俺も暇になるべきだとでも思ってンの? 自分は社長と遊ぶ時にはもちろんそっちを優先して、でも自分が暇な時は俺に構えってぇわけだ」 車がスーパーに着いた。 駐車場に着ける為にすこしだけ会話が途切れる。佐助は黙って小十郎を眺めた。小十郎はサングラスを外して、 後ろを確認しながら白線のうちに車を納めようとしている。佐助の旦那は車の運転も上手い。すこしは動揺して 外すかしらと期待してみたけれども、もちろん旦那はそんなかわいげはもちあわせていない。ぴたり、と完璧に 車は白線の中に収まった。 「そう、思っちゃいねェ」 と小十郎はそしてつぶやいた。 さっきの答えらしい。ふうん、と佐助は鼻を鳴らした。 「それで?」 「思っちゃいねェが、」 「うん」 「そうなら、まァ、そりゃァ助かる」 とは、 思わんでもない。 「はあ」と佐助は目を細めて息を吐いた。 「随分まあ、勝手なご言い分で」 小十郎もさすがに何も言わない。解っているのだろう、それくらいのことは。 佐助は深く、とても深く、解りやすく息を吐き出し、助手席のドアをすこし乱暴に開けた。小十郎がこちらを見 ているのが解ったけれども、構わずに店内へ入る。クーラーが効いている。むしろ凶暴的なまでに効き過ぎてい る。ふるりと体が震えた。 十分ほどして、また車に戻る。 窓を叩くと、小十郎が不思議そうにこちらを見上げた。窓を開けるように手で示す。ウィン、と窓が開いた。 「なんだ」 「正直者の、片倉小十郎くん」 「―――あァ?」 「君は正直なようなので、しかたありませんねえ、」 社長と俺様、 両方あげましょう。 佐助はにいと口角をあげて、それからへらりと崩した。 「サンドウィッチとおにぎり買ってきた。ピクニック行こう。このまま」 小十郎の目がまんまるくなる。 旦那の間抜けた顔に、嫁はけらけらと笑いながら助手席側に回ってドアを開けた。ほらほら、と促して車を出さ せる。小十郎はまだ解っていないのか、それでも言われるままに車を駐車場から出した。 しばらくしてようやく、「良いのか」と旦那は口を開き、首を傾げた。 「教室は」 「うん、電話してきた。今日は休むって」 「―――べつに無理にたァ、言ってねェんだぞ」 「いいんだよ、俺が無理言いたかったンだから。あと正直者の旦那さんには、ご褒美あげないとだし」 「なんだそりゃ」 「俺の話」 窓を下げると、風が吹き込んでくる。 驚くほど風の勢いは強く、顔を叩き付ける。空はやはり、まったく夏だ。 どこに行きますかねえ、と佐助は窓枠にもたれながら小十郎に聞いてみた。小十郎はべつにどこでも、と言う。 つまんないひとだ。佐助はそう笑って、まあどこでもいっか、と空を見上げる。まったく夏で、空は青く、午後 も雨は降らないだろう。どこでもいいよ、と佐助はまた言った。 「時間はなにしろ、たっぷりあるし」 そうだな、と小十郎も言う。 佐助は耳に心地良い声を聞きながら、ワインができるのはもしかすると、案外近い将来なのかもしれないと思っ てへらりと笑みを浮かべ、スーパーの袋を握りしめた。 「――――あら、そう。それは残念ね。いいえ、まったく気にしなくていいのよ。 それにしても小十郎さんたらほんとに我が儘ね。ごめんなさいね、駄目な弟だけど、見捨てないでやって頂戴」 片倉喜多はそう言って、受話器を置いた。 それからうっとりと浮かんだ笑みを細い指で隠し、ほう、と息を吐いて窓に近寄る。レースのカーテンを開くと 夏の青空が広がっている。夏ね、と喜多はひとりつぶやき、それから弟夫婦のことを考えまたにっこりと笑う。 「まったく小十郎さんたら、まだまだね」 でもしあわせなのは、いいことだわ。 喜多は使わないことになったキッチンの材料を片付ける為に、くるりと振り向きながらそうつぶやいた。 おわり |