眠 り に 就 く 為 の ひ と か け の 吐 息
引き慣れた戸を引く。 すこし立て付けの悪いそれは、がたがたと耳障りな音をたてて開くのでこっそりと忍び込むことも出来ぬ。 佐助は眉をひそめた。 案の定引いた先の板間には、こちらを見ている片倉小十郎の姿がある。 「よう」 小十郎はひらりと手を挙げる。 佐助はそれに、へら、とちいさく笑うことで返した。 土間から板間へと移動するのにいつも佐助は戸惑う。今日もやはり、かまどの前でうろうろしていたら苦笑いを浮かべた小十郎に 引っ張られて強引に板間へと移された。小十郎の手はつめたい。だが小十郎は佐助の手や足が見ているだけで寒いと言う。狐の佐 助にとっては、外の吹雪などすこしの痛みも感じさせはしないが小十郎は見る度に痛々しげな目をする。 「草履くらい履いたらいい」 「面倒だからやだね」 顔を背けたら、囲炉裏の向こう側から杓を投げつけられた。 それを手で受け止めてそのまま鍋の中身をぐるぐるとかき回す。ふわふわと上がってくる味噌のにおいが食欲をそそった。くんく んと鼻を動かすと、小十郎が呆れたように笑う。 佐助はそれを、小十郎にはそれと解らぬようにじいと見る。 (きれいなひと) そう思う。 佐助は今まで、傾国の美女だとか美丈夫だとか、そういった者たちは腐るほど目にしてきた。それと比べて小十郎というこの男が 例えば見てくれで勝るとはもちろん思わぬ。 思わぬけれど。 佐助は視線をついと動かした。 外は昨日から降っていた雪がようやく止んで、太陽がきらきらと雪を照らしている。あかり取りの窓の桟からは氷柱がゆらゆらと 向こう側の景色を揺らしていて、長く見ていると目がくらむ。 佐助は太陽があまりすきではない。それはもしかしたら物の怪としての性なのやもしれぬが、やはりすきではない。ああいう景色 は、佐助にはまぶしくて直視できぬ。 「猿飛」 小十郎が佐助の名を呼ぶ。 「今日は何を持ってきた」 「・・・まーだ食ってもいねぇのにその質問かよー。がめついおひとだねぇ」 「阿呆。食わせてもらってんだから文句なんざ言う権利はねェ」 杓で雑炊をすくいながら小十郎は言う。 佐助はへらへらと笑いながら碗を差し出す。 「鰯と鰌でしょ。ちゃーんと土間に置いてきましたって」 「ならいい」 「お釣りがあってもいいくらいだぜ、まったくもー」 「飯代だ、飯代」 良心的だろうが、と小十郎から渡された碗を、佐助は両手で受け取る。じわりと熱がてのひらに広がって、思わずそれを手放しそ うになるのを佐助は必死で押しとどめた。 幻術も催眠も、佐助は指先ひとつですることができる。 それでも、どういうわけだかもう一月も佐助は小十郎のもとへと通い続けていた。 眠れぬ。 小十郎のもとからおのれの洞へと帰ってから、佐助は眠れなくなった。 もちろん長い眠りはもとより諦めている。それには人の精気を吸わなければならず、小十郎からは朝餉はもらっても精気などすこ しも吸っていないのだから佐助はただ睡眠をとるために目を閉じた。が、いつまでたっても夢は佐助に訪れない。 (あぁまったく目の前にご馳走があるってのに見逃したからかねえ!) 幾度めかの寝返りを打ちながら思う。 小十郎からもらった食べ物で腹は膨れた。今までだって起きたその日に獲物が見つけられたわけではない。こんなふうになったこ とは一度だってなかったのだ。目を閉じる。ふわり、と小十郎の顔が浮かんできてやはり眠れぬ。 さみしげな顔をした男だった。 なにゆえに村はずれでひとり暮らしているのだろう。 村八分かとも思うが、たしかはじめて見たとき小十郎は他の家屋から出てきていた。ならばそれもあるまい。佐助はてのひらをこ すり合わせる。冷たさなど感じないはずの獣の手が、まるでなにか足らぬかのようにすうすうと冷えた。 里へと佐助が降ったのは、それから三日ほど経ってからだった。 小十郎の家屋をのぞき込む。誰も居ない。まだ太陽は佐助の頭のてっぺんに陣取っていて、たしかにこの時間に男が家に止まるこ とはふつうはない。村の外れに並ぶ棚田にも足を運んでみたが、農作業をする男たちのなかにあのまっすぐな背中を見つけること はかなわなかった。 会わねばならぬとなぜだか思った。 (だって眠れない) 精気を吸ってしまおう。 次に会ったら無理矢理にでも。 とりあえずその日はあきらめて帰ろうと山へとふたたび足を踏み入れた。しゃらん。足を進めるたびに手首と足首にあつらえた鈴 が鳴る。苛立っているのだと佐助は髪を掻きむしりたいきもちになる。 さく、さく。 しゃらん、しゃらん。 雪の山道に佐助だけが音を鳴らす。 洞へと向かいながら佐助は天を仰いだ。青い空が目に痛い。青空はすきじゃない。佐助の纏っている赤い着物や、赤い髪や、白い 肌が、ぜんぶ青空のしたではひどく薄っぺらい。 あの男の目は、夜に似ていたな、と佐助はすこし思った。 「ん」 足を止める。 山道の途中に、社があった。こんなものがあっただろうかと首を傾げる。いつも山を下りるときは周りなど見ないし、上るときと て洞のことしか考えていないから見落としていたのだろう。ちいさくはない。それなりに立派な社である。 佐助はすこし考えて、それから足をその社のほうへと向けた。 戸は簡単に開いた。 普段から使われているのだろう。暗い堂内にひかりが差し込んでも、ちりやほこりが浮かび上がることはない。佐助はきょろきょ ろと首だけ突っ込んで堂内をさぐる。一見したところ人は居ないようだった。 ひたり、と足を踏み入れる。冷え切っているはずの板間は、それでも雪原を踏みしめてきた佐助の足をじんわりと木の温度で包み こむ。目を一度閉じてまた開くと、暗がりから鮮明に堂内の輪郭が浮かんできた。 佐助の正面には注連縄で封じられた像がひとつ鎮座している。ひたひたと近づいて見てみてると、それは狐の像であった。稲荷神 社なのであろう。なんだかおのれが奉られているような気がして、佐助は不思議そうに幾度かその像を撫でてみる。木造のそれは やはりじわりとぬるい。 くるり、とその場で一回転してみる。 堂内には壁画が天井に描かれているほかには何もない。廊下が見えるので他の所には何かあるのやもしれぬが、佐助はくるくると 回り終わったあとそのまま板間にとさりと倒れ込んだ。 眠くて眩暈がする。 目の前に広がる壁画を眺めながら佐助は目を閉じた。眠いのに意識だけぽかりと浮かんでいて、たとえば板間の冷たさとか雪が枝 からとさりと落ちるかすかな音とか、そういうものがそれをかき乱す。目を開けた。やはり眠れない。 「・・・・・・・俺様、死ぬんじゃねぇの」 ぽつりとこぼす。 腹は減ったし眠れないしでどうしようもない。このままここで狐の木乃伊にでもなってやろうかそうすれば神主へのいい嫌がらせ だぜ、とへらへら笑いながら、誰も居ない堂内へとことばを吐き捨てた。 つもりだった。 「ふざけんな、この怪が」 げし、と。 足で蹴られて佐助の体がごろんと一回転する。 あわてて佐助はうつ伏せのまま顔をあげる。黒い袴と足袋をはいた足が目に飛び込んでくる。 さらに顔をあげた。 「また行き倒れか、狐」 くい、と口角をあげて笑うのは長身の男。 佐助は口をおおきく開けて、ぽかん、と目の前の男を見る。 男は、片倉小十郎だった。 しろい狩衣をまとい、黒の烏帽子を被って手には箒をたずさえている。 その箒で小十郎はつんつんと佐助の額を突く。 「いだいだいいだだだだ」 「おまえ何してんだ、こんな所で。油揚げはねェぞ」 「いらねーですよそんなん!つーかあんたこそ、なんでここに」 箒を払って、立ち上がる。 小十郎は両手をひろげて、見てわからんか、と言う。 「この神社の神主なんだよ」 「・・・あんたが」 「文句あるか」 「よくそんな凶悪面で・・・いやいやなんでもないでーす」 箒を鼻先につきつけられて佐助はひらひらと手を振る。 箒を手元に戻しながら、眠れないのか、と小十郎は言った。え、と佐助は聞き返す。そうしたら箒で叩かれた。 ひりひりと腫れている頭をさすっていると、呆れたような声がふってくる。 「おまえさんのことだろうが」 眠れんのか。 また問われて、佐助はふるふると首を振った。ふうん、と小十郎が鼻を鳴らす。 それから、うちに来るか、と言う。 「え」 佐助はまたほうけた声で聞き返した。襲ってくる箒を今度はかわす。 小十郎の顔を見るが相変わらずの無表情である。え、え、と佐助が戸惑っていると、苛立ったらしい小十郎がまた箒を構えだした ので、あわてて首を縦に振った。 最初からそう言えばいいんだよ、と小十郎はちいさく笑った。 雑炊をかきこみながら佐助はちらりと小十郎を見る。 小十郎は視線を外の景色に向けていて、佐助がおのれを見ていることに気づいていない。そういうときの小十郎は、いつもに増し てさみしげに見える。 そういう小十郎の顔が佐助はすきだった。 (すきなのかね) 佐助はぼんやりと思う。 小十郎は冬の夜に似ていて、ひんやりと暗くてひどく落ち着く。 小十郎の家に招かれて、ぽいと掻巻を手渡されたときにあれ、と思った。 一人暮らしのはずの小十郎の押し入れから、なにゆえもう一組寝具が出てくるのだろう。問うてみたら、小十郎はすこし遠くを見 て、ああ、と長い息を吐いた。そして、それは母上が使っていたものだ、と言う。佐助はそう、と頷いた。それ以上はなにも聞か なかった。 聞かなかったが、たぶん押し入れにはもう一組寝具がしまわれているのだろうな、とは思った。 小十郎がきれいなのはひとりっきりだからだろうか。佐助はちらりとそう思い、それから違うな、と思い直した。 なら佐助だってきれいなはずだ。 三杯目のおかわりを要求したら杓で手を叩かれた。 食事を終えたあと、小十郎はいつものように聞いてくる。 「昨日は眠れたか」 佐助はそれに、いつものように首を振った。 ほんとうのことだからしかたない。小十郎は痛々しげな顔をした。 小十郎のもとで寝泊まりをするようになっても、やはり佐助に眠りが訪れることはなかった。だが佐助はあまり気にしていない。 手はすうすう冷えるし、いきなり小十郎の顔が頭に浮かんできても目を開けたらそこにほんものがいるのでそこまで苛立つことも ない。怪である佐助にとって、精神の乱れさえなければ睡眠はそこまで重要ではないのだ。 が、小十郎はそうは思わない。 「今からでも構わん。寝ろ」 「寝れないんですってばー」 苦く笑いながら言うと、小十郎は納得していないというふうに眉間のしわを深くする。それからすく、と急に立ち上がり、すたす たと押し入れに向かう。佐助が首を傾げていると、どさりと掻巻がふってきた。 小十郎の顔を見る。寝ろ、とまた言われた。 「なんなら脳天ぶん殴って夢の世界に連れていってやろうか」 「死ぬしそんなの。・・・気にしないでもいーよべつにー。俺、あんまり困ってないのよ」 「俺が気になるだろうが」 「うーん」 困ったね、と佐助が笑う。 小十郎は息をするように佐助を気遣うので、それがくすぐったくてしようがない。いらないのに、と思いつつそれを断ち切ること ばを口に出せないで笑うのは、おのれの卑怯さ以外のなにものでもない。 小十郎は相変わらずこわい顔をしている。佐助は眉を下げてへらへらと笑いながら、ほんとうに困ったな、と思った。だってほん とうに構わないのだ。精気を吸いたいという気も、邂逅のときに機を逸してから失せた。小十郎の作る飯はうまいし、掻巻の不必 要な温さだってここちいい。 どうしよう。佐助はちらりと小十郎を見る。凶悪な顔は、いっそ笑い出したいほどに真剣で逆に佐助は泣きたいようなきもちにな った。腹のあたりがしくしくする。 (もうやだ、このひと) 乱される。 それが必ずしも不快でないのが、またいやだ。 おのれの半分も生きていない男に手玉に取られている感触が癪で、佐助は笑いながらたわむれてみる。かたくらさんにてつだって もらえればいけるかもね、と肩をすくめる。小十郎がなにを、と問うてくるので、佐助は掻巻をほうって空いた手をす、と小十郎 のほうへと伸ばす。 「精気」 「は」 「・・・俺様ね、精気を吸わねーと眠れないのよ」 嘘だ。が、佐助は真顔で言った。 小十郎は切れ長の目をぱちくりとまばたかせている。それからどうしたらいい、と問うた。佐助はへらりと笑う。 「一番いいのは俺を抱いてくれることなんだけどー」 それはもうけんもほろろに断られている。 だからね、と佐助は首を傾げながら言う。 「接吻」 「あぁ?」 「接吻でもいいよ」 言ったあと、殴られるか、と佐助は首をすくめる。 が、小十郎はすこし考えるように黙り込み、 目を閉じた。 「え」 佐助は思わず、すい、と身をひいた。 小十郎は胡座をかいたままやはり目を閉じて微動だにしない。そして言うのだ。 「とっとと済ませろ」 目を閉じたままに。 佐助は意味もなくきょろきょろと周りを見渡した。もちろん誰も居ない。何もない。また小十郎を見る。やはり目を閉じてそこに 小十郎が居る。佐助はずりずりとすこしだけ小十郎に近寄り、その顔をのぞき込む。唇はうすい。触れたらかさかさと固そうで、 すこしもきもちよくはなさそうだ。 が、佐助はこくんと喉を鳴らす。 首を伸ばして、顔を近づける。小十郎の吐息の音がかすかに聞こえて、佐助は逃げ出したくなったが首を振ってそれを止めた。あ ごを上げる。ほとんど触れあう直前までふたりの唇が近づく。 口づける寸前に、佐助は目を閉じた。 いっしゅんだけ触れあわせたあとすぐに体を離す。 しばらくして小十郎が目を開く。こくりと首を傾げてから、終わったのか、と佐助に聞く。佐助はぶんぶんと頷いた。そうか、と 小十郎も頷く。それから眠れるといいな、と笑う。 佐助もすこし疲れた顔で笑い返した。 それでもその日の夜、佐助は一月ぶりに小十郎のとなりで眠りに就いた。 おわり |