甘 や か な 雨 音 かたん、と音がした。 小十郎は振り返らずにそのまま草紙を繰る。すたすたと畳を足が擦る音が近づいて、それからすとんと腰を下ろす。そ れでも小十郎は振り返らなかった。はらり、と紙が繰られる音と、外ではらはらと小雨が降りしきる音だけが座敷に残 る。時折、葉からこぼれおちる滴の音が大きく響いた。 しばらくして、観念したようにほう、という吐息が漏れる。 「怒ってんですか」 困ったような声が、ちいさくこぼれた。 小十郎はぱたんと草紙を閉じる。ようやっと振り返ると、佐助が迷い子のような顔をして胡座をかいていた。丸い目が 細く歪んで、厚い唇がおかしな形に引き結ばれている。 小十郎は黙ってそれを眺めて、それからべつに、と言った。 「おまえが幼女趣味にはしろうと、近親相姦を目論もうと俺の知ったことじゃあねェ」 「ちょう怒ってるじゃねえかよ」 「怒っちゃいない」 「怒ってるね」 「―――怒られてェのか」 呆れて睨み付けると、佐助は口ごもった。 そしてつぶやく。 「俺だって、たまには甘ったるい言葉を聞きたくなることもありましてね」 小十郎は黙った。 それから息を吐いて、阿呆、と吐き捨てる。 佐助も黙った。愚かしさは自覚しているのか、言い返してこない。 言って欲しいのか、と問うと、首が振られる。嘘はすきじゃないんでね、と笑う。小十郎はその捻くれた笑顔を見て、 またひとつ息を吐いて体を動かして佐助に向き直った。外は雨で、うっすらと暗いがまだ宵には間がある。 大抵佐助が小十郎の座敷を訪ねてくるのは夜も深まった頃で、まだ互いの顔が判ぜられるひかりのなかで対峙すること は殆どと言っていいほどに、ない。小十郎は黙って、視線を畳に落としている佐助の顔を眺める。 赤い髪と赤い眼が、薄闇のなかでその色を濃くしていた。 「猿飛」 顔が上がった。 小十郎は膝を進めて、佐助の口元を覆っている手を取る。 「なに」 「なんでも」 「変なの」 くつりと佐助が笑う。 小十郎は静かにそれを眺めてから、取った手を口元に持っていった。くすぐったそうに佐助が手を引こうとしたが、す ぐにまた力を抜く。残ったほうの佐助の手は、小十郎の顎の下に添えられた。 ふいと視線を上げると、ひどく近くに佐助の顔があった。それがくしゃりと、笑みに歪む。 「どうしよう」 「なにが」 「―――なんだか、すっげぇ甘ったるいこと言いたい気分」 「御免だな」 「俺もそう思うよ」 その言葉と一緒に、唇が重なってきた。 柔らかい皮膚の感触に、小十郎は一瞬目を閉じそうになる。が、開いたまま佐助の目を覗き込んだ。 閉じる寸前の、赤い眼がちりちりと小十郎の目を焼いた。 血の色だ、と佐助はよくおのれの髪と眼を嗤う。きっとそれを見過ぎちまったせいで、こびりついて離れなくなっちま ったんだね。小十郎はそうは思わぬ。ふたりのこどもがそうであるように、目の前の男もこの世に生を受けた瞬間から あの鮮烈ないろを纏っていたのだ。 例え血の色だとしても、そこに一筋の濁りすら存在はしない。 まずいな、と小十郎は顔をしかめた。 佐助ではないけれど、口からなにか甘ったるい言葉が零れてきそうだった。 余所事を考えるからだ。小十郎は目を固く瞑って、佐助の髪に手を突っ込んだ。柔らかい髪の感触が心地良い。佐助の 背がふるりと震えた。耳の後ろを撫でてやると、こてんと佐助の額が肩に乗った。 ちいさな吐息と一緒に、佐助の低い声が零れる。 「旦那」 「なんだ」 「―――なまえ」 呼んでもいい。 静かで、平坦で、それでも縋るようなその声に小十郎は黙った。 雨の音がする。雨のにおいもした。水を含んだつめたい空気が体を包み込んできて、佐助の髪もしっとりと濡れている。 呼んでみたいんだけど、と佐助がまた言った。小十郎はやはり黙ったままに、とん、と佐助の体を押した。 倒れることを厭わなかった佐助の体はそのまま畳に倒れ込んだ。 それを見下ろして、小十郎はくつりと笑う。 「いつ、それが嫌だと言った」 佐助の丸い目が見開かれる。 赤い眼がきらりとひかる。それを満足げに眺めてから、小十郎は羽織から腕を抜いた。 帯を解こうとすると、腰に佐助の腕が巻き付いてくる。見下ろすと、すこし緊張したような顔が見上げてきていた。 「こじゅうろうさん」 心なしか声が掠れている。 小十郎は静かに答えた。なんだ。佐助の目が丸くなった。それからふわりと笑みの形に細くなる。小十郎さん。すこし 強目の声が出る。小十郎はまた、なんだ、と答えた。 佐助はへらへらと笑いながら額を小十郎の腰にこつんと当てる。 「―――うん、いいなあ。これ」 「そらァ、良かったな」 「あんたも俺のこと、名前で呼んでもいいよ」 「べつに呼びたかねェ」 小十郎は帯から手を放した。 佐助が勝手にやってくれるだろうと思ったら、やはり器用にくるくると帯が外される。代わりに小十郎は佐助の堅い防 具をかちりと外した。日に当たらぬ、佐助のしろい肌が露出した。 不思議だ、と思う。小十郎はすこしだって佐助の肌や、顔や、体に劣情を刺激されることはない。男の肌で、男の顔で、 男の体だからだ。小十郎の帯を外し終えた佐助が、ふいと顔をあげて首もとに口づけた。生ぬるい皮膚の感触は、殆ど 気色悪いとさえ思う。佐助が首から顔を離す。 丸い目が、真っ直ぐに小十郎を見据えた。そしてそれが、にいと上弦に歪む。 「幸と丸がね」 「―――あァ」 「弟と妹が欲しそうだよ」 「無理だ」 「無理じゃないよ。今から作りましょうぜ」 「小松菜の季節は終わっちまったから無理だ」 佐助の赤い眼が、愉快そうに細められている。 それに気がない返事をしながらも、小十郎の背筋はぞくぞくと震えている。癪だ、と思う。目の前の男は、小十郎にな にを求めることもなくてただ体を求めるだけである。 それなのに、小十郎は佐助の目を見るだけで欲を感じる。 とうもろこしでもいいじゃん、と佐助が言った。 佐助はまだ衣服をつけたままなのに、小十郎だけ既に襦袢一枚にされている。襟元から佐助の長い指が入り込んでいっ て、するすると肌を撫でている感触に小十郎はひとつ息を吐いた。 「かわいいよ、きっと。とうもろこしから出てきた赤ちゃん」 「おまえが産め」 「べつに俺でもいいけど、そしたらどっから産まれてくんのさ」 「鴉にでも運んでもらえ」 「成る程」 くつくつと佐助は笑った。 胸元を探られて息があがるのが癪だったので、小十郎は佐助の脇腹に指を這わす。ほう、と息が漏れた。数だけはそれ なりにこなしているので、互いにすきな場所は知っている。小十郎は眉を寄せた。 そういう睦み合いが、ひどく甘ったるいような気がしていやだった。 口付けが落ちてくる。それを受け止めて、下唇をなぞってくる舌を逆に絡め取った。くちゅ、と唾液が絡まる音がした。 口の中は熱くて、ぬるぬるとうごめく舌はまるでそれだけで独立した生き物のように思える。 すこしだけ唇を離して、佐助が笑う。 「ん、ぅ―――ねぇ」 「なんだ」 「もう」 はなさなくってもいいよな。 小十郎はすこしだけ黙って、答えの代わりに首を伸ばして佐助の耳に噛みついた。 怒ってるのか、と問われて正直なところすこしひやりとした。 怒ってなどいない。腹を立てる理由など特にはないので、そんなものは空言だと笑い飛ばしてしまえばそれで済むのだ が、小十郎はそうしなかった。出来なかった、と言うほうが正しいやもしれない。 苛立っている。 それはどうやら、事実だ。 水音がいやに大きく座敷のなかで響いて、小十郎は目を閉じた。 まだ襦袢は完全には解けていない。佐助は顔を裾に顔を突っ込んで、小十郎の性器をゆるゆると撫でている。長い指の するするとした感触が小十郎の背筋に震えを寄越した。歯を食いしばってせめて声だけでも出ぬようにする。 「出せばいいのに」 佐助がからかうように言った。 布越しなので、くぐもって聞こえる。 「出す、か、阿呆」 「俺べつに気にしないけどなぁ」 「てめェは―――うるせェ、よ」 「ひっでぇ」 くつくつ笑う声がする。 小十郎は息を吐いて、それから目を見開いて思わず畳に爪を立てた。 「―――っく、ぅッ」 ぬるりと生暖かいものが性器をなぞった感触がした。 達しないように既に脱ぎ払った小袖を握りしめる。佐助がおのれの足の間に体を埋めている光景そのものがどこか卑猥 で、小十郎は顔を逸らした。もうやめろ、と言うのに佐助は水音を立てながらそれを舌でなぞることを止めない。 息が上がって、顔が熱くなった。下腹部がずんと重くなって、頭がふわりと白くなる。 「一回いっといてよ」 笑いを含んだ佐助の声に、舌打ちをした。 それでも先端を舌で抉られると耐えられずに、小十郎は息を深く吐いて達した。 ぴちゃぴちゃ、と液体を舐める音が静かな座敷のなかで大きく響くのを、小十郎は力が抜けて突っ張っていられなくな った腕をがくりと肘だけ立たせながら聞いた。まずいなあ、と佐助が笑っている。 裾を開くように、佐助は顔をあげた。肩に手がかけられて、次の瞬間には畳に背中がついていた。 「悪いけど、布団敷く余裕がねえや」 痛みを堪えるような顔で笑う佐助に、小十郎はべつにいいと答えた。 佐助の顔がかちんと固まった。それから元より丸い目がますます丸くなって、どうしたの、と問うてくる。 「今日、なんだかあんた優しいね」 「錯覚だろう」 「そんなことないね。優しいよ」 佐助は困ったように笑いながら、どうしよううれしいな、と言う。 小十郎は黙って佐助の首に手を回した。引き寄せて、煩ェ、と言ってやった。佐助はやはり笑いながら、あんまりやさ しくされるのもこまるんだけどな、と言いかけた。あんまりやさしくされるのも、まで紡いだところで小十郎の口が佐 助のそれを塞ぐ。 聞きたくない。 「お喋りはもう止すんじゃねェのか」 そう言うと、佐助の目が細くなる。 了解、という言葉と一緒に後孔に指が入り込んできた。目を閉じてその感触に耐える。 ぬるりとした濡れた感触がする。おのれの出したものが中に塗りつけられているのだと思うと耳の辺りが熱くなった。 佐助は小十郎の首元を吸いながら、指を二本に増やす。中でばらばらにそれが動いて、小十郎はがくんと肘の力を抜い て畳に倒れ込む。佐助の長い指は、的確に中の凝りを探し出す。 漏れた吐息が、いろを含んだ声のようで腹立たしい。 「ふ、ぅ―――ん」 「きもちいい?」 佐助が問う。 小十郎は首を縦に振った。 いれていい、と続けて問われたのでやはり首を縦に振る。 くちゅり、と音を立てて指が抜かれた。佐助が真っ直ぐに小十郎を見据えて、いれるよ、と言った。赤い眼が濡れてい る。すうと背筋になにかが走り抜けた。小十郎はにいと口角をあげて、はやくしろ、と答える。 佐助もおなじように口角をあげた。 「あんたいいよ、矢っ張り」 声と一緒に、後孔に熱いものが入り込んできた。 その衝撃に、息を詰めそうになるが小十郎はほうと息を吐いた。ぐい、と膝の裏を持ち上げられる。ひどい格好だな、 と思うけれど、それよりも中でどくどくと動いているものがあんまり熱すぎて、他のことはどうでもいいような気がし た。痛みと熱が一緒くたになって、最早なんと名前をつけていいのか解らぬ感触になる。 入り口のあたりを嬲られると、ぞくぞくと背筋に弱い震えが断続的にはしった。 「は、あ」 小十郎は眉をひそめる。 小十郎の足を持ち上げながら腰をゆっくりと動かしている佐助は、薄く笑っている。 そこじゃねェよと言ってしまいたくなる。無論佐助はそれを解って、こんな焦れったい動きをしているのだから言って しまえば小十郎の負けである。佐助の肩に爪を立て、奥歯を噛みしめた。 ぐ、と更に足が持ち上げられる。佐助は膝立ちになって、小十郎を見下ろして笑った。 「もっとちゃんと、挿れて欲しいよね」 小十郎はそれに舌打ちで応えた。 とっととしろ、と言うと呆れたように佐助が息を吐く。あんたとことんかわいくないね。 放っておけ、と言おうとしたらその前にぐちゅりと大きな音―――すくなくとも小十郎の耳には大きく響いた―――を たてて佐助の性器が奥底まで入り込んできた。体を突き刺されるような感触に、息が止まる。 熱い鉄かなにかで串刺しにされたような気がした。 「ひ、ぁ」 「は、きッついな―――息、吐いて」 「ふ、ぅ、はあ、ぁ」 言われた通りに息を吐いた。 「ん、だいぶ、らく」 へらりと佐助は笑ってすうと体を退いた。 ぽかりと喪失感が体の中に生まれる。が、息を吐く間もなくまた熱がゆっくりと小十郎の中を満たして、また退いて、 熱で擦られると体のいっとう奥の皮膚が震えて仕様がない。もう届かなくなった佐助の肩の代わりに、畳に爪を立てた。 気付くと雨が激しくなっていた。中庭の石畳を叩きつける音がする。もっとそれが激しくなればいい、と小十郎は思っ た。異様なほどに佐助の性器と小十郎の後孔が擦れる音が耳をなぶって、居たたまれない。 せめて、と目を閉じた。佐助は小十郎の足を肩にかけて動いているので、目を開いていると触れられてもいないのに勃 ち上がったおのれの欲と、佐助がおのれの中に入り込んでいるのが飛び込んでくる。 舌打ちをした。佐助の抱き方は逐一が技巧めいていて、それに振り回されるのが癪だ。 「きもちいい」 うっとりと佐助がつぶやいた。 小十郎は思わずうっすらと目を開く。やはり接合部分が目に入り込んできたので顔が歪んだが、視線をついと上に浮か して佐助を見た。佐助は額に汗を浮かばせながら、ひどくしあわせそうに笑んでいた。 佐助の笑顔はおさない。こどものような顔になる。 それでも、小十郎を見据えているその目だけが欲に濡れている。 背筋が震えた。 思わず声が漏れる。 佐助の目が見開かれた。が、すぐに細くなって、腰の動きが速くなる。 上から突き刺されるような動きに、息が上がって視界が水で霞んだ。生理的とはいえ涙が零れそうになる。うっとりと 顔を緩ませたまま、佐助が小十郎の名を呼んだ。 「こじゅう、ろ、さん」 そして、小十郎の体を折りたたむようにして目元の涙を舐め取る。 胸が潰されて息が出来ない。抗おうと口を開くが、ただの意味を持たぬ声にしかならなかった。それを悦のあまりに出 た声だと勘違いしたのか、佐助は更に顔を緩めてこじゅうろうさん、とまた言った。 佐助は小十郎の名を幾度も呼ぶ。 縋るように呼ぶ。 佐助が小十郎を抱くときは、縋り付きたいときなのだと小十郎は知っている。 それを佐助は言葉にはしない。 術を知らぬのだと思う。もしかしたら縋り付きたいと思っている、そのおのれの感情すら知らぬやもしれない。あわれ な男だ。小十郎はくつりと笑って、佐助の名を呼んだ。 「さ、るとび」 「ん―――なぁ、に」 「み、み、貸せ」 佐助の顔が寄ってくる。 力の入らぬ肘を必死で立てて、小十郎も身を起こした。その拍子にぐちゅりと佐助の性器が突き刺さってきて、はあ、 と息が漏れた。吐息が耳にかかったのか、佐助のほおがすこし赤らむ。 それに手をかけて、耳元につぶやいた。 「おまえの―――」 最後まで言葉を紡ぐと、小十郎は突っ張っていた肘から力を抜いた。 すとん、と畳に頭をつける。見上げると、佐助が顔を真っ赤にして固まっていた。 小十郎は息を詰めた。中に収まっている佐助の性器が、すこし大きくなる感触に体が震える。 「―――有り得ねえ」 しばらくしてから佐助は吐き捨てた。 顔が赤い。なにが、と問うと、苛立ったように乱暴に中を荒らされて息が止まる。 小刻みに息を吐き出しながら必死で佐助の腕に縋り付いていると、あんたってほんとうにこわいな、と佐助がまだ顔を 赤くしたままで言った。 俺をどうする気なんだか。 意味を深く考える前に、熱いものが中に叩きつけられる感触に小十郎も達した。 あんた今日可笑しかったよ、と身仕度をととのえた佐助が言った。 まだ体から怠さが抜けぬ小十郎は、それをぼんやりと聞き流した。ああそうかい、と適当に返す。 「ああそうかい、じゃなくッてさあ。あ、解った。なんか幸とか丸に言われたんだ」 「なにを」 「俺と仲良くしろとか」 「どうして俺が餓鬼に言われた通りにしなけりゃなんねェんだ」 壁に背をもたれて、襦袢一枚で胡座をかいていると佐助に羽織を放られた。 「着とけよ。今夜は冷えますよ」 「どうも」 ぱさりと肩にかけて、ほおづえを突く。 雨はまだ止んでいない。ぽつぽつと屋根から滴が零れ落ちる音が絶え間なく響いている。もう帰るのか、と問おうかと 思って止めた。確かに可笑しいな、と小十郎はつぶやく。 佐助は小十郎とは反対側の壁にもたれて、可笑しいよ、と返した。 「なんか、まるで」 言いかけて佐助は口をつぐむ。 どうした、と問うとなんでもないと首が振られる。 「すっごい、俺に都合の良い妄想をしかけた、今」 へらりと笑って、佐助が立ち上がる。 小十郎はそれを黙って目で追った。丸に臆病者でごめんね、って言っておいて、と佐助は言う。小十郎はひとつ頷いて 立ち上がった。佐助がひょいと眉を上げる。 「見送りぐらい、たまにはしてもいいだろう」 「―――ほんとにどうしたんだよ、あんた」 「べつに」 「べつに、て」 調子乗るから止めた方がいいよ、と佐助は困ったように笑った。 「あんたのおきらいな、甘ったるい言葉とか吐いちまうぜ」 小十郎は黙った。 黙って、佐助の横をすり抜けて障子を開く。 雨はまだ激しい。石畳のうえで飛沫が生き物のように跳ねている。 帰るのか、と小十郎はそれを見ながらつぶやいた。 「雨がひどい」 「よくあることだよ」 「そうか」 「うん」 「それじゃァな」 「うん、また」 「あァ」 「―――来て、いいよな」 幸も弁天丸も居るし、と佐助は笑う。 小十郎はそれには応えずに、また俺より彼方に先行ったらもう二度と会わん、と言おうかと口を開いて、それから閉じ た。代わりに振り返って、佐助の瞼にひとつ口づける。 達する直前に言った言葉を、またつぶやいた。 おまえの。 おまえの、目が。 「すきだぜ」 佐助は目を見開く。 それからくしゃりと笑みの形にした。 「嘘でも、うれしいもんだね」 嘘じゃないとは言わなかった。 言えば目の前の男はきっと困惑してしまうだろうと知っている。それに、小十郎にもそれがただしいことなのかどうか よく解らなかった。今度はちゃんとこっちに来るよ、と佐助は笑う。あいつらに迷惑がかかるから、そうしろ、と小十 郎は返した。佐助は笑んだままに頷き、 「あんたに言われたほうが、矢ッ張りうれしいや」 また言ってくれる、と続ける。 小十郎は黙り込んで、それからもう二度と言わんと吐き捨てた。 佐助はけらけらと声をたてて笑って、じゃあね、と言った。 じゃあね、また来るから。 そして消えた。 残された小十郎は黙って雨の降りしきる中庭を眺める。 幸と弁天丸の座敷は、本丸のなかでもいっとう端にある。今頃は眠っているであろうふたりのこどもを思って、小十郎 は苛立たしげに髪を掻いた。仕様がねェな、と吐き捨てる。 「―――餓鬼に嫉妬してどうする」 嫉妬、というのとはちがう。 けれどそれに似ている。佐助が縋り付く相手が、おのれ以外にも居るのかと思ったらひどくそれは小十郎を苛立たせた。 幸に嫉妬をしているというよりは、それを他の相手で代行することが出来ると思っている佐助に腹が立つ。 小十郎が与えない言葉をこどもに求める佐助と、それに苛立つ小十郎のどちらが愚かしいかなど考えても仕様がない。 こきん、と首をひとつ鳴らす。 それでも、と思う。 それでも、あの言葉を言おうと思った。 それはきっと、あのふたりが居なければ一緒有り得なかっただろうと思う。 ものに拘らぬ質のおのれがそうなのだから、佐助のような面倒な男ならば更に難しいだろう。それこそ、あとひとりか ふたり畑から収穫しなくてはならぬやもしれぬ。小十郎は息を吐いた。 こどもが増えるのが先か、佐助が観念するのが先か。 すこし考えてから、まァどちらでもいいかと小十郎はつぶやいた。 おわり |