黄 金 と 夜 色 に 赤 しんどい女だなと言われたのが最初だった。 まず初見で女と知られたのが片倉小十郎にとっては驚きだった。「どうして解った」小十郎は問うた。「解らないわけ ないじゃない」赤い髪と赤い目のしのびはそう言ってけらけらと笑った。「だってあんた、女じゃん」しのびの名は猿 飛佐助といった。しのびだからか、と小十郎は問うて、佐助はそうだよと首を竦めて答えた。しのびだからね。 「ってのは冗談。実のところ、あんたに似た女をひとり知ってンだよ」 佐助は真田幸村のしのびで、小十郎は伊達政宗の右眼である。 どこか似通ったところがあったのかもしれない。主らの邂逅の折に、戦場で顔を合わせる折に、愚にも付かぬことをち らりちらりと話した。そのうちに佐助がふらりと小十郎を訪れるようになった。なにをするでもない。ただ酒を飲んで、 物語りをするだけである。 「俺に似た女―――――それはまた、難儀な」 小十郎はそう言った。 佐助は苦く笑う。 「どうしてそうなるかなぁ」 「普通の神経じゃこの面では生きていけん」 「べつにあんたは醜女でもないだろうに」 「女には見えん。見えても困るだけだ」 徳利から手酌で盃に酒を注ぐ。 俺にも、と佐助が盃を差し出すのに小十郎はどんと徳利を佐助の膝先の濡れ縁に置いた。ほうと佐助が息を吐く。やれ やれ。自ら徳利を持ち上げて盃に酒を注ぐ佐助にちらと視線をやって、小十郎はそれで、と言った。佐助はぺろりと酒 を一舐めして、好い女だよ、と笑う。 「髪がね、黄金で」 佐助は空を仰いだ。 小十郎もそれにならう。ぽかりと夜にひとつ月が浮かんでいる。丸い。あんないろ、と佐助は言った。あんな、しろに ちかい、うすいこがね。佐助の声は元よりどことなく低音の奥の奥に蜜が沈殿しているようなとろりとした感触のもの ではあるけれど、そのときにその女について語るときの声は、うっとりとゆるやかで、殊更にその感触はとろとろとし て聞いている耳にこびりつくような心地すら、した。好い女なんだ。佐助は二度繰り返した。 小十郎は解った解ったと息を吐く。 「惚れてるわけだ」 「いやぁ、そうは言ってねえですよ」 「そんな腑抜け面で良く言うぜ」 「ちがうって。それに」 盃を傾けつつ、佐助は目を閉じた。 ちっとも相手にされない、と言う。小十郎はすこし考えて、どういう女なんだ、と問うた。「しのびだよ」佐助はかた んと濡れ縁に盃を置いた。軍神殿に爪の先から髪の毛一本まで全部くれてやってる馬鹿な女。 軍神か、と小十郎は首を傾げた。 「それはおまえじゃ役不足だな」 「言ってくれるな、知ってるから」 「辛かろうな」 ぽん、と小十郎は佐助の肩を叩いた。 「まァ惚れた女の幸せを祈るのもいい男への第一歩だ。涙を呑んでそこは笑顔で見送れ」 「第一歩ってところがあんたが俺のことをどう見てるかってのを如実に表してて涙が止まんねえよ、馬鹿」 「まだ若いんだから、死ぬ前にはなんとかなるかもしれんぞ」 「うるせぇ、放ッといて」 拗ねたように佐助は小十郎の手を振り払った。 くつくつと小十郎は肩を揺らして、黄金の女のどこが俺に似てるんだかな、と言った。小十郎の髪は黒い。手入れを一 切していないので、光沢もなく、硯の底にこびり付いた墨の残り滓のようないろをしている。似てるよ、と佐助は言った。 生き方が似てる。 「しんどいでしょう、あんたも」 「考えたことがねェな」 「それがしんどいってんだよ、おばかさん」 佐助は困ったように笑って、小十郎の髪を撫でた。 きれいな髪だったんだろうにねえと惜しむように言う。小十郎は首を傾げた。だったらなんだと言うんだろうか。すく なくともそんなことは、佐助には関係がない。そう言うと佐助は大仰に腕をひろげて、大ありだね、と言った。好い女 がそれを台無しにしてんのは、俺様から見れば大変な損失ですんで。 髪にかかった手がくしゃりと整えられたそれを崩して、ほろほろと前髪を小十郎の額にこぼしかけてくる。 「こうすりゃ、あんたも相当艶っぽいぜ」 佐助は悪童のように笑う。 小十郎は呆れた。 「櫛を入れて簪なんぞ二三本差してさ―――――そうだな、藍色なんか似合うんじゃない。きれいな小袖を見繕って」 「阿呆か。些ッとも嬉しかねェよ」 「そういうものが、欲しくないの」 「要らん」 そうか、と佐助は息を吐く。 あんたらみたいなのは一体なにが欲しいんだろうねと言う。佐助が言っているのは、と小十郎は髪にかかっているしろ い佐助の手を見ながら思った。その黄金色の女のことなのだろう。佐助の赤い目は切なげに細められていて、色事に疎 い小十郎であっても、その想いの程を図ることくらいは出来た。 「櫛も簪も小袖も花も、やった先から踏みにじられんだぜ」 「それはまた剛毅な女だな」 「まあ、俺が会う度からかってっからいけねえのかもしんねえけどさ。嫌われてンだよなあ、多分」 「おまえは餓鬼か」 「だってそうしねえと無視してくるんですぜ」 「話にならん」 小十郎は眉を寄せて、それから笑った。 こんなところで管撒いてる暇があったら、その女のところに行きゃァいいだろうに。そう言ってやれば佐助はまた切な げに息を吐いて、それでもへらりと人懐こい笑みを見せた。あんたと飲むのが好きなんだよ、と言う。 「それにこっちの好い女は俺を追い返さないし」 「言ってろ」 小十郎は吐き捨てて空を仰いだ。 薄い黄金色の月が浮かんでいる。あのいろが佐助はすきなのか、と小十郎はぼんやりと想った。小十郎のいろはその月 の後ろの黒である。横に座る男に目をやる。まぶしいほどに、そのいろは赤い。 あの赤と黄金はさぞや映えるだろうと考えた瞬間に小十郎は急にすうと酔いが覚めた。 小十郎が黄金のしのびとそれから初めてまみえたのは、武田との共同戦線の折であった。 相手は北条に組する中程度の大名で、名高い武士が居るでなく君主が名君ということでもなかったけれども、なかなか に狡猾な国で、武田の攻めをのらりくらりと逃げ回っては付近の国をじわりじわりと侵食し、何時の間にやらそれなり の大国になっていた。武田の目の上の瘤であるのは勿論のことながら、徐々に北にも侵食してくるその国は、伊達にと っても決して愉快な存在ではない。 まさかあんたと肩を並べて戦う日が来るとはね、と真田のしのびはひどくたのしそうに笑った。 「龍の右目は伊達じゃねえな。巴御前もかくやってなぁ見事な武者ぶり、御見逸れいたしましたよまったく」 小十郎はそれには答えず刀を一振りぶんと血を飛ばし、鞘にかちりと収めて顔に飛んだ血を拭った。 既にそれは半ば乾いて皮膚にこびりついている。足元に転がる死体を蹴飛ばし、ついと視線をあげれば常と変わらぬ体 をした佐助がこちらを見返しへらりと笑った。 血は、と小十郎は問うた。 「おまえも相当殺っただろうに」 「コツがあんだよ。血を被らない、ね。血なまぐさいしのびなんざ、見つけてくださいってなもんだろ」 「成る程」 陣羽織にこびり付く肉片を払いながら、今度教えてくれ、と小十郎は言った。了解、と佐助はけらけらと笑う。戦は終 わり、辺りは焦げるような匂いと血の匂いで満ち満ちている。伊達・武田連合軍の大勝であった。 浮かない顔だねと佐助が小十郎を覗き込む。 「なにか心配事でも」 「おまえもまさか気付いてねェわけじゃあるまい」 「これはこれは」 佐助は首を竦め、すいと笑みを引っ込めた。 「軒猿だね」 「だろうな―――あの程度の大名の忍隊があそこまで手練たァ到底思えん。 しかもどいつもこいつものらりくらりと逃げやがる」 「援軍で死ぬ馬鹿は居ねえってな」 「上杉がか」 首を傾げる。 軒猿は上杉の忍先鋭部隊であるが、現在北条と上杉の関わりは表面上では特に無かった筈である。小十郎はしばらくの 間腕を組んで考え込んでいたが、ふいにそういえばまだ戦勝報告を主にしていないことに気付いて顔を上げた。佐助も 伸びをして、旦那のところに戻らなけりゃ、と言う。 「戦場じゃろくに話も出来ないな。ねえ、右目の旦那」 「なんだ」 「今夜さ、そっちの陣に行ってもいいかな」 へらりと人懐こい顔で佐助は笑う。 酒でも飲みましょうぜ。そう言う。小十郎は顔をしかめた。これから武田も伊達も含めた戦勝の宴が開かれる。無理だ 阿呆、と小十郎は吐き捨てた。 「今夜なら平気でしょ。宴は明日だ」 「後処理がある」 「働き過ぎだよ、右目の旦那」 佐助は息を吐いて、小十郎の肩を叩いた。一刻くらい俺と和んだッて罰は当たらないよ。肩にかかってきた手が何故か いつもより重く感じられた。耳をとろとろと侵すように佐助の高い声が入り込んできて、鼓膜を撫でて背筋に震えのよ うなものを寄越す。確かに疲れているのかもしれない、と小十郎は思った。 一刻。 「酒は」 「お」 「用意してこい」 「了解」 へらりと佐助は破顔する。 その童子のような顔に、小十郎もつられてすこしだけ笑ってしまった。 互いに別れ、政宗の元へと戻り、報告を済ませてから小十郎は陣からやや離れた場所にある社へと訪れた。篝火が焚い てある。ぼうぼう、ぼうぼうと音を立て、時折ぱちりと炭が爆ぜる。行水をしたのでまだ濡れている髪を一摘みして、 後ろへ流し、小十郎は社の濡れ縁に腰掛けた。空を仰げば月は無く、薄い雲が満遍なく夜の黒を覆っている。 黄金の月は、今日は出ていない。 「―――――うえすぎ」 口からぽろりと声がこぼれた。 ふいに思い出したのは赤毛のしのびのおもいびとで、黄金のしのびは確かに上杉の者であるとあの男は言っていた。で は或いはその女もこの戦場に居るのだろうか。どんな女かね、と小十郎は膝を片方だけ胡座を掻いて考えた。髪がね、 と佐助の声がわぁんと耳の奥で反響する。髪がね、黄金で。 黄金。小十郎はそのいろを思い浮かべてみる。小判と猩猩緋の直垂が浮かんできた。なんとも色気の無いことだ、と息 を吐く。佐助は月だと言っていた。男のくせに、あの赤毛のしのびは時折夢見るようなことをうっとりとこぼす。 小十郎は胡座を掻く足をだらりと下がっているもう片方の足と交換した。佐助はまだ来ない。或いは来ないかもしれな い。武田のほうではなにか事後処理に戸惑っているということも考えられる。あの男が崇めるような必死さで追いかけ る虎の若子になにかあったのやもしれない。ならば佐助は来ない。小十郎が伊達になにかあれば決して佐助のことなど 顧みないのとおんなじように、武田になにかあれば佐助は小十郎のことなど思い出しもしないだろう。 小十郎は月の動きで時を知ろうとして頭を上げ、そういえば月が出ていないのだと半ば顔を上げた時点で思い出し、そ のまま顔を下げようとして、 「―――――ッ」 咄嗟に体を倒した。 だ、だだだ、だんッ 続けざまに先程まで小十郎が座り込んでいた濡れ縁に苦無が突き刺さる。 そのうちの一本が小十郎の脇腹にさくりと食い込んだ。小十郎は眉を寄せ、溢れ出そうになる声をかみ殺し顔をぐいと 上げ、苦無が飛んできた先を睨み付けた。社の周りには伊達の陣がある。殆ど木々はないが、一本だけ、背の高い杉の 木が立っている。角度から見て、おそらくはそこから苦無は投げられた。 小十郎は腹に刺さった苦無をそのままに、社の戸を引いてそこに身を隠した。 からりと戸を閉じて、社の隅に背を預けてほうと息を吐く。息を吐く体の揺れで、血がどくりと傷口からこぼれた。腰 にあるおのれの刀の柄に手をやって、小十郎は荒ぎそうになる息を必死で整える。気配は一切しなかった。相当の手練 であることはそれだけでも知れる。残党ではない。おそらくは、上杉のしのびの者である。 小十郎は息を整えながら、何故だ、と思う。 伊達と上杉にまだはっきりした争いは無い。 手駒のしのび集団を繰り出してまで家老を襲うことに意味はあるのだろうか。まして、小十郎は一度なりと軍神とまみ えたこともあるが、そのようなことをする武将には見えなかった。上杉と北条が組んでいるのであれば、はっきりとし た援軍を送る筈である。それをしないのは、何故か。 かちりと小十郎は鞘から刀身をすらりとすこしだけ覗かせる。 「―――――悪いがまだ死ぬわけにゃいかねェ」 くつりと笑って、社の戸を思い切り蹴飛ばした。 だあん、と音を立てて戸が倒れる。小十郎はす、と一度身を隠す。倒れた戸にまた苦無が突き刺さった。小十郎は戸を すくいあげ、盾にするように体をそれで覆い、社の前のちいさな階段を転げるように下りて、それから声を上げた。 「日の本に名高い軍神のしのびともあろう者が、闇討ちたァ主の格が知れる」 言うと同時に、戸を突き放す。 ばきり、と殊更に大きな音を立てて戸が破壊された。小十郎は社の縁の下に身を隠す。顔をあげると、しのびの足だけ が見えた。細い足である。黒い装束に包まれている。小十郎はすこし考えてから、縁の下からむくりと立ち上がった。 刀を構え、視線を目の前の黒装束のしのびに合わせる。 そして切れ長の目を小十郎は見開いた。 ふわふわ、ふわふわ。 風が緩く吹いていて、それを模るように黄金色の髪が揺れている。 月のひかりの下でそのしのびの肌は異様なほどにしろく、落ちてきた影はまるでそれが人形かなにかであるようにただ 透明に純粋に影である。目が丸く、すこしだけ吊り上がっている。 小十郎は背筋にぞくりと震えがはしるのを感じないわけにはいかなかった。 寒気がするほどに、目の前の女がうつくしい。 「上杉のしのびか」 小十郎は問うた。 目の前のものは答えない。 苦無を構える。小十郎も刀を構えた。ひゅうと風が吹く。ふわりと女の髪が揺れる。 小十郎はともすれば霞みそうになる目をどうにか焦点を合わせようと必死で力を込めた。どくどくと鼓動と一緒に血が 流れている。おまけにもしやすると何かが苦無に仕込まれていたのかもしれない。おかしな痺れが全身に廻り、冬でも ないのにかたかたと寒気で震えそうになる。 来いよ、と小十郎は薄く笑いながら言った。 早く相手が来なければ、此方がどうにかなる。 黄金色のしのびはすこしだけ体の動きを止めてから、すいと両手に構えた苦無を顔の前で交差させ、とぉんと片足で宙 に舞い上がり、小十郎のほぼ真上に来た。小十郎は体を退いて刀を構え、来るであろう苦無の雨に備える。 しかしその前に、苦無はかたんと地面に落ちた。 「かす、が」 佐助の声が、ひどく近くでした。 見ればすぐ横に佐助が居る。小十郎は目を見開いて、それから細めた。佐助は見たこともないような顔で、ただ上を見 ている。黄金色のしのびを見ている。黄金色のしのびは、佐助に声をかけられたことで苦無を取りこぼし、宙から落ち て地面にすたんと降り立ち、そのまま顔を上げない。 かすが。佐助がまたそう言った。 「おまえ、こんなところで何をしてンだよ」 「―――――貴様には関係ない」 女の声は鈴が鳴るような軽やかなものだった。 小十郎はすいと体から力が抜けていきそうになるを必死で堪える。横の佐助が、関係ないとかそういうことを聞いてる んじゃあないよとつめたい声で言った。 ここはね、俺の仕事場だ。 おまえが邪魔をするってんなら、お相手はするぜ。 「軒猿を寄越したのもおまえか」 「答える義務はない」 「そうか、ならいいさ」 佐助は笑って、すぐにそれを引っ込めた。 かちゃんと音を立てて大振りの手裏剣を取り出す。 「とっとと軍神殿のところへ帰るか、今此処で俺と一戦やってくか、選べよ」 まるで知らぬ男のようだ。 小十郎はそう思いながらまた黄金のしのびに目をやった。女は唇を噛みしめて、どうして貴様は、と言う。それから更 に言葉が続くかと思えば、そこで黄金のしのびの口は閉じてしまった。 そして消える。 佐助が舌打ちをした。 とんと大地を蹴って走り出す。黄金のしのびを追うのだろう。 血が抜けすぎて、膝から小十郎は大地に崩れた。ずるずると体を引きずりながら社までなんとか寄って、その壁に背を もたれさせる。佐助はもう小十郎の目に入る場所には居なかった。振り返りもせずにただ黄金のしのびを追っていった。 小十郎は息を深く吐いて、吸い、そして首を反らせて目を閉じた。瞼の裏に、黄金が浮かんでくる。 なんと透明な黄金だろう、と思う。佐助はあれを月と呼んだ。それでも足りぬほどだ。薄く、しろではなくて無に近い 黄金だ。今そこにあることのほうが不思議であるような、消えることが義務付けられているような、そういう色だ。 あんなにうつくしいものがこの世にあるということが、小十郎にはまだ良く理解出来ない。 佐助のことをすこし考えてみた。 振り返らないことが、あんまり自然で小十郎は笑ってしまった。 次 |