「貴方はずるい」 小十郎が傷を負ったと聞いて、政宗は取る物も取りあえず、本陣へと馬を返した。 ばさりと陣幕を払い本陣へと足を踏み入れると、小十郎は侍医に手当を受けていた。左の脇腹にざっくりと一筋の切り傷が 入っている。それを見た瞬間、政宗の足から力が抜けて、すとん、と膝が大地に落ちた。 その音に、小十郎が振り返る。 「政宗様」 低い声は、痛みですこし擦れていた。 小十郎、と政宗はおのれの家臣の名を呼んだ。傍らの兵が不安げな顔でおのれを見下ろしてきたが構う物かと思った。小十 郎の腹の傷は遠目に見ても深い。すこしずれていれば、心の臓を貫いていたとしても不思議ではない位置である。こじゅう ろう。また政宗は呼んだ。はい、と応えて欲しくてたまらなかった。はいなんございましょう、まさむねさま。それを聞く ことなしには、この大地についた足は一歩も動かせぬ。 が、何故か小十郎は能面のような顔をしたまま口を開こうとしない。 どれくらいの時が経ったかは解らぬ。 (なんで応えねェんだ) が、政宗にとってはそれは永劫にちかいほどに永く感ぜられた。 すまねェが、と小十郎が侍医らに声を掛ける。 「政宗様とお話してェことがある。ちっとばかし、下がっててもらえるか」 「しかし、お怪我のほうは」 「てめェの不手際で付いた傷だ。構わねェから、他の奴らも一緒に下がらせてくれや」 侍医はすこしためらったが、しばらくしてから頭を下げた。 陣のなかから人が消える。小十郎と政宗だけが陣に残った。まだ政宗は膝をついたまま、筵のうえに横たえられている小十 郎を睨み付けている。小十郎は誰も居なくなったのを確かめてから、傷ついた腹を庇いながら立ち上がり、政宗の傍らまで 寄って座り込み、 「無礼を許されよ」 「あ、ァ?・・・っ!」 ぱんっ 一瞬。 なにが起こったのか理解出来なかった。 右のほおにじわりと熱が拡がる。叩かれたのだとは、三秒ほどほうけてからようやっと解った。理解すると同時に、その熱 が拡がるのとおなじくして怒りが腹の底から立ち上ってきた。何の言われもないのに叩かれたのだ。怒りが沸かぬわけがな い。おのれの頬を叩いた小十郎の腕をがしりと掴み、きつく睨み付けるが家老はすずしげな顔でその視線を受け入れる。 「・・・なんのつもりだ、Ah?」 「失礼ながら、それは小十郎の台詞でございます」 「Pardon?」 「なんのおつもりですか。戦場は如何なさったのか」 「戦場、は・・・ちゃんと、成実にまかせて」 そこまで言ったところで、小十郎の切れ長の目がきらりと怒りでひかる。 低い声が、平素より一層迫力を増す。 「甘えるのもいい加減になさいませ」 あなたは一体おのれを何だと思っておられるのか、と小十郎は続ける。 「あなたは一国一城の主。奥州筆頭。軍を率いる総大将にございます。 それが一家臣の傷ひとつで陣へ舞い戻ってくるとは聞いたことがない。ご自覚なされよ」 「・・・じ、かくはそっちのほうだろうが!」 政宗は小十郎の腕を思い切り握りしめる。 その痛みですこしだけ小十郎の眉が寄った。頭に血が上っているのがわかる。くらくらした。目の前のすずしい顔をした男 を思い切り殴りつけてやりたい衝動にかられるが、怪我をしている身であると必死にそれを押しとどめる。 「俺にとって、てめェがどんだけでかいか!知らねェとは言わせねェ!!」 「無論、知っております」 「だったら!」 声が引き攣れるようになるのがいやだ、と思う。 が、どうしてもそうせざるをえない。小十郎はそういう政宗を静かに眺め、それから息を吐いた。静かに言う。必要があり ませぬ、と言う。政宗は眉をひそめた。意味がよくわからなかった。 小十郎は続けた。たとえば、と。 「悪政をすれば民はあなたを見離しましょう。 武勇が無いと見なされれば家臣はあなたを見限りましょう。 だからこそ、あのような脆弱なお姿をさらすことは許されぬのです。 政宗様。あなたは龍でございましょう。ならば常にいついかなる時であろうとも、龍であられませ。 人であるところを、易々とひとに見られてはなりませぬ」 ひとことひとこと、まるで言い聞かせるように言う。 小十郎の言葉に、政宗は黙り込んだ。その言葉はたしかにその通りで、けれど政宗は納得できずにおのれの家老をただただ 睨み付ける。困ったように小十郎はちいさく笑い、それから政宗の肩にやさしく両手をかけた。 「辛う、御座いますか」 「・・・・No kidding、そんなわけあるか」 「ですから、小十郎のことはいっとう後回しになさいませ」 「意味がわかんねェよ、だから」 政宗にとって、いっとう大切なのはなによりも誰よりも小十郎だ。 かつて全てであり、政宗の全てを創り出し、与え、誰より近くに常に居て、そしてこれからも居ると確信できる唯一だ。 それを言うと、小十郎は首を振った。違いましょう、と言う。あなたの全てが小十郎であってはなりませぬでしょう。 また戻りたいのですか、と言われて政宗は黙った。また、というのは幼い頃のことであろう。母に疎まれ父に避けられ、家 臣の誰もがおのれを無いものとして扱った。小十郎だけが傍に居た。小十郎だけが醜いおのれを真っ直ぐに見て、名前を口 にした。 (梵天丸様) あの低い声で何度も何度も言い聞かせるように呼んだ。 小十郎だけが世界の全てで、小十郎が与えるものが世界だった。 戻りたくはありますまい、と小十郎は言った。 「民が皆あなたを慕い、兵が皆あなたを崇め、家臣の誰もがあなたを認める。 それはすべてあなたが今まで築き上げてきたものでございます。だからこそ、あなたの所作ひとつでそれは崩れるもの であるということも常にご自覚なさいませ。国など脆いものです。智勇無き主を認めるほどには、この乱世は甘くない」 もう梵天丸様はではございますまい、と言う。 政宗はそれでも、何も言わずに黙りこくる。戻りたいなどと思うはずがない。何もなかった。ほんとうにあの頃政宗には何 ひとつなくて、今はあの頃望んでいたものが殆ど手の内にある。が、政宗は小十郎の言葉に決して頷こうとはしかなった。 あの頃には戻りたくない。 けれど、小十郎が居なくなるなど考えようもなかった。 「・・・おまえは」 そこで言葉を止める。 解っている。小十郎が言いたいことは痛いほど政宗として知っている。政宗の全てはもう、小十郎であってはならぬ。それ でも、と政宗は思う。それでも、政宗は小十郎がいっとう大事だ。小十郎が居なくなったらきっと息が出来なくなる、とさ え思う。そしておなじくらい、そんなことはありえないと知っている。 政宗は小十郎が死んでも、生きる。 かなしいほどに、それは事実だった。 黙りこくったまま動かなくなった政宗の頭に小十郎の手がぽん、と乗っかる。 「そんなにも、弱く見えますか」 「・・・Ah?」 「この小十郎、政宗様の為にいつなりとて死ぬ覚悟はございますが、死のうと思ったことはございませぬぞ」 そう簡単にはこの命、くれてやりはしません。 泥水をすすり、敵の屍肉を喰らい、おのれの四肢がたとえ無くなろうとも、生きられるならば生きましょう。そして必ずや あなたの元へ戻りましょう。たとえ政宗様に厭われようとも、この命続く限り小十郎はあなたの傍へと参りましょう。 たとえば。 また小十郎はそれを言った。 「あなたが悪政をなさり、 戦場で勇をお忘れになり、 龍ではなく人になり果て、 国を追われて零落れたとしても、 小十郎は政宗様の元に居ります。 この命が続く限り、小十郎の居る場所はあなたの後ろでしかありえませぬ」 いやだと言われても離れる気はございませぬゆえ、覚悟召されよ。 「どのような政宗様でも小十郎は此処に居ります。 あなたに何を言われようとも小十郎は決して離れませぬ。 だからこそ、小十郎のことはいっとう後回しになさいませ。どう扱われようと文句は言いますが、離れることはないのだ からこんなに都合のいい家臣はございませぬぞ。 小十郎のことなど気にしている暇があれば、他に目をお配りください」 小十郎は此処に居りますから、と笑う。 政宗は黙ったまま、目を閉じた。絶望的だ、と思った。この男は、目の前のこの男は政宗に心配することすら、許さぬのか。 小十郎の全ては政宗のものだ、と小十郎は言う。 けれど政宗にはおのれを振り返るなと言う。 政宗はすい、と手を伸ばして小十郎の傷に触れた。ひゅ、と息を飲む音が上から降ってくる。いいざまだ、と思った。痛が ればいい、と思う。 (痛がりやがれ) 傷を負っていないのに、政宗は息が出来ぬほどにどこかが痛んで死んでしまいそうだ。 ぽつり、と傷に触れたままつぶやく。 「おまえは、狡い」 小十郎は不思議そうな顔をしている。 政宗は笑った。本当に解らぬのか、振りをしているのか、それももうどうでもいいことだ、と思った。こうやって生きるこ としか出来ぬ。望んで得たものを守るかわりに、政宗は小十郎を守ることだけは許されぬのだろう。いっとう大事だ。だか らこそ、それは何よりも脆い急所となる。 大事なものを守ることが出来ぬ痛みに、政宗は呻いた。 小十郎がそ、と腕を回して背を叩いてくる。誰も居ない場所ではこうやって弱い人となることをこの男は許すのであろう。 泣きたくなった。馬鹿野郎、と泣き叫んでやろうかと思った。俺だっておまえを守りてえよ。大事なんだよ。無くなること なんざ考えただけでも怖くって震えるくらいいやなんだよ。 声は出なかった。 涙も出なかった。 政宗は泣くかわりに高く笑った。小十郎の体を押しのけて、立ち上がり家老を見下ろす。 夜の帳を下ろしたような、真っ黒の目が見上げてくる。 「もう二度とおまえが怪我をしても来ねェ」 「そうなさいませ」 「俺は金輪際、おまえを振り返らねェ」 「そうなさいませ」 「満足か」 「はい」 「そうか」 政宗は言葉を止めた。 それから目を閉じて、笑う。 いつかこの男がこの世から消え失せたときも、こうやって笑ってやろうと思った。 |