六年ぶりに訪れる土地に、小十郎は一瞬くらりと眩暈を感じた。 六年。それが長いのかそれとも短いのか小十郎には解りかねた。ただあんまり色々なものが変わってしまって、時間の 感覚すら覚束ない。城下は六年前とはまるでちがった。狂乱のあの夜からは考えられぬ程に平和で、何処にでもある普 通の藩になっている。 そう考えて、ふと小十郎は眉を寄せた。 ―――普通の藩になるよ。 そう笑った男と会わなくなってからは、ふたとせ。 猿飛佐助の鳴らす鈴の音を聞かなくなってから、もうそれほどの時が経った。 大きな、小十郎のような昼の者には到底関われぬような大きな仕掛けがあったのだと人づてに聞いた。死んだ者も居る という。それでも、佐助は生きていると聞いて小十郎は安堵した。死ぬはずはないと思っていても、矢張り不安ではあ ったのだ。仕掛けが終われば、また以前のように庭先であの鈴が鳴るのだと小十郎は疑うことすらしなかった。 半年その音を聞かずに過ごして、小十郎は初めてあの男が遂におのれとの糸を断ち切ったのだと知った。 存外それはすとんとおのれの胸のうちに落ちてきた。 嗚呼、と思った。嗚呼、そうか。ようやっと覚悟決めやがったか、あの腑抜け野郎は。 随分前から、佐助がおのれを厭わしく思っていたのは知っていた。ならば小十郎とて、離れて欲しいならば離れようか とも思ったが、全身で小十郎から退いているくせに、何故だか佐助は相変わらずに生駒屋に通っては、 りぃん 小十郎は頭を振った。 思っても詮なきことだ。終わったのだ。小十郎はもう隠居ではないし、旅に出ることもなくなった。戯作を開版したの で日々はせわしく、佐助たちのことを思い出す日もすこしずつ少なくなっている。そのうちに、思い出すこともなくな るだろう。小十郎は近頃、よく思う。 きっと佐助はそれを望んでいた。 小十郎がおのれを思い出すこともなく、それを記憶の隅で埋もれさせていくことをあの男は望んでいた。 小十郎は舌打ちをした。仕掛けを外したことのない男の巧みな筋書きのなかに浮かぶ一滴の染みでしかなかったおのれ が、今になってひどく癪に感ぜられる。巻き込まれるように連中の仕掛けに関わって、幾年か道中を共にして、それで も結局おのれはあの男の内奥の切れ端にすら触れることはなかったのだ。 時折に、ひどくさみしげに笑う佐助を小十郎はどうすればよかったのだろう。 「―――くだらねェ」 宿でひとり小十郎はつぶやく。 随分久々に取り出してきた帳面を繰る。 それがひどく未練がましい行為のような気がして、小十郎は堅く瞼を閉じて、帳面を座敷の隅へと放った。ばさり、と 音を立ててそれは畳の上に落ちた。それをぼんやりと眺めて、小十郎は息を吐く。 呼ばれたときに、断っても良かった。 断ろうと思っていたのだ。面倒事に巻き込まれるのは御免である。藩から使いがあったときに、事実小十郎は一度断っ た。けれど、次に請われたときには頷いた。おのれが赴いたところで何も出来ぬことは十二分に知って、 それでも、浅ましく小十郎は期待したのだ。 風鈴の音にすら、振り返らずにはいられない。 些っともおのれは思い切っていない。 もう一度だけだ。小十郎は口の中でつぶやいた。もう一度。 もう一度だけ、あの男の顔を見たい。 そうしたら、あの男が望んだように日の当たる世でだけ生きれるような気がする。黄昏を忘れ、連中を忘れ、あやかし を忘れて、そして。 そして、 猿飛佐助を忘れる。 小十郎は膝の上の拳を強く握った。 目の前で舞台に沈み込んだ老人ふたりに、小十郎は息を飲んだ。 否。老人ではない。 あれは。 岩に挟まった足を抜こうとしたら、激痛がはしった。 思わず小十郎は呻く。が、唇を噛みしめてひとおもいに抜いた。痺れるように足が痛む。眉をひそめながら、小十郎は 手を老人たちに差し伸べようとした。 瞬間、老人から火が立ち上る。 小十郎は驚いて手を引いた。ぼうぼうと、火柱が天を目指すように高く上がる。 闇の中で、まるでなにかを導くようにそれは煌めいていた。小十郎はその火に、いっとき魅入った。 その時だった。 「お退がりくださいな、旅の人」 舞台の奥の、石塔の横から。 ひどく聞き覚えのある声がした。 「さると―――び」 小十郎は思わず声を零していた。 行者包み、白い御行振り、赤い髪に飄々とした笑み。 猿飛、と怒鳴るように呼びかけて立ち上がろうとするが、足がもつれた。ひどく痛む。骨が叫び声をあげるのを無視し て、小十郎は更に足を進めようとした。やめなよ、と鋭い声がかかる。 「人違いだ」 石塔の横から、するりと影が覗いた。 黒い。笠も単衣も袴も、ぞっとするほどに黒い男が立っている。 笠からは一枚布が垂れ下がっていて、それも黒いので髪の色は知れない。ただ、ぼうぼうと老人から立ち上る火柱が男 の顔を照らしていて、しろい肌が赤く染まっている。猿飛だろう、と小十郎は痛む足を押さえながら、黒衣の男を見上 げる。ひとちがいだよ、とまた冷たい声が言った。 「天上天下、古今東西、何処にも人の知り合いは居やしねえ。 そこに転がってる天狗とおンなじだ。八咫烏ってね、あやかしですよ」 はやくおかえりよ、と烏は言った。 火の立ち上る老人ふたりの傍により、かなしいねぇ―――とつぶやく。 「生きるのも死ぬのも、そンなに変わりゃしないんだ。 だッたら生きれるだけ生きて、幕引かずに死ぬことだって出来るのにさあ、全く」 仕方がないねえ。 男はひどくかなしそうな声で言う。小十郎は腕で、這うようにして近寄ろうとしたが男はすいと体を退いた。おかえり よ。また言う。そして、伝えてくれるかい。 「天狗がふたり、山で燃えた」 「何、言って」 「そういう仕掛けなんだ」 烏は笑ったようだった。 顔は見えぬ。ただ、空気の流れでなんとなく小十郎はそう思った。 烏は続けて、頼むよ、と言う。 頼むよ、旦那。 「それがあんたの、いつもの役目じゃないか」 小十郎は目を見開いた。 挫いた足が悲鳴をあげるのを無視して、立ち上がろうとすると呻き声が漏れた。それでも烏に近寄ろうとすると、すい と細い腕が小十郎の腕を捕らえた。見ると、女だ。 こちらも夜に溶けるように黒い装束を纏っている。 「いけない」 転がる鈴のような声だった。 かすが、と小十郎はつぶやく。女は何も言わずに小十郎の足に板きれを添えて、布で括る。 歩けるか、と問われたので立ち上がってみると痛みは残るがなんとか歩けそうであった。頷くと、女もすいと体を退く。 烏の横に女が並ぶと、影法師がふたつ並んでいるように見えた。 その後ろで、火柱がふたつぼうぼうと燃えている。 気を付けて―――と烏は言った。 これが。 「これが、今生の別れだ」 そう言うと、烏と女は踵を返して山頂へと足を踏み出した。 ごお、と火柱が殊更に大きくなる。火薬か何かが仕掛けてあったのやもしれぬ。 夜に赤が舞って、それがふたつの影法師を煌々と照らす。小十郎はすこしずつ小さくなる背中に、思い切り声を張り上 げた。かすが。猿飛。 ひとつの影法師が、足を止める。 「おい―――」 女の声が咎める。 烏のほうはそれを手で制して、先に行けと促した。 しかし振り返ることはしない。女はすうと闇に消えていった。 小十郎は烏に向かって、怒鳴る。 「巫山戯るな、俺はこんな茶番認めねェ」 烏は何も言わない。 小十郎は痛む足を岩に踏ん張って、腹の底から絞り上げるように声をあげた。猿飛佐助、と名前を叫ぶように呼ぶ。 八咫烏だと。巫山戯やがって。影がひくりと揺れた。足を出せば、あの影はすうと消えていくだろう。小十郎は立ち止 まったままで、詰る言葉を続ける。背中がひどく頼りなく見えた。 痛む足と相まって、涙でも零れてきそうだった。 「行くなら、行きやがれ」 小十郎は言った。 そして笑う。 「一生掛かってでも、地獄の果てまででも、追いかけて――――――その腑抜け面、ぶん殴ッてやる」 ごお 火柱が叫んだ。 烏は動かない。動かないまま、まるで景色と一体化してしまったようだった。 待ってろ。小十郎はその背中に向かって、嘲笑するように怒鳴りつけた。待ってろ。俺に殴られる日を首洗って待って やがれ、阿呆。二目と見れぬ顔にして、もう二度とあんな腑抜けた笑い顔なんざ浮かべられなくしてやる。 そうしてやるまで、 「逃がさねェ」 烏は振り返らない。 足を一歩前へと踏み出す。半分だけ体が闇に紛れた。 小十郎はそれをじいと、瞬きすらせずに凝視する。更に烏は一歩足を踏み出した。完全に何も見えなくなる。体から力 が抜けて、岩に倒れ込みそうになるのを小十郎は必死で律した。 火柱が燃えている。それだけが音で、あとは夜だ。 「―――さると、び」 沈黙が耐えられなくて、小十郎はまた名を呼んだ。 それを切り裂くように、 りいん と。 鈴が、鳴った。 おわり |