・・・ 孤者異 ・・・
りん、と鈴の音がした。 和綴を繰っていた片倉小十郎の手が止まる。 ぱたん、と文机にそれを閉じ、立ち上がった小十郎はしばし迷う。 それから意を決して障子窓をからりと開いた。 「やあ、片倉の旦那」 へらりと笑うのは猿飛佐助である。 小十郎は息を吐いて、久しいな、と言う。それに佐助はちいさく頭を下げて、お仕事があってねえ、と返した。聞け ば信州のほうでの仕掛けだったのだと言う。それは遠いな、と相づちを打ちながら、小十郎はその仕掛けにおのれが 参加していないことへの不満を奥へと押し込んだ。 佐助は窓の桟に寄りかかりながら佐助はうっとりと目を細め、小十郎を眺める。 「なんか」 「なんだ」 「片倉の旦那見るとさあ、あー江戸に帰ってきたなぁって思うんだよね」 だから帰ってすぐに来ちゃった、と笑う。 佐助に笑いかけられて、小十郎は戸惑いながら眉に皺を寄せた。佐助は小股潜りである。偽りを吐いて人を騙すのが 生業である。そういう男の言うことを真に受けるのは、あまりに滑稽だ。 だが、とも小十郎は思う。 小十郎は蝋燭問屋の若旦那ではあるけれど、もうすでに隠居の身であり店を継ぐことはない。そんな人間を騙したと ころで佐助には一文の得もありはしないだろう。単純な好意を向けられているとも思わぬが、しかしただ利用される ほどはおのれも愚かではないとも思う。 小十郎の中で、ある意味で佐助との関係は賭だった。 勝つか負けるか、そもそもなにを賭けているのかも定かではない。言い訳か、と小十郎は思わず苦く笑う。巻き込ま れるように仕掛けに参加し始めてだらだらと続くこの関係を、どうしておのれが続けているのか、という問いに対す る正当化だ。 佐助が不思議そうに首を傾げた。 「どしたの、旦那」 「何だ」 「なんか眉間の皺深い」 「―――うるせェ」 吐き捨てながら、小十郎はぶるりと体を震わせた。 時は睦月。単衣で窓を開け放つにはまだ早い季節である。 佐助は小十郎を見て、かすかに顔を歪めた。そしてごめんね、と言って窓の桟から体を離す。咄嗟に小十郎は離れて いく佐助の腕を取った。そしてその後にすぐ後悔した。佐助がひどく驚いた顔でこちらを凝視している。 しまった、と思うがもう遅い。 「片倉の旦那」 戸惑ったような佐助の声が鬱陶しい。 小十郎は握りしめた佐助の腕をとん、と突き放し、それから数秒黙り込む。そしてちいさく帰るのか、と問うた。佐 助がへらりと笑う。 「あんた寒いの苦手でしょう。俺はそろそろ退散いたしますよ」 「客を庭先で帰したとあっちゃ、こっちの後味が悪ィ」 「俺みたいな卑賤のもんがこんな大店に入っちゃまずいよ。 あまつさえ若旦那がそれの知古だなんて話になっちゃ、あんたが困るだろ」 「俺は隠居だ。店の評判なんぞ知らん」 茶でも飲んでいけ、と言うと佐助は困ったように笑う。 その笑いはひどく小十郎を苛立たせた。いつも佐助はこういう顔をして全てを誤魔化そうとする。癪だ。 ぐいぐいと佐助の腕を引く。小柄な体が宙に浮きかけたあたりで、佐助は慌てて入りますよ、と言った。ぱ、と手を 離す。ぼた、と佐助の体が落ちた。 「乱暴なおひとだよまったく」 佐助は崩れた衣服を直しながら、それじゃお邪魔するよ、と言う。顔はやはりどこか戸惑っている。が、小十郎はそ れを見て見ぬふりをした。 佐助の姿が庭先から消え、かたん、と離れと店を繋ぐ渡り廊下のあたりから物音がする。 小十郎はその音を聞いて、ずっと詰めていた息をようやく吐いた。 2007/07/22 プラウザバックよりお戻りください。 |