「ついてきてもらおうか。あんたに会いたいっておひとが居るんだ」 「なんだそりゃァ?」 問いかける間もなく、新任教師は早足に廊下を渡っていく。 しかたがないので彼はその教師の後を追った。新任教師は自分がついてくるのを、廊下の曲がり角 で目だけで確認すると、にんまりと極めていけ好かない顔で笑った。それで彼は、薄々感じていた目 の前の赤毛教師に対する嫌悪感を、いっそう確かなものにした。 廊下の床は窓から差し込むひかりを、きらきらと安っぽく照り返している。歩くたびに上履きの靴 底が、きゅ、きゅ、とゴム特有の耳障りな音を立てる。窓の外には桜の木が見える。でも歩いている のは一階なので、彼の視線に映る桜は単なる無愛想な幹の部分に過ぎなかった。ぬるまったい気温と、 適度な騒音と、興味のない同行者に、眠気が加速度的に彼の意識を覆い隠していく。 彼は右目に覆い被さった眼帯を手の甲で押さえつけた。 うんざりするほどの春だ。 冬眠明けの熊を鈍器で殴って再び永久の眠りに誘うほど、暴力的に春だ。彼はそう思って、眼帯か ら手を離した。歩いているうちに、次第に擦れ違う学生の数が少なくなっていく。始業の時間が近づ いているのだ。彼がそう考えた直後に始業を告げるチャイムが鳴った。 彼は不快を隠さずに舌打ちをした。 「Hey、授業始まっちまったぜ?」 「ご心配なく。ちゃんと担任の先生には伝えてありますから」 相変わらずいけ好かない顔で新任教師は笑う。彼は鼻を鳴らして顎をもたげ、できるだけ相手に不 愉快に見えるような笑みを浮かべた。 「ずいぶんと用意がいいこって」 「お褒めにお預かり光栄ですよ、っと―――」 ぴたりと教師の足が止まる。 顔を上げると、「応接室」のプレートがかかったドアがある。そういえば、PTAの役員やら理事 長やらがここに入るところを目にしたことがあった。そのドアは、他の教室のドアのようなチープな 引き戸ではなく、無意味な重厚さを備えた木造のそれだった。 新任教師はとんとんとドアをノックする。 「連れてきたよ」 「あァ」 ドア越しにもよく響く声に、彼は訝しげに眉をひそめた。まったく聞き覚えのない男の声だ。しか も応接室に通されるような―――普通の保護者は会議室に通されるのがほとんどだ―――学校にとっ てそれなりの重要性があるような相手に、彼はまるで心当たりがなかった。 「おい、そろそろ種明かしをしろよ。なかに居るのは誰だ?」 新任教師の肩に手をかけると、赤毛がくるりと視界から消えて、代わりに男にしてはいろのしろい 顔がぱっと眼前に現われた。髪とおんなじ赤い目がぱちぱちとわざとらしい瞬きをして、それからや はりあくまでもわざとらしく、にこりと笑みの形に歪められる。 教師の唇が、ゆっくりと開かれる。 その口から発せられた言葉に、彼はうんざりと目を細めた。 「あんたにとって世界で一番大事なおひとさ」 新任教師はいかにもたのしそうに肩を揺らした。 それはなんだか謎かけのようで、しかも新任教師がその答えを彼に教えるつもりがないことは、火 を見るよりもあきらかだった。 「アンタふざけてンのか? 意味が解らねェ」 新任教師は笑ったままで、返事はしない。 その代わり、教師の手はドアノブにかかり、かちゃりとそれを回したかと思うと、そのままドアを 開けてしまう。無意味に重厚なドアは、やはりその重厚さに恥じない大仰な音を立てて開いた。 ドアの先には私立の高校らしい、寄付金を惜しみなく使ったと思われる応接室が広がっている。唐 草模様で、やわらかそうな一人掛けのソファが四脚、ソファの間に置かれたテーブルはおそらく大理 石で出来ている。窓にはカーテンがかかっていて、それは南向きの部屋を日光から守るためにすべて 閉じられていたけれども、先客がその端を摘んですこし開きかけていたので、室内には一筋のひかり が差し込んでいた。そしてそのひかりは真っ直ぐにドアまで伸びて、その先に居る彼の体を真っ二つ に引き裂いている。 ドアが完全に開かれるのと同時に、しゃっ、と音を立ててカーテンが開かれる。それは故意という よりは、なにかに驚いて咄嗟にカーテンを引いてしまった、という行動に彼の目には映った。なぜか といえば、開かれたカーテンは不適切な場所に過剰な力をこめられたせいで、無残にも留め金がひと つ外れてしまって、それがカランカランと床に落ちて音をたてて転がっていたからだ。 カーテンが開いたので、逆光で先客の顔はよく見えなかった。 ともあれ、彼はその先客を、なんだかよく解らないが、すこし落ち着きのない野郎だと考えながら、 応接室に足を踏み入れた。すると背後でがちゃりと音がした。 はっと振り返ると、ドアが閉められている。 「Shit!」 ドアノブに手をかけるけれども、どうにも回らない。 外側から鍵をかけることはできないはずなので、新任教師がドアの前に立って、外からドアノブを 抑え付けているとしか考えられなかった。問題はなぜあの赤毛がそんなことをしなくてはならないの かということだが、そんなことはいくら考えても解るはずがなかった。そもそもあの赤毛と会ったの も、存在を知ったのも、ついさっきのことなのだ。彼は早々にドアを開けるのを諦め、振り返った。 先客はさっきの場所から一歩も動いていない。知らない間に自分以外のものの時間が止まったんじゃ ないかと彼が錯覚しそうになるほど、ほんとうに微動だにしていなかった。 彼はしばらく相手が自分になにか話しかけてくるのを待った。呼び出されたのだから、当然相手か ら話を切り出してくるんだろうと思ったのだ。でもいつまで経っても相手はカーテンの端を掴んだま ま突っ立っているだけだった。目はすぐに慣れたので相手の顔もすでに見えるようになっていたけれ ども、そうなってもやはり相手に心当たりがないことには変わりはなかった。 見知らぬ男が、そこに立っていた。 「Hey、アンタいったい、俺になんの用だって?」 彼は不躾な視線で、上から下へと相手を値踏みした。 見たところ、年は三十前後。一目で安物ではないことが解るスーツがおそろしくよく似合う長身で、 むしろスーツ以外に似合うものなんてないんじゃないかと思うほどに、その体には「隙」という要素 が一切欠落していた。ある種の制服しか似合わない体つきだ。彼はそれで、わけもなく目の前の男か ら軍人を連想した。 彼の言葉に、はっと弾かれたように男は顔を上げる。彼はすこしだけ左目を大きく開いた。男の左 ほおにぎょっとするほどはっきりとした大きな傷が刻まれているのが、そのとき初めてよく見えた。 「これは、―――失礼をいたしました」 男の時間はようやく動き出したようだった。 男はすっと頭を下げると、ソファを避けて彼の前まで歩み寄ってきた。そして懐から名刺入れを出 して、そこから一枚名刺を取り出した。彼は名刺を片手でぞんざいに受け取り、摘み上げるようにし てそこに書かれている内容を睨んだ。名刺に書かれている名前にもやはりなんの心当たりもなかった ので、それは単なる紙切れだった。 ただその紙切れには、名前以外に気になるところがあったので、彼は辛うじてそれを握り潰すこと なく、てのひらの上に置いてじっと睨み付けるに止めることができた。 名刺には、名前の他に当然所属が書いてある。 そこには「警視庁捜査一課管理官」と記してあった。彼はさまざまな経験上、警察に対して極めて 強い敵対心を抱いていたので、その感情を一切隠すことなく、開けっ広げに顔に出して見せた。 「―――Policeに世話になるようなことをした覚えは、ここ一二ヶ月ねェんだがなァ?」 彼は不満げに眉をひそめたまま、目の前の、どうやら警察官らしい男の顔を睨み上げた。なぜだか 男はすこし顎を引いて身を後ろへ引いた。そしてなんなんだと思う間もなく、目の前の壁みたいな男 の顔がふっと消えて、気付くと足下にそれが恭しく跪いているのを彼は見つけて、呆然とした。 まるで中世の騎士のように、男は床に片膝を突き、背中を真っ直ぐ斜めにして、大きなてのひらを 膝に乗せて、頭を下げている。なにがなんだか解らない彼が、ぱくぱくと金魚のように口を開いたま ま絶句していると、男はやはりあくまでも恭しく顔を上げ、薄い唇を開いた。 そして男は、言った。 「マサムネサマ」 それが自分の名前として男の口から出たのではないかと彼が思ったのは、男がこちらを見上げてい たからという、それだけの理由に過ぎない。その名前はもちろん彼の名前ではなかった。おそらくサ マは「様」だろうが、彼の名前はどう読み違えても「マサムネ」にはなりようがなかった。 マサムネサマ。 男がまた他人の名前で彼を呼んだ。 コジュウロウにございます、と男は言う。そしてまた、頭を下げた。男が名乗った名前も、さっき の名刺に書いてる名前とは別の名前だった。なんなんだ。彼は男の顔を見下ろしながら激しく混乱し ていた。人違いだろうか。でも人違いにしてはあんまり断定的な口調だ。男はまったく言いよどむこ とも迷うこともなく、他人の名前で彼を呼んでいるので、人違いという些細な問題ではないように思 えた。どちらかといえば、それは外部の問題ではなく内部の問題であるように思えた。つまりそれは 単なるミスなのではなく、目、あるいは頭の異常であるように、彼には思えてならなかった。 要するに、彼には目の前の男が狂っているとしか思えなかった。 あまりの不気味さに一歩後ずさると、男がまた顔を上げた。 「長きに渡る無沙汰に、さぞやお怒りであられましょう。しかしマサムネサマにあられましては、お 変わりもなくご健勝であられたこと、心よりこのコジュウロウ、安堵する思いにございますれば、」 ふと、男の口上が途絶える。 なにかと思っておそるおそる男の顔を覗き込むと、切れ長の目のまなじりからはらはらと大粒の涙 が絶え間なくこぼれている。 男は泣いているのだった。 しかも、それを彼がまじまじと凝視していることに気付くと、あろうことか男はすこし照れるよう に、目元の涙を拭う仕草さえしたのだ。 そして言った。 「四百年ぶりにまたお会い出来たこと、心より嬉しうございます」 彼は、背筋を何かが駆け登っていくのを感じて、ぞっとした。 それは言葉で表現するならば、異物に対する圧倒的な「恐怖」以外のなにものでもなかった。 「――It,s so Crazy!」 悲鳴のように怒鳴ったところで、がちゃりと背後のドアが開いた。 |