Meinen schon Liebchen 「キョン遅い」 不機嫌な団長のつぶやきが五回を数えてから、古泉一樹は無言で立ち上がった。 そしてにこりと笑い、僕が探してきましょう、と涼宮ハルヒにではなく部室全体に向かって言う。ハルヒの大きな目 がくるりと回って、そうねそうしてちょうだい古泉くん、と多少明るくなった声が響く。ひびの入りかけたガラスの グラスのような空気がからりと変わる。朝比奈みくるがその空気を安堵したように吸い込んで、ふわりと笑ってお願 いします、と頭を下げる。薄茶色の髪がそれに合わせて揺れた。 「では行って参ります」 パイプ椅子を机の下に押し込んでいると、後ろの長門有希が、 「焼却炉」 ぽつりと言った。 古泉はすこし首を傾げて、それからまたにこりと笑う。 ひょいと腰を折って、長門にちいさく頭を下げて、ありがとうございます、と言う。本のページに落ちていた大きな 灰色の目が、ふいと上がってひたりと古泉の顔に焦点を合わせる。長門はしばらくそのまま黙って、それからちいさ な、ほとんど聞こえない程度の音量で、 「あまり、急がないで」 と言った。 古泉はすこし目を見開いた。 なにが。どうして。そういう問いを向ける前に灰色のガラス玉はまた本のページに落ちてしまった。すこし考えてか ら古泉はひょいと肩を上げてドアに向かう。かたん、と開けて、かたん、と閉める。 廊下にはしぃん、と沈黙が散らばっている。歩き出すと、ゴム製の上履きの底が、きゅきゅ、と耳障りな音を立てた。 しょうきゃくろ。長門の言葉に従って古泉は階段を下りて、靴を履き替えて焼却炉へ向かった。 校舎の角を曲がれば焼却炉、というところまで来て、あまり急がないほうがいいと言う長門の言葉がふいと浮かんで、 古泉は一歩踏み出そうとする足をすこし考えてから引いた。 話し声が聞こえる。 「――――――き合って、くれない、かな」 女の声がした。 おや、と古泉は口元に手を当てる。 校舎に背を当てて、すこし顔を覗かせる。見慣れた後ろ姿と、見慣れない女子生徒の俯いた顔が視界に飛び込んできた。 短い襟足が風で揺れている。ああ、とかうう、とか不明瞭な声がこぼれているのに古泉はこっそりくすりと笑った。 告白現場、なのだろう。覗き見の趣味があるわけではないけれど、興味がないと言えば嘘になる。 キョンは襟足を弄ったり、肩を無意味に叩いたりしてから、ちいさな声でごめん、と言った。 「ああ―――っと、ん、悪いけど」 「駄目なの」 「ん、ごめんな」 「彼女とか、居るんだ」 女子生徒のほうはすこし泣きそうな声になっている。 古泉は腕を組んで、これはなかなか彼も罪な男だな、と胸のなかでつぶやいた。部室のなかを顧みても、意外に異性か ら好意を向けられるタイプなのかもしれない。古泉は容姿から不特定多数の異性に好かれることは多い。きっとキョン はそれとはちがうが、クラスのなかでひとり、ふたり、ひっそりとおもいを向けられるタイプなのだろう、と古泉はな んとなく思った。なんとなくわかる、とも思った。 キョンは困ったように、そんないいもん居ねえよ、と笑っている。 「じゃあ、すきなひとは、居るの」 それだけでいいから教えて。 なかなか女子生徒も粘る。古泉はキョンに多少同情を寄せながら、それでもその前より聞くことに集中を寄せた。すき なひと。キョンはまた困ったように頭を掻いてそれから、 居る、と言った。 古泉はひく、と肩を揺らす。 「居るんだ」 「ん、まぁ、そんな大層なもんでもねえけど」 「でも、すきなんでしょ」 「――――――ま、あ」 のろのろと頷いたキョンに、女子生徒がくすりと笑う。 美人なの、とまた聞く声は先ほどより多少は張りを取り戻していた。 キョンはどうでもいいだろ、と困ったような、多少苛立っているような声で返す。いいじゃない、と女子生徒が言う。 キョンはしばらく不明瞭な声で唸っていたけれども、そのうちに深く息を吐いて、 「まあ――――――どっちかと言うと、美人なんじゃねえの」 とすこしだけ笑って言った。 女子生徒がのろけてる、と笑う。 言わせたのはそっちだろ、とキョンが拗ねたように返した。 古泉は口元に当てていた手をゆるゆると下ろして、それから踵を返してその場を去った。大股で昇降口まで向かい、靴 を履き替えて部室まで急ぐ。そのままドアの横の壁に背中をもたれさせて、天井を仰いだ。 薄い夏服を通して、ひんやりとした壁の感触が皮膚に伝わってくる。 「そうですか」 居るんですね。 ちいさくつぶやく。 キョンには、すきなひとが居る。 しかも美人な。 朝比奈みくるの顔がふいと浮かんだ。 どうかな、と首を傾げる。たしかに憧れているようには見えるけれども、恋愛感情とはちがうような気が―――すくな くとも古泉はしていた。涼宮ハルヒの顔と長門有希の顔も浮かんできたが、どちらも釈然としない。ただ古泉が知って いるキョンは部室の、放課後の間の彼でしかないので、それ以外の交友関係はひとかけらも知らない。 さっきの女子生徒の顔も、古泉はちっとも知らなかった。 もしかしたらそのなかに、居るのかもしれない。 どちらかと言えば美人な、キョンのすきなひとが居るのかもしれない。 「おい、おまえ何してんの、そんなとこで」 声がかかって、古泉は浮遊させていた思考をふいと体の中に入れ込んだ。 キョンが呆れたような顔でこちらを見ている。古泉はにこりと笑った。 「あなたを探しに行っていたのですが、見つからなかったのでね。 不首尾なまま舞い戻って涼宮さんの機嫌を損ねる覚悟をするまで、ここで佇んでいたというわけです」 「苦労するね、副団長殿」 キョンははん、と鼻を鳴らして、ドアを開く。 遅いわ、というハルヒの怒声が部室を鳴らしたが、古泉の鼓膜に届く前に途切れた。 性器をさすると、つう、と流れるように不思議な感覚が脊椎を昇っていく。 誰かの手でさすられると殊更にそれは大きくなる。それは、誰か、の手であればどれでも構わないのだろうと古泉は思 う。目の前の同級生の顔がその感覚で赤くなり、苦しげにひそめられた眉が痛々しげに歪んでいるのを眺めながらつん と鼻先が痛くなる感覚に古泉はちらりと笑った。 起ち上がった性器の先端を撫でると、キョンがちいさく声をあげる。 「ぃ、あ――――――ァッ」 生暖かい感触が古泉の手を濡らした。 は、は、と短い呼吸を繰り返すキョンを眺めながら、古泉は傍らに置いてあったボックスティッシュからティッシュを 取り出して手を拭う。そうしているとキョンの手がのろのろと伸びてきて、古泉の制服のズボンのジッパーにかかった。 じい、とそれが下りる金属音が鼓膜を揺らす。 ためらうようにキョンの手はしばらくそこで止まって、それから下着のなかに潜り込む。 「ふ、ぅ」 古泉は息を吐いた。 キョンの手がゆるゆると古泉の性器を撫で上げている。 下着が完全に下ろされ、起ち上がった性器が顕わになる。こくりと喉を鳴らす音がした。古泉は目を細めて、目の前で 拙いながらも自分の性器を撫でているキョンをじいと凝視する。達したばかりでうっすらと赤い顔と、引き結ばれた口 元を見ると、こめかみの部分がきぃんと鳴っているような感触に襲われた。上手ですね、と言うとキョンの眉が寄った。 「おまえ、こういうときは黙ってろよ」 「すいません、つい」 笑うと、悔しそうにキョンが舌打ちをする。 性器をこする速度が速くなる。古泉は目を瞑った。自分の性器がキョンの手と擦れて、くちゅくちゅと水音を立ててい る。口元が緩んでいるのが解る。笑うな、とキョンが切羽詰まった声で言っているのが遠く聞こえる。 ぐい、と先端を押されてか細い声と一緒に古泉は達した。 「ぅ、わ」 キョンが焦った声を出す。 浮遊感にふわふわと頭を揺らしていた古泉は目を閉じたままどうしました、と聞いた。 「濡れた」 「―――は」 「おまえので、俺の制服が」 不機嫌な声でキョンは言う。 目を開くと、しろい液体がキョンの制服のズボンにかかっていた。 おや、と古泉はつぶやく。おやじゃねえよとキョンは古泉の頭を叩いた。 「どうすんだこれ」 「クリーニング代はお払いしますよ」 「当たり前だ。おまえの家で出せよ。俺はこの制服のしろい汚れの理由を親に聞かれて答える術を持たん」 キョンは呆れたように言って、それから手をティッシュで拭いた。 ああまったくふざけんな。どうしてくれんだちくしょう。キョンは続けざまに言葉をつづりながら下着を上げ、ズボン を脱いで代わりに後ろのタンスからチノパンを出してそれを穿いた。古泉のそれは股下が多少長いので、裾を折り上げ ている。その間もキョンはずっと喋っている。 「おまえ溜めすぎだ」 「そうでしょうか」 「俺とちがって勢いがすげえよ。もうちょっと慎ましくしてくれ」 こういう行為の後、キョンはいつもの倍以上よく喋る。 場が保たないのだろうと古泉は理解している。それではお茶でも出しましょうか、と言うとキョンはようやく安心した ようにそうしてくれ、といつもの速度に戻った口調で言う。多少漂う甘ったるい雰囲気に耐えられないらしい同級生は 古泉が普段どおりに振る舞うと途端に安堵する。 古泉はそういうキョンを見る度に、これはちがう、と思う。 これは、ちがう。そう言い聞かせる。ティーポットに茶葉を落とし、お湯を注ぎながら古泉は自分の顔に手をやった。 口元をなぞると口角があがる。瞼に指を置くとふいと細まる。紅茶のかおりが狭いキッチンにひろまった。 古泉とキョンがこういう行為をするようになってから二月近く経つ。切っ掛けはなんということもないことだった。覚 えてすらいない。キョンもそうだろう。たまたまそういう気分だから、たまたまそこに居た相手とそういうことをした。 つまりそれだけのことだ。すくなくとも、キョンにとってはそういうことだったのだと思う。 「ミルクはお入れになりますか」 「いい。そのまま頼む」 「クッキーでいいですか、お茶請けは」 「おお」 キッチンから顔を出して、古泉はキョンを眺める。 カーペットの上に座り込んだキョンは、携帯を弄っている。弄っているが、指が動いていないところを見ると特にメー ルかなにかをしているわけではない。居たたまれないのだろう。古泉はちらりと笑ってまたキッチンに戻った。 キョンはいつまで経ってもふたりきりで居るとすこし緊張している。古泉はそれを見ると、胸の下あたりがくるくると 旋回して、それがこみ上げてきて頭が痛くなるような気がする。 古泉はキョンがすきだ。 とてもすきだ、と思う。 ただキョンがそうではないことも知っているので、あまりそれを前に出してはいけないといつも気を付けている。 都合がよく自分のきもちいいことに付き合ってくれる相手。それでいい、と思う。そういう相手としてたまたま自分が 選ばれた――――――偶然であるにせよ――――――ことはとてもしあわせなことだ。それ以上など望もうとも思わな い。透明なティーポットのなかの紅茶が、きれいな焦げ茶色に染まる。古泉は取っ手を掴んでそれを氷の入ったグラス にこぽこぽと注いだ。トレイにグラスをふたつ置き、棚から取り出したクッキーを並べてキッチンを出た。 キョンはテレビを見ながらベッドにソファに座らずにそれに寄りかかっている。 「お待たせしました」 「うん」 「何見てるんですか」 「ドラマの再放送。妹のやつがすきでさぁ、何度も見るからすげえ覚えてる」 すこし笑いながらキョンはグラスに手を伸ばした。 古泉はソファに座って、キョンの妹がすきだというドラマが映っている液晶画面を眺める。キョンも何度も見たという それを、脳裏に焼き付けるようにじいと凝視する。キョンが笑った。 「そんなに面白くもねえぞ」 「そうですか。なかなか興味深いですよ」 「これヒロインが間抜けなんだよなあ。すげえ鈍くてさ、見ててありえんだろうと何度も思ったぜ」 「ドラマとは得てしてそういうものになりますからね。そもそもそうでなければ成立しない場合が多い。現実では有り 得ないほどに物事に対して鈍感だからこそ共感も得やすいのではないですか。馬鹿な子ほど可愛いと言いますしね」 「そんなもんか。俺は苛々する」 「これは手厳しい」 古泉はくすりと笑って、グラスをからんと鳴らした。 ドラマをなんとなく眺めているキョンの頭の天辺を眺めながら、古泉はふと、 「あなたの思い人も、有り得ない程に鈍感なんですか」 と聞こうと思って止めた。 代わりに傾けたグラスの底の氷がころころと落ちてきて、唇に当たってひやりと痛んだ。 次 |