10 変わらない距離 随分昔の夢を見た。 まだ高校生の頃の夢だ。御幸は高校三年生で、その日はちょうど青心寮を出る前夜だった。大分前か ら荷物は自宅に送っていたので自室に残っている私物はほとんどなく、妙にがらんとした部屋になん だか居たたまれなくなって御幸はグラウンドへ向かった。 ジャケットだけ上に羽織っても、やはり冬のグラウンドは寒かった。 星がいやにぴかぴかとひかっている。新月だったので月はなかった。風が強いのでますます寒い。首 を竦めて御幸は空を見上げる。この空を何度見上げたかなとふと数えようとしてみたけれども、そう 言えば空を見上げるなんてロマンチックなことは一度だってしたことはなかったと気付いた。 三年間はほんとうにあっという間で、終わってしまったらなんだか短い映画みたいだった。 御幸はすでにプロ入りが決まっている。きっとこれからの人生もあっという間に過ぎていくんだろう。 野球に関わっているならそれだけできっと自分の人生は面白いと御幸は決めているので、別段高校を 卒業するからといって感慨深くなることはないと思っていた。 けれども夜にひとりで見上げる空はとんでもなくきれいで、すこしだけ御幸はぼうっと立ち尽くした。 音なんてなにもない。星ばっかりだ。 そう思っていたら、急におかしな不協和音が聞こえてきた。 グランドを見渡すと、誰かがランニングをしているのがおぼろに見える。御幸は眼鏡の位置を整えて その影を凝視した。よく見るとその影は何かを引きずっていた。途端に影が誰かが解って、御幸は呆 れるようにひとつ笑い声をもらす。 「沢村」 声を張り上げると、向こう側にある影が動きを止めた。 「こんな時間になにやってんだ、おまえ」 「―――走り込みッスけど」 遅れて声が返ってくる。 御幸はポケットに手を突っ込んだまま肩を震わせた。 「三年になるってのに、おまえはどうしようもねえ馬鹿だなあ。大丈夫かよ、今年の青道。一回戦負 けもありうるな、こりゃ」 はっはっは、と独特の笑い声を夜空に響かせていたら、ずるずるとタイヤを転がしながら沢村英純が こちらに向かって走ってきた。 また何か喚くかと思って御幸は口角を上げる。 けれども正面まで来た沢村の顔はまったくの真顔だった。 「安心しろよ」 やけに静かな声で言う。 御幸は思わず笑みを引っ込めた。 「絶対ェに三年連続で甲子園行ってやる」 「―――へえ、でかく出たな」 「だってそうしなきゃ、先輩に申し訳ねえじゃん」 俺の代で連続記録絶やすわけにはいかねえだろ、と荒い息で沢村は言い切った。 御幸はにんまりと口角を上げて、まあ精々頑張れよ、と沢村の頭をぽんと叩いた。自分も成長した分 ひとつ下の後輩との距離は変わらないけれども、彼も二年分確かに大きくなった。 頭から手をどけるときに、ふと今年彼の球を捕るのは自分ではないのだと御幸は思った。風がつめた い。沢村の真っ直ぐな視線がいやに感傷をくすぐってくる。 これはちょっとあんまり得意じゃない雰囲気だな。 御幸はわざとらしくまた笑った。 「あんまり変な球投げンなよ。あんなの取れンの、世界中で俺しかいねえんだから」 からかったつもりなのに、沢村は顔を変えなかった。 季節外れの額の汗を拭いながら、知ってる、といやに神妙に頷く。 「俺の球取れンのはあんただけだ」 でもそれじゃ困るから、ちゃんと練習する。 あんた以外のミットにもきちんと収るようにボール投げる。 御幸は黙って沢村の言葉を聞いた。なんだかまずいなと御幸は内心でちいさく焦った。沢村の言葉を 聞けば聞くだけ、最初は蕾だった感傷が大きく大きく膨らんで、そろそろ花開いてしまいそうだ。さ っきまでやけに大きく見えた沢村はまたちいさく萎んで見えた。この後輩はいつもそうだ。ころころ ころころ態度が変わって、いつ見てもまったく飽きなくって疲れてたのしい。 そうか、と御幸は目を細める。 この後輩とも、もうお別れなのだ。 「さみしいな、なんか」 気付いたら言葉が口からこぼれていた。 弾かれたように沢村が顔を上げる。 「なにが?あんたが?なんで?」 「そんな畳みかけンなよ―――そりゃ、俺だってちょっとはさみしいに決まってンだろ」 「だからなにが?」 「そりゃ」 御幸はすこし迷ってから、「おまえのボール捕るのも終わりじゃん」とおどけるように首を竦めた。 「なんだよそれ」 沢村は眉を寄せた。 御幸は唇を尖らせて、なんだよ、と沢村のタイヤを転がしてやる。 「おまえ俺のことなんだと思ってンの。二年間おまえのあのわけ解ンねえ球捕ってたんだぞ。いろい ろ俺だってあるに決まってンだろ、感慨とか、感傷とか、―――まあそういうのも」 「―――意味わかんねえ」 「うっわ、マジむかつく」 思い切り頭を叩いてやる。 沢村は叫び声をあげて座り込んだ。そしてそのままなかなか立ち上がらない。打ち所が悪くてますま す馬鹿になったかと思って首を傾げると、唐突に顔が持ち上がってきたので御幸と沢村は思い切り互 いの額をぶつけて、ふたりそろってグラウンドにしゃがみ込んだ。 痛みに御幸が眉をひそめていたら、先に回復した沢村が立ち上がった。 「御幸先輩」 珍しい「先輩」呼びに、痛みに堪えながら顔を上げる。 そこで涙を浮かべた沢村の顔を見つけて、御幸はぎょっと目を丸めた。けれどもすぐに、沢村も痛み で涙が出たのだと気付いて逆に慌てた。 沢村は自分が涙を浮かべていることにも気付いていないようで、仁王立ちをして大声をあげる。 「俺、絶対にまたあんたに球捕ってもらう」 「はあ」 「いやむしろ捕らせる―――つうか捕れっ」 待ってろよ、と沢村は御幸の鼻先に指を突きつけた。 「俺は、そりゃあんたと違って天才でもねえし、降谷みてえに球速いわけでも、コントロールがある わけでもないけど、でも、絶対にプロになって、あんたとおんなじチームに入ってやる」 だからそんな顔してんじゃねえ、と沢村は怒鳴った。 御幸は思わず自分の顔をてのひらで撫でた。どんな顔だというのか、沢村は大層憤った顔をしていて、 御幸としては後輩とのきれいな別れの場面であったはずの星空の下での会話は、後輩当人にとっては とてつもなく不本意なものであることがその顔からうかがい知れた。 なんだよ馬鹿、と沢村は唇を戦慄かせながら言う。 「もう、もう俺のボール捕らないって、勝手に決めやがって―――ふざけんなよ」 ぽろぽろと大きな目から涙が落ちてくる。 沢村はそれにようやく気付いたようで、はっと顔を上げると乱暴に腕でそれを擦り、タイヤを引きず ったままもの凄いスピードで御幸の前から走り去ってしまった。 御幸はぼうとそのまま星空の下で弛緩するしかなかった。 目が覚めたあとも、しばらく御幸はぼんやりと天井を見上げたまま固まっていた。 たっぷり一分間天井と睨めっこをしてから、ようやく御幸はのろのろと覚醒した。枕元の携帯電話は アラームの鳴る三十分前で、更にそこに表示される日付で、御幸は現在の時刻と共に現在の時代感覚 を確認する。部屋を見渡す。所属するチームの寮は、豪華ではないけれどももちろん二人部屋ではな い。そして現在は高校卒業から五年経った、八月だ。 シーズンも大詰め、リーグ優勝もかかった大事な時期だ。 「―――なっつかしい夢見ちまったな」 瞼の裏にはまだ沢村の馬鹿げて大粒の涙がこびり付いている。 眼鏡をかけて、ベッドに腰掛け髪を掻く。結局あのあと、沢村とは一度も会わないまま現在に至って いる。宣言通りエースナンバーを背負って三年連続甲子園に進出した後輩と会いたくないわけはなか ったけれども、最後に泣かれてしまったことがなんだか気まずくて、避けていたら幸か不幸か会わず に済んでしまった。同級生にも後輩にも先輩にも会いに行かないのかと問い詰められたけれども、笑 って逃げてそれきりだ。 御幸は立ち上がり、伸びをしてから机に出しっぱなしになっているスコアブックに向かった。二軍も 含めたチームの情報が羅列してあるそれを眺めながら、ほうと息を吐く。 「俺もガキだったよなあ」 気まずかったのは嘘じゃない。 でもほんとうは、自分以外の捕手でもきちんとプレイできている後輩がすこし恨めしかった。 あんだけ泣いてたくせに、ちゃっかり甲子園行きやがって。正直なところ御幸は、最初に青道が甲子 園に行くと聞いたときにそう思った。なんだよ、俺のボール捕れるのは御幸だけってのはなんだった んだよ。そしてそう思った途端にとんでもなく焦った。 何考えてンの、俺。 沢村の馬鹿が移ったのだ、きっと。 そう考えて、それからはできるだけ沢村に近寄らないようにした。話はたまに耳に入ってきた。大学 野球で、それなりに活躍しているのは嫌でも聞こえてくるのだ。でもそれも、意識しなければそんな に気にはならなかった。御幸は御幸なりにプロでの生活に必死だった。意識しなくてもひとつ年下の おかしなボールを投げる後輩のことはすぐに日常に紛れてしまった。 そうして七年だ。 なんで今更あんな夢を見たんだろう? 御幸にはよく解らなかった。引退するチームメイトが居るわけでもないし、反対に自分にもしばらく チームを離れる予定はない。そんなことを考える切っ掛けのようなものはどこにもないように思えた。 スコアブックをぱらぱらと捲りながらぼんやりと考える。冷房はタイマーできっちりと切れていて室 内はとても暑かった。リモコンで改めて冷房を入れ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。 冷えたペットボトルの水を喉に流し込み、窓にかかったカーテンを開け放つ。すでに昇っている太陽 が痛いほどに目に突き刺さってきた。 痛いほどの夏に、後輩の顔を思い出す。 沢村英純。 そんな奴も居た。 なんで今更あんな夢を見たんだろう? なんだか体がいやにむず痒い。御幸はスコアブックを閉じた。なんでこんなに落ち着かない気分にな るんだろうか。 まったく解らない。 「―――『あんたとおんなじチームに入って』かあ」 かつての後輩の台詞をつぶやいてみた。 御幸は立ち上がり、私服に着替える。明日にはまた試合があるので、休みつつ軽い練習をするつもり だったけれども、こんなそわそわした気分では最悪ケガでもしかねない。御幸は私服を身にまとって、 車のキイをポケットに突っ込んで部屋を出た。 まさか、と思う。 万に一つも、それはない。 ああでも、あんな夢を選りに選って今日見るなんて。 「まさかなァ」 今日は球団の研修生テストがある。 ドラフトで育成枠にも引っかからなかった選手の入団テストだ。 普段なら気にも留めないようなイベントだけれども、今日のそのイベントは自分にとっても意味のあ るものに思えてならなかった。 だってあんなこと、昨日まで思い出しもしなかったのだ。 車に乗り込んでから、御幸ははたと気付いて監督に電話をかけた。コールの時間がいやに長く、そう いえばまだ午前六時であることを思い出した。けれども御幸は携帯を切らなかった。五分後、寝惚け た監督に文句と一緒に、テストを受ける選手の名前を御幸は告げられた。 笑いながら謝罪をして、御幸は携帯を切る。 そしてハンドルに顔を埋め、しばらく弛緩した。 「―――マジかよ」 口元がゆるむ。 信じられないけれどもどうやらこれは現実らしい。 御幸は一頻り顔をゆるめてから、キイを差し込んで車を発進させた。入団テストが始まるのは午前十 時からで、今から出発しても時間は有り余っていたけれども、とてもじゃないがじっとしていられる ような気分じゃない。 全身が痙攣するような感触がした。 沢村が来る。 沢村が来るのだ―――俺を追って! 「相変わらず最高に俺のツボだぜ、あの馬鹿」 サイドミラーに映る青空を見ていたら、なんだか涙が出そうになって、ああどうも俺は感動してンの かと御幸は驚いた。感動してるのだ。沢村が、あの馬鹿な後輩が自分を追ってきたことにぎょっとす るほど御幸は感動している。球場で沢村に会ったらまず謝ってやろうと御幸は決めた。ごめんな、お まえのボールもう捕れないとか言ってさ、あれ、撤回ってことでよろしく。 そして笑って、すこし低いところにある頭を叩いてやろう。 つうかおっせえんだよ。待ちくたびれた。 「待ってたよ、馬鹿」 そうだ、きっと自分は待っていたのだ。 またあのバッテリーの距離で、あの後輩と睨み合うのをずっと待っていた。 御幸はつんと痛む鼻をごまかすように大きく笑い声をあげて、ハンドルを切った。 おわり |