そのひとはべつに、それに似ていたとかでは全然ないしそれをあげたかったとかそんなことを思うような間柄でもな くて夜道にきらきらとひかるそれはたぶん 普段だったらすぐに見逃してしまった程度のものだったのに。 (ただ思い出しちゃった、あんまり) 香ったのだ。 死に直結する 睦 言 小十郎は体温が低い。 それを主の伊達政宗などはよく年だからだなどとからかってくるけれど、これは元来のものだと小十郎は知っている 。幼いころから、この奥州の身を切るような温度はいつだって小十郎にやさしくはなかった。 寒いのはきらいだ。小十郎は思う。だがそれを表に出すことはほとんどない。政宗がそれを知るのは、彼がおさない ころから小十郎を知るからで、伊達家の家老となってからの小十郎にそのような様子を見ることは政宗ももはや、な い。 弱いところなどない。片倉小十郎とはそう存在するべきであり、そしてなにより政宗にとってそうでなくてはなぬ。 痛いほどの冷たさも、そう思えばどうということもなかった。感じなければ、それは存在すらしないのだ。 だから小十郎は、いっしゅん言葉を失った。 「片倉の旦那って寒がりだよね」 なんということはない、というふうに。 猿飛佐助はそう言った。 小十郎は思わず布団に伏せていた顔をあげる。が、佐助はそもそも小十郎の顔すら見ていなかったようで、仰向けで 天井を見上げながらふあ、とひとつ欠伸などをしていた。いやにそれが鼻についたので小十郎は黙って佐助の赤毛を 一本引っこ抜く。いたいっひどいっと声があがった。 「なにすんのさ」 「うるせェ。てめぇが変なこと言うからだ」 「へんなこと?」 佐助が首を傾げる。 小十郎は黙ったまま、また顔を布団に伏せた。すこし体温から離していた布はすでに冷たくなっていて、それがひど く不愉快だ。なのでまた、小十郎は足の先で佐助の脛を蹴った。うつ伏せなのでその程度の威力しかないが、それで も佐助はまた声をあげる。 「暴力反対」 とさ、と小十郎の背中になにかが被さってくる。ぬるい温度にそれが人の肌だと知って、小十郎はどけ、と言った。 もちろん佐助はどかぬ。かえって体重をかけてきて、おかげで小十郎は布団のなかで窒息しかけた。 武田のしのびである佐助と、こんな関係になったのはいつだったかもう小十郎は覚えていない。どうでもいいことだ とも思う。佐助も小十郎も、おたがいにおたがいのなかで永劫に動かぬひかりがあることを知っていて、それで体を 合わせている。 その行為は男同士という以上に生産性がなく、不毛で、無意味で、それでいて気楽だ。 小十郎にとって性行為は子孫を残すためかそうでなければ劣情を晴らすためのものでしかなく、それ以上の感情をそ こに求めることはない。それ以上の感情はすべからく彼の主が持っていってしまって、だから小十郎はおのれでも驚 くほどにこの方面に関しては淡白かついい加減だった。それでも男とこういう関係になるつもりはなかったので多少 最初は戸惑ったが、そもそも佐助も小十郎と似たような男なので、ある意味で最高とも言える相手なのだとわかって からは小十郎はすべての思考を放棄していた。 顔を上げるとそこには佐助の顔があった。 睨み付ける。重い、と言うと佐助はおどけて俺のような柳腰を捕まえてなにを、などと言う。付き合っていられない 。佐助は気楽な相手だが、こういうふうにからかってきたりするところが面倒だ。 佐助は額を小十郎のそれに合わせながら問う。 「ねー」 「・・・なんだ」 「なに怒ってんの、旦那」 「怒ってなんかねぇ」 「うっそ。機嫌ちょう悪いじゃん。眉間のしわいつもの三割り増しだぜー?」 眉をひそめて小十郎の真似をする佐助を思い切り突き飛ばす。 おかげで掛け布団がはがれて冷たい空気が入り込んできた。襦袢一枚ではあまりに奥州の冬の夜は寒い。小十郎は佐 助に背を向けて布団にもぐりこむ。それでもまだ、冷たい空気に体がふるえる。 寒いのはきらいだ。 「寒いの嫌でしょ」 小十郎の思考と重なるように、佐助の声がふってきた。 見上げる。佐助はへらりと笑っている。 「湯たんぽの貸し出ししておりますが、おひとついかが?」 「・・・」 何も言わない小十郎に、佐助はそれを肯定と受け取ったらしく布団に潜り込んでくる。小十郎も止めない。佐助は体 温が高くて、夏は鬱陶しいが冬はとても便利な男だ。布団に入った佐助は小十郎の体にまきついてきて、ようやくそ れで小十郎の体のふるえは収まった。 (ぬくい男だ) とたんに、眠くなってくる。 夢に片足を突っ込みながら、小十郎はつらつらと思った。佐助に後ろから抱き込まれて(体格の都合上、どちらかと 言えば抱きつかれている感じだが)、ひどく暖かいけれど、しかし不思議なほどになんのにおいもしない。先ほどま での行為は当然だがたがいに汗をかいたはずなのに、体臭すらせぬとは。 声に出ていたらしい。 佐助が笑った。 「だって俺様、忍者だもん」 においなんかあったら、死ぬよ。 佐助の低い声が、耳元でひどくやさしく響いた。 小十郎はほとんど混濁するいっぽてまえの意識のなかで、そうか、とたぶん呟いた。佐助はにおいがない。彼の体に は傷すらない。大抵は朝起きると佐助はいなくなっていて、だから小十郎はいつももしかしたらこの男との行為は夢 ではないかしらと思う。 証がない。この男とそういう関係であるとは誰も知らぬ。たがいしか知らぬ。なのに小十郎は佐助のなにをも知るこ とがなく、たとえば明日佐助がこの関係を打ち止めにしたら、もはや猿飛佐助という男のかけらさえ小十郎には残ら ないのだろう。 (べつにいいけどよ) どこまでも、気に入らない男だと思った。 においすら、小十郎には渡せぬと言うのだ。 「俺が寒がりだって知ってやがるくせにな」 眠い。 なので、小十郎はもう何を言っているかもよく分からない。 ただ、ひどく不平等だと思った。小十郎が体温が低いことを知っているのは政宗と佐助だけで、なのに小十郎は佐助 のことを、においすら、知ることがない。 阿呆、と言ったと思う。 あるいはその前に眠ってしまったかもしれない。 意識を手放すいっしゅんまえに、 「あんた俺に死ねって言うの?」 と苦く笑う佐助の声が聞こえた気がした。 ふわん、と香りが小十郎を包んだ。 小十郎はぱちくりと瞬きをする。するが、目の前の風景は変わらない。 朝起きたら、座敷中に水仙の花が山のように積まれていた。 なんだこれは、と首を傾げる。むせるようなにおいだ。思わず眉を潜める。それから天井を見上げ、おい、と低く声 をかける。 「こらァ、どういうことだ」 かたん、と音をたてて天井の板が一枚剥がされる。 ひょこん、と佐助が顔を出した。 「あ、ばれた」 「おまえ以外にこんな阿呆なことするやつが何処にいる」 「阿呆なんて。夜中かかって運んだのにひどい」 佐助はえーん、と泣き真似をする。両手を離しているのになぜぶら下がっていられるのか不思議に思ったがそれはど うでもいい。降りてこい、と言っても佐助は笑うだけだ。考えてみなくても、佐助が朝になってまでこの座敷にいた ことはない。今こうやって顔を見合わせているのだってはじめてのことだ。 佐助の顔が朝日に照らされている。小十郎よりはるかに色の白い肌は、ふだん太陽に当たらないからだろうか。 諦めて小十郎はひとつ息をはき、それからなんで水仙だ、と問う。そうすると佐助はへら、と笑って、 「いいにおいでしょう」 と言う。 わけがわからない。 小十郎のそういう顔に、佐助は笑みを浮かべたまま、見てよ、とぶらんと腕を垂らした。いつもは手甲をまとってい るそこは、今日はなぜだか生身でしかも晒しが巻かれている。 小十郎は目をすこし見開いた。佐助はただ笑う。 「これを」 佐助が水仙を見る。 運ぶときにね、見つかっちゃったんだよね。 「おたくの番兵に」 「・・・・・・馬鹿じゃねぇのか」 「うん」 そうだね、と佐助は笑う。 それから、あげる、と言った。小十郎は黙って逆さづりの佐助を見る。体を這い上がってくるような芳香はほとんど 不愉快なほどで、だからいらねぇよと言ってやる。佐助は困ったように笑う。 「でもさー」 「なんだ」 「俺ね、これ見たときにあげたいと思ったんだよ、あんたに」 だから貰って。 佐助はそう言って、またひょこんと天井に戻った。かたんと天井の板がはまる音がする。 それで、帰ったのだと知る。 小十郎は座敷を見渡した。冗談のように水仙ばかりだ。 息をはいて、それから立ち上がってふと目を布団に落とす。そこにはひとつぶの赤い痕が残っていて、真新しいそれ が血痕だということにしばらく経ってから小十郎は気づいた。 佐助の血だろう、と思う。 水仙は結局女房たちに城のそこかしこに挿させることにした。飯炊き場にも政務室にも大広間にも、その日小十郎が 行った場所でそのにおいをかがなかった場所はない。うっとうしいな、と思う。 においが後ろからついてきて、離れないような気がしてうんざりする。布団についてしまった血は、洗ってもとれな くて醜く茶色い痕を残しているし、小十郎の寝所にはもう花はないのにそのにおいだけこびり付いて眠ろうと目を閉 じても気になって仕方ない。 (大変なことだ) あのしのびのにおいではないけれど。 痕跡が残るだけで、なんて不都合が多いんだろう。 今度佐助が来たら、と思う。言ってやらなければいけない。もうにおいのことなど言わぬから、金輪際このようなこ とはするなと言わねばならぬ。においを持つことはしのびにとっては死を意味するらしいが、 それこそ。 佐助の痕がこんなに残っている。 小十郎は残る水仙のにおいに耐えながら、思う。 ひとりで潜り込む布団のなかみは、いつまでたっても冷たいままだ。 (窒息しそうだ) 「・・・旦那、それ、すっげー殺し文句」 何日か後にやってきた佐助に言ってやったら佐助はそう言って息を吐いた。 その様子があんまり困り切ったふうだったので、何故だかはわからなかったが小十郎は満足した。小十郎だってとて も困ったのだから、佐助も同じように困るべきだろう。 小十郎は思う。 においはいらない。それくらいがたぶん、丁度いい。 「思い出したら寒くなっちまう」 そう言ったら佐助がすこし困ったように笑いながら手を握ってくる。 相変わらずぬくいその温度に、小十郎はやはりとても、 満足した。 おわり |