泡 に な れ な い 祈 り の 音 ある海に、人魚の集落がありました。 その海は伊達政宗という人魚が統制していて、とても穏やかな、よい集落でした。ただこの政宗という人魚がすこし困っ た人魚で、好奇心が旺盛なためにすぐに集落を抜け出しては、色々な場所に勝手に泳いでいってしまうのです。お目付役 の片倉小十郎はそのたび眉間に皺を寄せつつ小言を言うのですが、政宗には一切効きません。 ある日、海の上で嵐が起きました。 人魚たちは深海に居ればそれほど影響はありません。荒れ狂う海面の音は聞こえてきますが、それはほとんど子守歌にも 似ておだやかな、ただの音楽でしかありませんでした。小十郎が自分の洞穴で体を休めていると、すいすいとそこへ政宗 が泳いできます。 「小十郎、難破したShipを見に行きてェ」 きらきらと目を輝かせつつ、政宗は言います。 小十郎は眉を寄せました。ただでさえ海面に顔を出すのは危険です。人間に見つかれば見せ物にされてしまうでしょう。 まして今は嵐の最中、とてもたいせつな政宗をそんな場所へは行かせられません。小十郎がそう言うと、政宗は不満げな 顔をしましたが渋々承諾しました。 ように思えました。 しばらくして小十郎が政宗を探すと、集落の何処にも政宗の姿はありませんでした。 小十郎は全速力で海面に向かいます。 「・・・・あのお方は!」 舌打ちをしつつ顔を海の上に出した小十郎は、またすぐに顔を引っ込めました。嵐は予想以上にひどく、強い風と雨でと ても顔を出しておくことは出来ません。政宗を探しながら、ふと小十郎は視線をあるものに止めます。大きな、とても大 きな船がゆっくりゆっくり海へと沈んでいくのが見えました。どうやら政宗を探している間に嵐は止んだようで、海面か ら差し込んでいる月のひかりが、船を照らし出しています。きらきら、きらきらと、ひかりがまるで降るようでした。 小十郎はその難破船に近寄ります。 政宗は難破船を見たいと言っていました。ならば此処に居ることも十分に考えられます。すいすいと難破船の中へ泳いで いくと、案の定政宗は難破船の中でごそごそといろいろな物を物色していました。 「政宗様」 「げ。小十郎」 「げ、ではございません。さ、見つけたからには帰ってもらいますよ」 小十郎のことばに、政宗は息を吐いて手をあげました。 小十郎と政宗は難破船を出ます。政宗のあとを追って泳いでいた小十郎は、ふと振り返りました。きらきらひかる難破船 はひどくうつくしく、小十郎はそれをまた見たくなったのです。振り返ると、船は完全に沈んでいました。海の底の砂が 舞い上がって、まるで白い霧に船が包まれたように見えます。 「あ」 小十郎は声を漏らします。 沈んだ船のはるか上に、ふわふわと何かが浮いていました。ひかりに照らされたそれは、ひと、のようでした。不思議そ うに小十郎を振り返る政宗を先に集落へと帰し、小十郎は浮かんでいるそれの元へ泳ぎます。 やはりそれは人で、赤い髪がさらさらと水で揺れて鮮やかな男でした。小十郎はそれを抱えて海面に顔を出しました。耳 を口元に寄せると、まだ息があります。少々面倒だとは思いましたが、小十郎は浜辺へ男を連れて行きました。岩に男の 体を横たえ、ぺしぺしと二三度ほおを叩きます。 「おい、起きろ」 男はちいさく呻きました。 そして男の目がゆるゆると開きます。小十郎はそれをじいと覗き込みました。男の目は、髪とおなじ濃い赤でした。血 のようです。男は目を開き終わると、体をゆっくりと起こし、それから頭を振りました。起きたか、と小十郎が言うと、 ようやく小十郎の存在に気づいたらしい男は目を丸く見開きます。 「・・・あんた、誰」 「別に名乗るほどの者じゃねェ。大丈夫か」 「え、ああ。うん」 まだぼんやりしているようでしたが、小十郎の言葉に男は頷きます。 小十郎はしばらく男を観察していましたが、平気だと判断すると体を海に沈ませようとしました。ですが、腕をがしりと 起き上がった男に掴まれ、かないません。小十郎は顔を上げ、怪訝さに歪ませますが、男は構わず話しかけてきました。 「ねえ」 「・・・なんだ」 「あんたが、助けてくれたの」 男はにこりと人懐こく笑います。 小十郎は無視をしようかとも思いましたが、とりあえず黙って頷きました。男はありがとう、と頭を下げながら、 「あんた人魚だね」 と言いました。 小十郎は頷きました。特に知られたからといってどうということもありません。男はひとりでした。複数ならば捕らえら る可能性もありますが、単純に知られただけならば集落は海の底深くで、たとえ近くに人魚が居ると人間が知ったところ で、捕らえに来ることなどできないからです。男は嬉しそうにしげしげと小十郎を眺めます。 その好奇の視線に、小十郎は顔をしかめました。見せ物になるのはすきではありません。 男の手を振り払って海へ潜ります。 「あ」 男の声が、後ろから降ってきました。 ざぱんと海へ身を投じた小十郎は、いちど振り返りました。男が海面に向かってなにか言っています。猿飛佐助。小十郎 は首を傾げました。それが俺の名前だから、と男は言います。さるとびさすけ。それは小十郎にとってはなんの意味も持 たない文字の羅列でしかありませんでした。小十郎は二度と男と会うつもりはなく、また男が会おうと思ってもそれは決 してかなわぬことだからです。 小十郎は集落に戻りました。 男のことは、すぐに忘れてしまうだろうと思いました。 「人魚さんお久しぶり」 「・・・・永久に久しくて良かったんだが」 三日後。 小十郎の前にはにやにやと顔を緩ませる男ーーー猿飛佐助が居ました。正確に言えば政宗を例の如く追いかけていった小 十郎を佐助は網ですくって捕らえたのでした。今回政宗が逃亡したのは、大きな貿易船が出港するという噂を聞いたから でした。船に近寄ろうとする政宗を止めようとする小十郎は、船から網を投げかけられ捕まえられてしまったのです。 今小十郎の前に居る佐助はひらひらと鬱陶しそうな服をまとっています。聞いていないのに佐助が語ったところによれば 、その貿易船は佐助の持ち物だということでした。 「だってあんた、俺にお礼も言わせないんだもの」 ほおづえをつきながら、佐助はにこにこと笑います。 小十郎は不快げに顔を歪めました。網から解放された小十郎は、最初に会った岩場で佐助と話しています。 「・・・それで船動かしたってか」 「人魚は好奇心旺盛だって聞くからねえ。もーう、この後あれどこに動かせばいいのかね。 あのひとたちどこ行くんだろう。あんた知ってる?」 「知るか」 「俺も知らない」 佐助は肩をひょいとすくめます。 小十郎は呆れて息を吐きました。政宗はこのような目に合ってないとよいのですが。 落ち着かない小十郎に、佐助は不満げにほおを膨らませました。ぐい、と小十郎のほおを掴んで引き寄せます。 「せーっかく俺が此処に居るのに、あんた何処見てんのさ」 「・・・てめェその手を今すぐ離せ」 「やーですー」 佐助はにこにこと笑ったまま、小十郎のほおから手を離しません。 佐助のてのひらはひどく熱くて、その温度が不愉快でした。小十郎は黙って顔をしかめます。佐助は商人のようでした。 ならば、こんなふうに小十郎に執着するのはきっと見せ物にするためでしょう。捕まったのが政宗でないのは幸いでした が、できれば自分だってそんな目には合いたくありません。そう言うと、佐助は眉を下げます。 「ひどいこと言うねえ」 そんなつもりじゃあないのに。 佐助の顔は、ひどくかなしげに見えました。小十郎はではなんの為に自分を捕らえたのかと聞きました。佐助は答えます。 だからさ、あんたにお礼を言いたかったんだ。 「ありがとう。助けてくれて」 「・・・別に」 「ほんとに助かった。だって俺、死んじゃ駄目なんだ」 佐助は変なことを言いました。 死んでいい生き物など居ません。好んで死ぬ者も居ないでしょう。小十郎がそう言うと、佐助はちいさく笑って、でも俺 はそのなかでも絶対に死んじゃ駄目なんだと言います。待ってる人が居るから、と佐助はうっとりと言いました。ふうん と小十郎は鼻を鳴らします。なんとなくですが、わかるような気がしました。 政宗の顔がふわりと浮かんで、消えます。 それに、と佐助は更に続けます。 「あんた、きれいだから」 「・・・あァ?」 「あんた凄いきれい」 すう、と佐助の手が小十郎のほおに伸びました。 左のほおにある傷で佐助の指は止まります。これはなんでついたの、と問われたので、政宗がちいさい頃人に攫われそう になるのを助けてついたのだと言いました。佐助の指が肩に落ちます。そこにもまた、大きな傷がありました。 小十郎の体は、傷のない部分の方がすくないほど全身に傷跡がついています。きれい。小十郎は首を傾げます。とてもで はありませんが、きれいなどという形容詞は小十郎の体に相応しくありません。 けれど佐助は、やはりうっとりと言うのです。きれいだねえ。 「あんたのはどれもこれも、誰かを守ってついた傷でしょ」 「だからなんだ」 「俺こんなにきれいな体は初めて見た」 「・・・そりゃあ」 よかったな、と小十郎は言います。すこし、戸惑いました。 男はひどくしあわせそうな顔をしています。その理由が小十郎にはすこしもわかりませんでした。また会いたいな、と佐 助は言いました。小十郎は黙ったまま、ただ佐助を見ます。会えるかな、と佐助は続けます。小十郎には応えることばが 見つかりませんでした。逃げ出してもよいのでしょうか。佐助は小十郎を捕らえたくせに、すぐに解放して、今すぐにだ って小十郎は佐助の前から去ることが出来るのです。だからこそ、小十郎はそれをすることが出来ませんでした。 にこにことこちらを見る佐助に、とうとう諦めた小十郎は息を吐き、 「新月の夜なら」 と言いました。 佐助はへらりと、やはりひどくしあわせそうに笑いました。 新月には人魚たちはみな、すぐに眠りに就きます。 月の無い夜に動くのは危険だからです。だからその日だけは、政宗も逃げ出すことなく大人しく洞穴で眠っています。政 宗が眠ったのを確認すると、小十郎は海面へと泳ぎだしました。いつもの岩場へ行くと、そこには既に佐助が座り込んで 小十郎を待っています。佐助は小十郎を見るとへらりと笑います。 「こんばんはー」 小十郎はそれに返事はしません。 佐助も別段それを気にしたふうもなく、見て見て、と楽しげに小十郎の前になにやら大きなものをどんと置きました。 それは大きな水槽でした。小十郎は怪訝な目で佐助を伺います。にい、と佐助は目を細め、 「人魚さん、此処に入るつもりない?」 と聞きました。 小十郎は目を細め、それから尾ひれを思い切り水面に叩きつけました。水が跳ねます。 佐助の服はびしょびしょになりました。冷たいっ、と佐助は呻きます。それはそうです。季節は冬真っ盛りでした。びしょ びしょになった佐助はそれでも、もっと大きいほうがいいかと懲りずに聞いてきます。そういう問題ではありません。 理由を問うと、今度この国では大きなお祭りがあるということでした。花火がね、と佐助は言います。俺がね、とおい国 から持ってきた花火が打ち上がるんだよ。 「あんたにも見て欲しいな」 「悪ィが興味がない」 政宗なら見たがるかもしれません。 興味が無さそうな小十郎に、それでも佐助は楽しげに話します。お祭りでは色々な国の色々な出し物がおこなわれること。 きらびやかな衣装を着た女たちが舞うこと。貴族も民衆も一緒になって騒ぐこと。そしてなにより佐助の顔が輝くのは、 その国の王子のことを話すときでした。そりゃあ立派な王子なんだ。佐助は言います。ちょっとあほだけど、民思いのい い領主になると思うよ。小十郎は黙って佐助のはなしを聞きます。佐助を待っている人とは、たぶんその王子なんだろう と小十郎は思いましたが、言いませんでした。 水槽は持って帰れよ、と小十郎は念を押しました。佐助は残念そうに眉を下げます。 「来て欲しいのに」 「俺に見せ物になれとでも」 「俺の屋敷に来ればいいじゃない。そうしたら誰も見ないよ。バルコニーから花火だけ見ればいい」 「御免被る」 佐助が差しのばした手を、小十郎は振り払いました。 佐助はいっしゅん目を見開き、それから困ったように笑みの形に歪めました。ごめんね、と言います。無理強いをするつ もりはねーんだけど、と言う佐助を小十郎は見上げます。ぽたぽたとさっきかかった水が髪の先からこぼれ落ちていて、 ひどく寒々しく見えました。帰れよ、と小十郎は言います。風邪を引く。 佐助はすこし笑って、やさしいね人魚さん、と言いました。 お祭りの日は、海の中からでもよく解りました。 政宗はしきりに顔を出したいと騒ぎます。もちろん小十郎はそれを許しません。 佐助の話を聞いたいた小十郎は、そのお祭りにたくさんの人間が来ることを知っていました。だからこそ、政宗には決し て行かせるわけにはいかないのです。拗ねた政宗は不貞寝をしてしまいました。小十郎は安堵の息をそっと吐きます。 海面を見上げます。そこは真っ暗でした。今日は新月なので、月のひかりは一切差し込んできません。 小十郎は迷いました。 新月です。いつもならば佐助と岩場で話す日ですが、今日はお祭り。あれだけ楽しそうに話していたのだから、もちろん 佐助だって参加するでしょう。きっと岩場には来ないだろう、と小十郎は思いました。岩場は町からは離れていますが、 それでも今日はいつもよりは人間に見つかる危険性が高いでしょう。大したことではありませんが、それでも好奇の視線 に晒されるのは歓迎すべきことではありません。 行かなくてもいい、と思いました。思いましたが、小十郎は結局岩場へと向かいます。佐助は居ないでしょう。でももし 居たら、きっとあの馬鹿な男はずうっと小十郎を待つかもしれません。すぐに行って、そしてとっととお祭りに行くよう に言ってやろうと小十郎は思いました。 ざぱん、と音を立てて海面に顔を出します。 やはりそこに佐助は居ました。 小十郎は呆れて声をかけます。佐助は顔をあげ、ぱあ、とおひさまのように笑いました。とっととお祭りに行けと言おう としたら、そのまえに佐助がまくし立てるので小十郎はことばを紡ぐ切っ掛けを失いました。佐助は言います。すごい場 所を見つけちゃった、とにこにこと言います。 岩場には小舟が着けられていました。佐助はそれに乗って、小十郎についてくるように言います。首を傾げながら小十郎 はその船の後を泳ぎました。しばらく行くと、浜辺に出ました。佐助はそこで船を止めます。此処がどうしたと問うてく る小十郎に、佐助は黙って空を指さしました。 その指を追って、小十郎も視線をあげます。 ひゅーるるるるるーーーーーーーーーーーーーーーーーどんっ 思わず小十郎は目を閉じました。 佐助の笑い声が降ってきます。どう、と船の上に立った佐助は聞きました。ゆるゆると目を開くと、大きく開いた花のよ うなひかりが真っ暗な闇に咲いていました。すぐにそれは消えます。そしてまた新しい花が夜の空に咲きました。 花火だよ、と佐助はしゃがみこみ、小十郎の目を見ながら言いました。 「すごいでしょう」 「あぁ」 小十郎は頷きます。 佐助は満足げににいと笑い、見せたかったんだ、と大きな声で言いました。そうしなくては花火の音でよく聞こえないの です。なので小十郎も声を張り上げて言います。見せたいのは、俺じゃないだろう。 佐助はちらりと小十郎を見下ろします。 「あんただよ」 「待ってる人、にじゃねェのか」 「あのひとはたぶん、お城のバルコニーから見てるんじゃないの」 「なんで其処に行かん」 「一介の商人風情が、どうして王子様に近寄れるっていうのさ」 佐助は困ったように言います。 「代わりに俺に見せる、と」 「代わりだなんてとんでもない。俺はね、あんたに見て欲しかったんだ」 「何故」 「あんたがすきだから」 「嘘をつけ」 「ほんとだってば」 けらけらと佐助は笑います。 小十郎は花火を見上げ、政宗にも見せたかったな、と思います。町の方角はにぎわっていました。真夜中だというのにあ かりが点り、どこもかしこもひかりで満ちています。 佐助と小十郎の居る場所だけが、夜でした。 ねえ、と佐助は首を傾げながら言いました。ほんとにすきだよ、と言われて、小十郎はまた嘘だ、と言い返します。だっ て佐助はあんなに待っている人のことをいとおしげに話すのです。其処に、なにかが割り込む隙間など無いはずです。困 ったように笑いながら、佐助は言いました。でもほんとなんだよ、と言いました。 「最初に見たときから、ずうっと」 佐助の声は歌うようです。 嘘だとは、もう言えませんでした。小十郎は黙ります。佐助は笑っています。笑いながら、ねえそっちに行ってもいい、 と小十郎に聞きます。止める前に、佐助はばしゃんと海に身を投じました。顔にかかる飛沫に、小十郎は目を見開きます。 冬なのです。人間が入っていい温度ではありません。 髪までぐっしょりと濡れた佐助は、それでもにこにこと笑って小十郎の目を見据えます。 「ねえ」 「馬鹿なことしてるんじゃねェ。とっとと上がれ」 「ねえ、人魚さん。俺人魚さんの住んでるところに行きたいな」 「・・・あァ?」 「あんたの見ている景色が見たいな」 「意味が」 わかりません。 佐助は更に言いました。花火きれいだったでしょう。 「俺の見たなかでね、あれが一番きれいなものなんだ。見て欲しかった」 「何故俺だ」 「わかんない。でもさ、あんたに見せたら、きっと俺は嬉しいんじゃないかと思ったんだよ」 「嬉しいか」 「嬉しいよ。だってきれいだと思ってくれたでしょ」 頷くと、佐助はくしゃりと笑います。 そしてまた言いました。あんたの見ている景色が見たい。其処へ行きたい。あんたが一番きれいだと思うものを見せて欲 しい。小十郎は困りました。だって佐助はきっと小十郎の住んでいるところまではたどり着けません。途中で息が尽きて しまうでしょう。そう言うと、佐助は言います。それでもいいよ。 「あんたとおんなじものが見たいんだ」 小十郎はすこし黙り、勝手にしろ、と言い捨てて海へ潜りました。 佐助はそのあとからついてきます。小十郎は時折振り返りました。佐助はそのたびすこし笑おうとしているようでした。 けれど、まだ集落まで半分も潜っていないような場所で、すでに佐助は苦しげにこぽりと泡を吐きます。小十郎は泳ぐの をやめました。こぽこぽと泡を吐き出している佐助の体を抱えて、急いで海面に向かいます。そこから顔を出すと、佐助 は激しく咳き込みました。 阿呆、と言うと佐助は咳き込みながら弱々しく笑います。 「無理だった」 「当たり前だ」 「悔しいなあ」 見たかったなあと佐助は言います。 それから小十郎の肩に頭をこてんと置いて、その背中に腕を回して、またすきだよ、と言いました。佐助の指が小十郎の 傷をなぞっているのが解りました。黙ったままの小十郎に、佐助はくつりと笑います。小十郎の腕は決して佐助の背中に は回りません。だから、佐助は縋り付くように小十郎を抱きます。 「あんたの傷、ほんとにいいね」 「・・・」 「羨ましいな。俺も欲しいくらいだ」 「おまえが」 「うん」 「すきなのは、俺じゃあなくて」 傷だろう。 佐助はくつくつと笑いに体を揺らします。 「だったら」 「別に。どうも思わん」 「そう」 「ああ」 「・・・あんたと」 おんなじものを見たら、と佐助は言いました。 「おんなじ気分になれるかと思ったんだ。ねえ人魚さん。大事なひとの為に傷を負うってどんな気分?誇らしい?きもち いい?それともちょっとはかなしいのかな。俺は全然わかんないんだけどさ。 全然わかんないけど、あんたと一緒に居て、あんたとおんなじようにしてたら、ちょっとはその気持ちが解るようにな るんじゃないかなあなんて、思っちゃってねえ」 なったか、と小十郎は問いました。 佐助は首を振ります。全然わかんない、と笑います。 「きっと俺は、一生わかんないままなんだろーなあ」 かなしいなあと笑う佐助は楽しそうでした。 小十郎は空を見上げます。月はありません。代わりにいつもより多くの星がきらきら、きらきらとひかっていました。で もね人魚さん。佐助は静かに言いました。あんたがすきなのも、ほんとなんだよ。小十郎は応えません。何度も何度も、 まるでせき立てられているかのようにすきだと繰り返す佐助が滑稽でした。 すきだよ、と十回目に言われて小十郎は佐助の背中に腕を回しました。 佐助はいつかのようにまた、やさしいね人魚さんと言います。 自分の名前も知らない男を、小十郎はひどく哀れで、滑稽で、そしてすこしだけいとおしく思いました。 おわり |