・・・・・・・・・・・・片倉小十郎の独白 男なんてもちろん御免だ。 意味がない。面倒臭ェ。生産性だなんだと言うつもりはないし、倫理がどうのと言えるような大層な人間でも ない。これは単に好みの問題だ。女は取り敢えず簡単にセックスができる。男はそうじゃない。なら女がいい。 あの阿呆師匠とセックスをしていたのはあの阿呆師匠がしたいと言ったからで、それはまったく俺の選択肢に 関する問題じゃない。あの男の我が儘だ。それだけだ。 それだけだ、と思っていた。 どうもそうでもねェらしいと最近気付いた。 単なる面倒臭いジジイかと思っていたら、その面倒をかけられるのはそこまで苦痛ではなく、それどころかむ しろあのジジイが俺以外に面倒をかけるかと思うと腹立たしくてしょうがねェ。その上、あれが俺になにかし らの遠慮をしているらしいのが心底から腹が立つ。今更じゃねェか、と思う。欲情したからセックスをさせろ と言って、それでまんまとひとのケツまで掘っておいて今更遠慮もヘチマもねェという話だ。阿呆らしい。 へらへらした顔をしていたかと思うと急に不機嫌になって、かと思うとなんだかいやに黄昏れてしょぼくれた 顔をさらして不愉快でたまらねェ。何がしてェんだかまるきり意味不明だ。きっと年を食って痴呆が始まって いるにちがいない。 そう思っているうちに、どうも若年性の痴呆が俺にも感染した。 何がしたいんだかよく解らなくなった。 よく考えなくても、べつにあの阿呆がしょぼくれてようが不機嫌だろうが俺にはどうだっていいことの筈だ。 むしろあれは機械でもいいはずだ。「猿飛佐助の演奏をする」という形容詞がつく機械でもまったく構わない。 その他諸々の面倒な形容詞を両手いっぱいに抱えているあの男は単にうっとうしい生き物でしかない。だとい うのにそのその他諸々であるはずの形容詞を棄てろとは何故だか思えない。 おしまいだ、と言われた時にふざけるなと思った。 何故だかは謎だ。 痴呆症の一環だろう。 いつだってひとを振り回すあの阿呆が、勝手に誼を繋げて勝手にそれを断ち切るのが当然のようになっている。 前もそうだった。あいつは勝手に外国に帰ることになって、勝手に「これで最後だから」と笑って言いやがっ た。それが当然だと思っている。どこまでもふざけた野郎だ。 おしまいだと言われても、俺は何がおしまいになるんだか解らねェ。 あいつのなかでは勝手に何かが始まったことになっている。そしてそれを終わりにする。俺はよく解らないま ま勝手にあいつに「おしまい」にされる。 そんな馬鹿な話があっていいわけがねェ。 「あんたには解らないでしょうけどね」 元々腹が立っていたので、その言葉でそう長くはない堪忍袋の緒が切れた。 もちろん解っていないのは阿呆師匠のほうで、俺ももちろん何も解っちゃいねェがそれももちろん阿呆師匠の せいなのだ。流れで随分とくだらねェことも言ったような気がするが、まァそれはいい。とりあえず俺は若く、 この世には知らんことも随分と多いのだということは解った。男とセックスをするのは面倒だがそう悪いもの でもないということも解った。 欲情したのは恋なんだかなんなんだかそれは知らん。 とりあえずセックスが出来て、それですっかり馬鹿な十年上の男は舞い上がって機嫌を直した。 最初の問題はまったく解決していないわけだが、―――つまり恋愛と音楽と性欲の混同の不可避と分別の可能 性について―――それはもうあの男にとってはどうでもいいらしい。きっと元からそんな大層なことを考えて いたわけじゃあなかったんだろう。阿呆なのだ。どうしようもなく。音楽を抜かしたらただの中年だ。ただの 中年は色惚けている。演奏旅行が終わって休暇に入ったので―――俺は入ってねェのに強制的に取らされた― ――ひとをベッドに引きずり込んで真昼間から事に及ぼうとする。そのくせ体力がないからすぐにへばる。ど うしようもねェ阿呆だ。 しかしその阿呆が、そう悪くない。 悪いんだが、まァいいか、と思ってしまう。 これも痴呆症の一環か、それかまた新手の病気かなにかだろう。 ベッドの中でのあの男は音楽とは一切関わりがない。ただの中年で、その他諸々の形容詞でしかない。しかし そのその他諸々の形容詞が付いたただの中年であるところの猿飛佐助という男を、どうも俺はそう嫌いではな い。汗みずくでへばってる姿なんざ単なる中年の情けねェ格好といえばそのはずだというのに、なんとはなし に下腹辺りにぐるぐると渦巻くものがあるのは、つまり病気なのだろう。 ならしょうがねェ。 病気なのだから。 「片倉君」 中年の手が伸びてくる。 タクトを握るその手は、しろくて指が長く、体に見合わず大きい。 散々さっきまでへばっていたくせに、すぐにいろめいたふうに手が動き始めるのはこれもまた別個の病気だろ う。この男はあらゆる意味で様々な病気を一手に抱えている。しろい手が俺の髪を弄ってる。馬鹿だ、と俺は それを見ながら思う。もうセックスどころかキスでだってへばるくせにこの阿呆はこういうことをする。よく 解らん病気のおかげで俺は正直なところ、そういうことをされるのが面倒臭くてしょうがねェんだが、この阿 呆に言ってもあまり通じねェ。馬鹿なのだ。 まァそれもそんなに悪くねェ。 「だっこして」 「阿呆か」 しょうがないから俺は馬鹿のふりをして、その阿呆を抱き締めてやることにしている。 休暇もいつかは終わる。 馬鹿みたいに甘ったるく怠惰だった、半ばはベッドで過ごした十二月を越えて、新年を迎えたところでいい加 減にしろと女社長に言われたので小十郎はへばり付いてくる佐助を引っぺがしてフランスに帰ることにした。 数ヶ月前から音信不通の真田幸村は「帰る」と連絡をしてもまだ留守電のふりをしてきた。けれども土産は何 がいいかと聞いたら「ウィンナーがいいでござる」とだけ言ってその留守電もどきは切れた。ウィンナーを空 港で五袋ほど買い込んでいたら佐助にあんたはこれから冬眠でもするのかと訝しがられた。 飛行機が出るまであと三十分ほど間がある。 ロビーのベンチに座り、天井を見上げながら佐助は「三ヶ月」とつぶやいた。 「短かったんだか長かったんだか」 そうだな、と小十郎はカップのコーヒーを飲みながら相づちを打った。 佐助は小十郎に手を差し出す。小十郎は舌打ちをしてからコーヒーのカップを手渡した。佐助はへらりと笑い、 それから小十郎の顔をじいと覗き込んだ。 「なんだ」 「いや」 にんまりといやらしい顔で佐助が笑う。 「なんだか片倉君が服着てるところを久々に見たなあっと思って」 「猿飛」 「なあに」 「滑走路で寝て来い。そして轢死しろ」 「いやだよ。まだあんたの裸見たいし」 「解った」 今ここで殺す、と首に手をかけようとしたら、けらけら笑いながら佐助は席を立った。それからすこし目を開い て、ほんとうだよ、と言う。 「俺はまだ、あんたとそういう関係で居るつもりだけど。片倉君はどう?」 首を傾げ、口の端を持ち上げる佐助の顔はひどく腹立たしい。 小十郎は眉を寄せて、口を真一文字に結んだ。佐助がまた笑う。すげえ仏頂面、と言う。そういうところもすき だよと言う。周りはドイツ人ばかりで、こちらは日本語なので特に誰もその言葉を気にもしていない。ねえ片倉 君、俺はすごくあんたがすきだよ。 「俺様の最近の感触としては、あんたもそれに遠からず―――って感じかしらと思ってたんだけど」 どうかなあ。 小十郎は黙った。 周りではごろごろと忙しなくスーツケースが転がる音や離陸を知らせるアナウンスやひとの話し声が満ちている。 小十郎は佐助を見上げて、なるほどそういえばこの男が服を着たところを見るのは久しぶりだと思った。お互い にほとんどベッドから出なかったから当然といえば当然だ。 三ヶ月、とさっき佐助は言った。 短かったんだか長かったんだか。 長かったんだろうと小十郎は思う。 三ヶ月。そんな期間、この男がただ自分の物であったというのは、異常事態でしかない。今後こんな期間は二度 とないだろう。小十郎は自分の舞台を犠牲にしてまで佐助と一緒に居たいとは思わない。佐助ももちろんそうだ ろうし、彼に至っては元よりそんなことは不可能だ。 佐助は優れた指揮者で、けれどもそれは小十郎が目指す物とは明確に異なっていて、そこが重なることは今後も 決してありえない。 一緒に居る意味は、これから更に減っていく。 フランスとドイツは遠くもないが、決して近くもない。 ベルリン行の便への搭乗を知らせるアナウンスが空港に響き渡った。 小十郎も立ち上がり、スーツケースの取っ手を掴む。視線を下げると佐助と目が合った。佐助の目は挑むような、 探るような微妙ないろを孕んでいる。小十郎はしばらくその赤い眼を覗き込んでから、視線を外して搭乗口を見 た。年明けの空港は混み合っている。日本ではありえないレベルの別れの挨拶がそこら中でおこなわれている。 家族か友人か恋人か、とにかくみんなてんでに抱き合ってキスをして、そうして別れを惜しんでいる。 すこし考えてから、小十郎は佐助の肩に手をかけてぐいと自分の胸に顔を押し込んだ。 「最初から言ってたと思うが」 俺はおしまいにする気はねェよ。 それだけ言って、小十郎は佐助の肩を押して体から引き離した。 「俺が居ねェからって、無理をしてぶっ倒れんじゃねェぞ。中年」 佐助は目を丸くしている。 小十郎は鼻を鳴らして、間抜けた顔をしている佐助の額をてのひらで叩いてから横をすり抜け、搭乗口へと向か った。スーツケースを預け口に預け、貴重品の入った手持ちのバッグだけ持って航空券を取り出そうとしたとこ ろで、背中に佐助の馬鹿げて大きな声がかかった。 馬鹿弟子、と言う。 「俺が居ないからって、浮気して他の指揮者にへらへらすんじゃないよ」 「そんなことをおまえに言われる筋合いはねェ」 「なんだよ、俺様がなんだって」 「女好きのくせによく言う」 「そりゃ過去の話だよ」 振り返ると、佐助はポケットに手を突っ込んで、とても十年上とは思えない顔でへらりと笑い、「」とわざわざ ドイツ語で怒鳴った。 周りがみんな小十郎を見やる。小十郎は目を細めて舌打ちをした。 「これからはあんた一筋だから」 佐助は顔を春先の雪のように溶かして手を振っている。 馬鹿だ。小十郎は思った。どうしようもねェ馬鹿だ。周りはなんだか期待を込めた目で小十郎を見ている。小十 郎はそれに益々苛ついた。畜生、どいつもこいつも馬鹿ばかりか。 佐助は笑ってる。 小十郎は息を吐いた。 恋愛なんだか性欲なんだか尊敬なんだか、そんなことは知らない。 けれどもそれは義務ではなく惰性でもない。 小十郎は手を挙げて、それから親指を立ててぐい、とそのまま下にそれを向けてやった。佐助が唇を尖らせてブ ーイングをする。周りからもがっかりしたような溜息が溢れる。ふざけんなと小十郎は一旦周りを睨み付けてや ってから、改めて佐助に視線をやった。 阿呆師匠、と怒鳴る。 「当然の事をでけェ声で喚いてんじゃねェよ」 そう結んで、中指を立てる。 佐助の顔は見ないで搭乗口へ入った。他の乗客は話しかけたいのか小十郎を窺っていたけれども、それは一睨み で蹴散らし、飛行機の座席まで早足で向かう。搭乗員が怯えたように道を空ける。小十郎は構わずにシートに沈 み、苛々とコートを脱いだ。 馬鹿じゃねェのか、と思った。 馬鹿じゃねェのか、俺は。 コートを丸め、膝に乗せて窓枠に肘を突く。空は馬鹿げて青い。雲ひとつない。なにもかもが柄に合わない。あ れでは馬鹿げたチープなハリウッド映画のラストシーンと何も変わらない。コートの中の携帯電話が震えた。小 十郎は舌打ちをして、ポケットからそれを取り出し、電源を切ってやった。どうせにやけたあの男のにやけた内 容のメールに決まっている。 小十郎は備え付けのイアフォンを耳に突っ込んだ。 クラシックチャンネルに番組を合わせ、目を閉じる。ハンガリー狂詩曲がながれている。気が違ったようなスピ ードの演奏に、小十郎は作曲家の正気をいつも疑わざるを得ない。一体何があるとこんな切羽詰まったメロディ ーを作ってやろうと思うんだろうか。もちろんこの曲は嫌いではないが、謎だ。あんまり演奏が困難で、おかげ で誰だか知らないが今流れている音源のオーケストラはすっかり音を見失っている。 小十郎は薄く目を開けて、ふと思った。もしかしたら。 もしかしたら、フランツ・リストも佐助のような男に会ったのかもしれない。 狂詩曲は十九番に入り、ますますピアニストの指は縺れている。小十郎は縺れた歪なメロディーを耳に収め、窓 の下を見た。既に飛行機は離陸して、空港ははるかにちいさくなっている。加速するスピードは高度と相まって、 ほとんどオーケストラはそれを追うので精一杯らしい。 十九世紀にも佐助のような馬鹿は居たのだと小十郎は思った。 それでリストは、その苛々をこういった馬鹿げて難しい曲にぶつけたのだ。 小十郎はイアフォンを取って、それからコートを持ち上げて携帯を取り出した。電源を入れ、メールのアイコン を選択し、画面を開く。やはりメールは佐助からだった。開いてみると画面一杯に絵文字のハートが満ちている。 小十郎はメールを開いたことをすぐさま後悔した。 あの阿呆、と胸の内だけで吐き捨て、また窓へ視線をやる。空は青い。 感情と音楽の混同は不可避だ、と小十郎は嫌味ったらしいほどに青い空を睨みながら思った。例えば伊達輝宗は 揺るぎないあの器量で、壮大なメロディーを奏でる。それはまるでこの世のものではないような壮大さで、小十 郎は彼に憧れてやまない。たったひとつの頂点を極める、至上の指揮を輝宗はその指で引き起こす。 佐助はまるでちがう。 生きる形とおんなじ、歪な音楽しかあの男は奏でない。 小十郎はそれを良しとは思わない。目指すつもりもない。けれども佐助の音楽は佐助そのもので、聞かないでは いられないし、惹きつけられないではいられない。それが音楽に惹かれているのか佐助に惹かれているのか考え るのはきっと有益ではない。それらはきっとおんなじことなのだ。 切り離せる問題ではない。 そのことについて考えるのはひどく複雑で、困難だ。 小十郎は眠ることにした。考えるのが面倒になってしまった。フランツ・リストの事を考えながら眠ったはずな のに、夢にでてきたのは佐助で、小十郎は佐助に向かって携帯のメールに打ち込まれたハートをその数の分だけ 投げつけていた。目が覚めてひどく馬鹿馬鹿しい気分になった。 ベルリン空港に降りてから、小十郎は佐助にメールを送った。産まれて初めて絵文字画面を呼び出して、その中 でも一番使用意味の解らないアルファベットの小文字のエムにおまけが付いたような記号を画面一杯に打ち込ん でやった。 すぐに佐助から電話が来た。 『意味が解ンないんだけど』 「俺もだ」 なんだそりゃあと佐助が喚く。 煩いので小十郎はすぐに通話を切った。しばらくしてから佐助からまたハート連打のメールが届いた。最後にあ んた馬鹿じゃないのかと一言だけ打ってある。小十郎は空港から下宿先のアパルトマンにタクシーで向かいなが らそれを見て、おまえほどじゃねェよとちいさくつぶやいた。 アパルトマンまではしばらくあるので眠ろうかと思ったけれども、途中でそうしたらまたあの意味の解らない夢 を見るかもしれないと思って小十郎はすこし躊躇した。 けれども結局眠ることにした。 目を閉じながら小十郎は、意味が解らなくてもあれはそう悪い夢ではなかったと思った。 おわり |