基本的に、佐助の恋人は言葉が圧倒的に足りない。
だから意思の疎通が適わないことは今に始まったことではないのだ。けれども事が事だけに、そこもか
わいいところだよね、と笑っているほどの余裕が今の佐助にはない。
小十郎の固い能面のような顔をちらりと一瞥し、佐助は目を伏せた。
ちょっと冷静になろう、と思う。
このまま一方的に責め立てても、話は平行線を辿るばっかりだ。
佐助は深呼吸をした。考えてみれば、まずひとつ幸いなのは、小十郎が自分と別れる気がない、という
ところだろう。つまり今回の「家を出て行く」という行為は、あくまでも「距離を置きたい」というこ
とであって、「別れる」ことと同義ではない。辛うじてデッドラインは回避していると言っていい――
―もっとも、限りなくそれに近い行為ではあるけれども。
では、どうして別れないのに、家を出なくてはならないのか?
まさか自然消滅を狙っているんじゃあるまいな、と佐助は一瞬だけ疑った。
けれどもその直後、それはないな、と思い直す。小十郎はそんな面倒なことをするような器用な人間で
はない。別れたければ単刀直入に別れたいと言うだろうし、さっきは頭に血が上って捲し立ててしまっ
たが、正直なところ素手でまともに対峙すれば、佐助が小十郎に力で敵うわけがないのだ。小十郎は別
れを告げたら、佐助の抵抗をさっと片手でいなし、とっとと出て行ってしまえばそれで済んでしまう。
極めて遺憾なことに、それはとてもスムーズに進行することができるだろう。
でも小十郎はそうしなかった。
ということは、やはりあくまでも「家を出る」ことが、彼にとって重要なのだ。

「片倉の旦那」

大分落ち着きを取り戻した佐助は、顔を上げた。

「一個聞いていい?」
「あァ」
「俺のこと嫌いになったとかじゃ、ないの?」

首を傾げると、小十郎の目が丸くなる。それから苦々しく、「そんなわけねェだろう」と吐き捨てられ、
佐助はほう、と安堵の息を吐いた。次いで、こんな状況でなければ飛び上がって喜びたいような台詞に、
すこしくすぐったげに目を細めた。

「じゃあ、俺のことすき?」

重ねて問うと、小十郎は黙り込んだ。
むっつりと口を引き結び、まるで般若のように怖い顔をしている。佐助は思わず吹き出して、背中をソ
ファから離し、立ち上がった。言いづらい言葉を強請ると、小十郎はいつもこういう顔になる。遠回しな
肯定をうっとりと受け止め、佐助はテーブルを回り込むと、小十郎の座るソファの手摺りに腰掛け、彼の
ほおにてのひらを添えた。

「うん、俺様もね、あんたのこと凄くすき。だから、あんたが出て行くとめちゃくちゃ悲しい」

小十郎はただ黙って、佐助を見上げている。
佐助は小十郎の肩に顔を埋め、耳元で「行かないでよ」とつぶやいた。
ひくりと小十郎の肩が揺れる。

「悪いところあったら、出来る限り直しますから」
「猿飛、」
「俺のこと置いて行かないで」
「さ、」
「あんたが居ないのに、ここで暮らしても何の意味もないでしょう?」
「―――おい、黙れ」

小十郎の手が、佐助の肩にかかる。
顔を上げると、すぐ間近に、ほんとうに困ったように歪められた小十郎の顔があった。とても「黙れ」
という顔ではない。眦がすこし赤らんでいるし、いつも真っ直ぐ過ぎるほど真っ直ぐこちらを見据える
はずの切れ長の目は気まずそうに臥せられている。佐助から目を逸らすように横を向いているので、や
っぱりすこし赤らんだ耳が目の前に来ていて、佐助はこくりと喉を鳴らした。
もちろんそんな場合ではない。
そんな場合ではないのだけれども、

「片倉の旦那」

息のような声を耳に注ぎ込むと、小十郎がはっと首を竦めた。
その仕草にますます佐助は、現状と、自分のすべき行為の目的をどこかに忘却してしまいそうになる。
むしろこのまま雰囲気に流されてしまえば、さっきの話はなかったことになるんじゃないだろうか。
佐助は極めて自分にだけ都合がいいように、そう考え始めた。何が何だか解らない別れ話らしきものを
延々と続けるのと、とてもかわいらしい―――佐助の目にはそう見える―――恋人とキスを楽しむのと、
どちらがより建設的な行為かなんて、考えるまでもない二択だ。
伏せられた小十郎の顎に手を添え、そっと持ち上げる。
小十郎と目が合う。夜みたいに黒すぎる眼がくるりと光彩を回す。佐助はそこに自分の姿が映り込んで
いるのを認めて、うっとりと笑みを浮かべた。
薄い唇に自分のそれを重ねようと、ゆっくりと顔を近づける。

「―――、ェ」
「え?」

あと数ミリ、というところで、小十郎がなにかつぶやいた。
佐助は目を瞬かせる。小十郎はきつく目を瞑っていた。気のせいかと思い、そのままキスを続行しよう
とすると、再び小十郎が口を開き、

「耐えられねェ」

と、熊のように唸った。
そして、ナニソレ、と言う暇もなく、佐助は思い切り突き飛ばされて、床に後頭部を強打してそのまま
意識を失った。































目が醒めると知らない場所に居た。
延々と続く河と、その対岸にあるうつくしい花畑を見て、「あ、ヤバイ」と思った佐助は即座に踵を返
して、走り出した。これは死んでしまうかもしれない。とても見慣れた光景が辺りには広がっている。
さすがに痴話げんかで死ぬのは、大した人生ではないとはいえ自分のそれのラストには置きたくない項
目だ。佐助はひたすら背後の光景から逃げるために走った。
走るだけ走り、切れた息を整えるために膝に手を突くと、目の前にぬっと何かの影が差した。
なんだろう。
顔を上げると、そこに赤鬼が居た。

「ひい」

悲鳴をあげてまたユーターンをしようとしたが、首根っこを掴まれてそれは適わなかった。鬼は佐助を
軽々と持ち上げると、ひょい、と手の中でターンさせ、襟を掴み上げ、上下に振り出した。
あ、これは死んじゃうな。
佐助は鬼に首をがくがくと揺さぶられながら、そう思った。

「猿飛、おい、起きろ。阿呆」

鬼は佐助を揺さぶりながら、罵詈雑言を投げつけてくる。
天国に行き損ねたので地獄から使いが来たんだろうか。それにしても怖い顔をした鬼だ。鬼というより
も般若だ。佐助はうう、と唸った。ごめんなさいゆるしてください、と気休めの許しを請う。
鬼が「何言ってるんだ阿呆」と再び怒鳴る。
ぱん、と大きな音と衝撃がほおを襲い、はっと目が開いた。

「え」

佐助は再び目を覚ました。
そこは河も花畑もない、見慣れた自分の寝室だった。むくりと体を起こすと、ベッドサイドに小十郎が
居て、佐助の顔を厳めしいしかめ面で覗き込んでいる。その顔はさっきの鬼とそっくりだった。でも鬼
の顔はただ怖いとしか思えなかったけれども、小十郎の顔には確かに「心配」という二文字が感じられ
たので、佐助には大して怖いとは感じられなかった。
小十郎は佐助の後頭部に、濡れたタオルを押し当ててきた。

「大丈夫か」

佐助はひんやりとしたタオルの感触に息を吐き、頷いた。
佐助の仕草に、小十郎もほうと息を吐く。突き飛ばしたことを謝るつもりはないようだった。それはい
い。そういうところも実に「片倉小十郎」的で、佐助はそこに文句をつけるつもりは毛頭なかった。
「片倉小十郎」という男は、それ単体で一個の思想のようなものを形成している。
だからある意味で彼はとても解りやすい。解りにくい部分もたくさんあるけれども、その解りにくさも
含めて小十郎は「片倉小十郎」という思想なのだ。だから彼の行動はその思想に準じて常に一貫してい
る。佐助は小十郎の、そういう揺るぎのないところがとてもすきだ。
だからこそ、今日の別れ話は納得がいかないのだ。
まるで「片倉小十郎」らしくない。
佐助はタオルを支える小十郎の手首をそっと握ってみた。小十郎は一瞬だけ拒絶するように、手を引く
仕草をして見せた。けれどもそれは佐助がすこし力を込めるとすぐに止んだので、単なる反射か、ある
いはただのポーズであったのかもしれない。
佐助は抵抗の止んだ大きな手を口元まで引き寄せ、人差し指の節に唇を押し当てた。

「片倉の旦那」

そうして彼の名前を呼ぶと、小十郎が苦々しげに目元を歪める。
佐助は目を細めた。切なげに眉をひそめると、小十郎がそれに呼応するようにやはり眉を寄せる。佐助
は苦く笑って、小十郎の手に自分のそれを重ねた。

「俺とこういうことするの、嫌になっちゃったの?」

もしかすると、昨夜帰るなりベッドに引きずり込んだのを怒っているんだろうか。
佐助は今更のようにその可能性に思い当たった。小十郎は決してセックスに積極的なタイプではない。
でも佐助が強請れば基本的には了承してくれるし、最中は彼だって満更ではないようだった。
それともそれは佐助の錯覚だったんだろうか。
小十郎は黙り込んでいて、佐助の問いには答えてくれない。
彼の沈黙は多くの場合で肯定を意味する。そう思うと、しくしくと胸が痛んだ。

「何が嫌だったの。俺、あんまりあんたのこと気持ちよくさせてあげられてなかったのかな」
「それは」
「うん」
「ちがう」
「―――じゃ、」
「おまえの責任じゃあねェ。これは俺の問題でしかない」

だからおまえには悪いと思っている。
小十郎は神妙に言った。佐助は拗ねたように唇を尖らせた。

「なにそれ。こういうので、片っぽだけの問題ってのはありえないでしょう。ふたりですることなん
 だから、俺様にだって責任はあるに決まってンじゃないか」
「責任はねェ。ただ、原因はおまえさんかもしらん」
「はあ」
「時間を」

くれないか、と小十郎は切羽詰まったふうで、言葉を吐き出した。
それってどれくらいだよ、とは、佐助ももう聞かなかった。それでは平行線を延々辿るだけだ。佐助
は代わりに、小十郎の手を両手で握りしめて、俺が原因ってどういうこと、と聞いた。
小十郎は佐助の目を見ながら、いかにも言いづらそうに唇を歪めた。それはとてもかわいそうな姿だ
ったので、ほんとうなら佐助は言わなくてもいいよと言ってしまいたかったけれども、ただ黙って彼
の目を覗き込むだけに止めた。
小十郎はとても長い間黙り込んでから、ようやく口を開き、

「―――どうにも、耐えられねェ」

と、つぶやいた。

「耐えられないって、なにが?」
「おまえの存在が」

小十郎はきっぱりと言った。
佐助は一瞬呆然としてから、慌てて小十郎を睨んだ。

「ちょ、なにそれ、あんた、俺の存在全否定するおつもり?」
「そういうことじゃねェ。おまえが同じ部屋に常に居るという、そのことが耐えられないと言ってる」
「同じ事でしょうが。ちょっと、それめちゃくちゃ傷つくンですけど」
「何故」

不思議そうに小十郎は眉をひそめる。佐助は訳が解らなくなって、うう、と言葉を知らない赤ん坊の
ように唸った。それを不安げに小十郎が眺めている。佐助は両手で顔を覆って、指の隙間からそっと
小十郎の顔を見上げた。

「―――俺の」

どのあたりが耐えられないの、と佐助は尋ねた。
小十郎は口ごもったあと、目を伏せてちいさな声で答えだした。

「おまえが、」
「うん」
「近すぎる。あんまり。一緒に暮らしていると、息を吐く暇がねェ」

それが耐えられない、と言う。

「逐一おまえの一挙一動で、動揺させられるのは御免だ。こっちが保たねェ」

苦々しげに吐き出される小十郎の言葉に、佐助はぱちぱちと目を瞬かせた。
小十郎は難しそうな顔をしている。そこには照れも恥じらいも、そういうものは一切含まれていない
ように見える。佐助はまじまじと小十郎の顔を凝視した。小十郎は近付く佐助の顔に押されるように
して、じりじりと体を後ろへと反らしていく。佐助はまた瞬きをした。
それって、と佐助は言った。

「俺のことすき過ぎて、ずっと一緒に居ると緊張しちゃうってこと?」

小十郎が息を飲んだのが解った。
佐助もこくりと喉を鳴らす。小十郎は黙り込んだあと、重々しく口を開き、

「要約すると、まァ、そういうことになるだろうな」

と言った。
佐助は自分の耳がかっと熱くなるのを感じた。小十郎は佐助の顔が赤くなったのを、訝しげに眉をひ
そめ、何事かと覗き込んでくる。さるとび、と至近距離で名前を呼ばれて、佐助はますます自分の顔
が赤みを増していくのをありありと思い描くことができた。
信じられないことに小十郎はこれが、口説き文句だと思っていないのだ。
天然って怖い、と佐助は赤い顔で思った。

「どうした、猿飛。顔が赤いが」
「ああ、もう―――あんたのせいだよ」
「はあ」
「片倉の旦那」

佐助は小十郎を呼ぶと、そのままぎゅっと彼の体を自分の胸の中に抱き込んだ。
小十郎の体が一瞬かちりと固まったあと、思い出したように抵抗を始める。でもそれも、佐助がさら
に強く腕に力を込めてしまえば、すぐに収ってしまった。
佐助はほうと息を吐いて、小十郎の背中をゆっくりと撫でた。

「それ、ぜんぜんあんただけじゃないから」

俺様も緊張するよ、と言う。

「あんたと一緒に居るといつもどきどきしちゃうし、息も苦しくなる。今だって、あんたの言葉で胸
 がきゅんきゅんして死んじゃうかと思った」

そう言って小十郎の髪を撫でてやると、「嘘吐け」と不満げな声が耳をくすぐった。そんなふうには
見えん、と小十郎が唸る。佐助はけらけら笑って、小十郎をベッドの上に引きずり込んだ。
そうして、すこしだけお互いの体の間に隙間を作り、小十郎の左手を自分の左胸に押し当てる。小十
郎の細い眉が、驚いたようにすこし持ち上がった。
佐助はへらりと笑い、再び小十郎を抱き締める。

「ね、解る?」

心臓がどきどきしてる。
あんたと一緒に居ると、いつもこんなだよ。

「俺だってそういうの、我慢してるんだから。片倉の旦那と一緒に暮らしてると、毎日毎日、どんど
 んすきになる材料ばっかり出て来ちゃって大変なんですよ。だからあんたにも、そういうの耐えて
 もらわなくちゃ困っちゃうな」

一緒に暮らすって、だって、そういうことでしょう?
佐助がそう言うと、小十郎もちいさく「そうか」とつぶやいた。それで佐助はますます強く小十郎を
ぎゅうぎゅうと抱き締めて、ひたすら耳や首に大量のキスを降らせた。止せ阿呆と途中で小十郎に制
止されたけれども、「我慢だよ」と言うと、恋人は素直に抵抗を止めてくれた。
そうして、佐助の背中に控えめに小十郎の太い腕が回り、うっすらと力が籠もる。
佐助はくすくすと笑いながら、小十郎の耳に声を注いだ。

「一緒にゆっくり、慣れていきましょうね」
「――あァ」
「ね」
「努力する」

背中に回った腕の力が、すこし強められる。
その生真面目さがなんともいとおしくて、佐助は自分こそ彼の一挙一動で、体が保たなくなってしま
いそうだと、うっとりと目を閉じた。












おわり

 





手ブロの素敵絵描き様ノツキさまのさすこじゅがあまりにも愛らしいので、思わず
手が滑ってこんなものを書いてしまいました。すみませんすみません。好きです。

かわいい小十郎って何処に落ちてますか・・・。


空天
2010/11/22

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