その女が女だということには、最初はまるで気付かなかった。 しばらくしてからそのことを本人に告げると、ひどく喜ばれて随分おかしな心地になってしまった。 「そうか、男に見えるか」 そう言って珍しく笑みを浮かべた女の名を、片倉小十郎という。 男名である。女であることを隠してはいないけれども、女の名はとうに棄ててしまったといつだったか聞いた。見目は いかにも男らしく、厳めしく、どこにもやわらかげなところはない。広い背中は恐ろしく真っ直ぐで、顔にだって女を 感じさせる部分など滲む程度のものだ。おなじ性を持つ生き物にはとても思えない、というふうに佐助は思う。 中身も外見もそこらの男を蹴散らすほどに、小十郎は雄々しい。 しかし不幸なことに、彼のひとは女なのだ。 花 の な い 茎 「――――うひゃあッ」 佐助は背を思い切り反らして、へたりと廊下に突っ伏した。 横に座っている大女が、「阿呆な声だな」と淡々と言う。佐助は恨めしげにその女を睨み上げた。女は――――小十郎 は、首を傾げ、敏感だなあ、と間延びした声で佐助の腰をしげしげと眺めている。 「そんなんじゃァ、痛みもことにひでェんじゃねェか」 「痛みと腰を揉まれるのとじゃあ訳が違うでしょうよ。しかも唐突に。なんなの、あんた」 「いや、」 細いな、と。 「思った。折れねェか?」 「折れてねえよ、今ンとこな」 「折れんと良いな」 小十郎は心配そうに、そう言った。 佐助はふん、と鼻を鳴らして、頑張りますよ折れないように、と適当に返す。この女の言うことが意味が解らないのは 今に始まったことじゃない。会ったときからずうっとこんな調子だ。何を考えているのか皆目分からない。そしてひと の話をまったくもって聞こうという気がない。 くのいちは腰が細いほうがいいのか、と小十郎が問うた。 矢張りまったく聞いてない。 「そりゃあ、太いよりは細いほうが良いンじゃねえの」 ある程度は諦めるのが付き合うこつだ。 ふうん、と鼻を鳴らす。 「そんなものか」 「世の殿方どもはね、こう、折れッちまうような細っこい腰がお望みなのさ、俺様みたいにね」 「それじゃァ」 「うん」 「その真っ平らな胸も“世の殿方”の望みなのか」 首を傾げて問う。 佐助は黙った。 「猿飛」 小十郎が名を呼んだけれども、聞かなかったことにしてそのまま湯飲みに酒を注ぐ。虫が矢鱈と騒いでいる。空は曇天、 空気の中にはじっとりと水が含まれていて、夜がことさら重く辺りに沈んでいる。佐助は湯飲みに注いだ酒をそのまま 一口に飲み干し、ほう、とひとつ息を吐き出した。 さるとび、とまた小十郎が呼ぶ。 「どうかしたか」 「ど、どうもしねえよ。なんだよてめぇは胸でっかいからってそういう事言うのはどうかと思いますよ」 胸を隠すように背を丸め、佐助は呻いた。 小十郎は不思議そうに首を傾げている。徳利を片手に、とくとくとしろく濁った酒を盃に注ぎながら、でかいか、とお のれの胸元を覗き込む。でかいでしょうに、と佐助は舌打ちをした。 男らしく雄々しく厳めしい小十郎は、しかしなぜか体つきはひどく女らしい。 くのいちとしては多少貧相な佐助としては、羨ましくもある。普段は晒で抑えつけているからそこまで目立たないけれ ども、今のように湯浴みも済ませ、ゆったりと着流し姿でいるとその膨らみは一目で知れる。硬めてある前髪がほつれ ている様は、つやめかしくさえある。 佐助は薄い自分の胸にそうと手を寄せて、吐き出しかけた息をこくりと飲み下した。 「まァ、俺の胸がでかくてもなんの意味もねェんだが」 「ないってこたあないでしょう。でかけりゃでかいほうがいいさ」 「第一、でけェだけで固いしな」 「固いの?」 「おう」 「へえ、」 佐助はしげしげと小十郎の胸元を眺めた。 膨らみはふっくらと豊満で、いかにもやわらかげに見える。 「――――あんた俺に変な気ぃ遣ってンじゃねえでしょうね?」 「おまえに遣う気があったら、そこらの物乞いにでもくれてやる」 「あ、そうですか、そりゃあ結構なことで」 「むくれんな。阿呆面が益々阿呆になってる」 「うるッせえよ、放っておいて」 顔を逸らすと、ひょいと小十郎の顔が付いてきた。 「触ってみるか?」 と言う。 佐助はほうけて、目を瞬かせた。 「さわる」 「あァ」 「なにを?」 「胸」 「誰の?」 「俺の」 「――――はあ」 意味を理解する前に、右手を取られた。 ぐいと引かれ、てのひらがふわりと小十郎の胸に触れる。佐助は目を見開き、それから顔を思い切り歪めた。小十郎は 平気な顔で、どうだ、と首を傾げている。どうもこうもねえよ、と佐助は小十郎の手を振り払った。 「固かっただろう」 「そういう問題じゃあねえっての。俺様にゃ、これッぽッちも女の胸揉む趣向はねえんですけど」 「揉めなんざ誰も言ってねェぞ」 「も、揉んじまうでしょうが、そんな押しつけさせられたら」 「猿飛」 「なんだよ」 「顔」 赤ェぞ。 「酔ったか。ザルのくせに」 「よ、酔っちゃいねえよ。顔だって赤くない」 「おまえはてめェの顔が見えるのか、鏡もなしに」 「見えるよ、見えますとも。俺様をなんだと思ってンだい、しのびなんだぜ」 「しのびねェ」 小十郎はくつくつと笑い声を喉の奥で響かせ、膝を立てた。 そこに寄りかかるようにだらりと背を丸め、佐助をちらりと横目で視界に留める。そして息を吐くようなかすかな声で、 おまえは女だな、とつぶやいた。真っ平らな、焼け野原のような声だった。 佐助は赤らんでいるというほおをてのひらで撫で、なんだよ、と唸った。 「嫌味ですか」 「いや、感想だが」 「なんだよそれ」 「女だと思ったんだ、つくづく」 長い手が伸びて、ほおに大きなてのひらが触れる。 かさついた感触に、かあ、と一気にほおが熱くなった。小十郎がそれを見てまた笑う。 「か、らかってンの?腹立つな」 「いや、まったく。女が女らしいのは、悪いことじゃねェさ」 女らしい女は好きだ、と小十郎は笑みを浮かべたまま言った。 男らしい男も、女らしい女も、夏が暑いことも冬が寒いことも、俺は在るものが在るように在るのがいっとう好きだ。 それがいっとう綺羅々しいとは思わんか、と小十郎は首を傾げて問うた。佐助は何も言わず、ただそれを見返す。なん だかおのれが褒められているような――――思い上がりかもしれないけれども――――顔がますます熱い。 酔ってンのはあんたのほうなんじゃないの、と吐き捨てて佐助はその夜は逃げるように甲斐へ帰った。 路傍に花が咲いている。 変哲もない、いろも薄い、雑草である。 在るものが在るように在るというのであれば、佐助は精々この程度の花でしかない。花と云えるのかもよく解らない。 くのいちなど、言ってみれば造花のようなもので「在る」のかどうかは当人にも解ったものではない。 小十郎は、と佐助は思う。 小十郎は確と“女”であったなら、大輪の華であっただろう。 あの女が美々しく衣装を着こなし、白粉をあしらって紅を引いたならば、百合のようであったろう。 今の小十郎は棘のある、華がもがれた後の茎のようなもので、しかしそれは醜く見苦しくそこに「在る」。醜いし、滑稽 で、見ていると痛々しいとすら思う。戦場で血を被って、さんばらな髪を振り乱し、鬼神のように笑う女がうつくしいわ けがないのだ。在るものがねじ曲げられ歪んだ形でそこに在る。 夏に雪が降り、冬に肌を曝すように。 それでも、足繁くあの女の元へ赴く心というのはなんだろう。 夏が終わって、秋が来るほんの狭間に滑り込むように佐助はまた小十郎を訪ねた。 時が止まってしまったように、相変わらず小十郎はそのまま不自然に歪んだままの姿で佐助を迎え入れる。戦を一度越し た後で、小十郎は腕に怪我を負って肩から晒でそれを吊っていた。 顔には青あざがいくつかあって、それを見た途端佐助は堪えようもなく苦しくなってしまった。 「なんて面だ」 小十郎は面倒そうに呻く。 痛むかい、と問うと、当たり前だろう阿呆か、と怒鳴られた。 「痛くねェように見えるか?」 「凄く痛そうに見える」 「そうか、その通りだ」 痛ェよ。 「だったらもっと痛そうな顔すりゃあいいのに」 「そんなことしたら周りに知れるだろう」 「難儀なおひとだねえ」 「飲むのか?」 「飲むとも」 どんと徳利を座敷に置いて、あぐらをかく。 小十郎は外を見ていた。未だ夕日は沈みきっていない。顔が橙になっている。顔は不満げで、いつもより口数がすくない ところを見ると怪我をして謹慎させられ、随分とむくれているようだった。 お殿様になんか言われたのかよ、と笑うと、思い切り睨み付けられた。 「帰れ」 「おやつれない。今日は随分むくれてらっしゃる」 「黙れ、お喋りなしのびだ」 こんなもの、どうッてこたァねェんだ。 「明日には登城する」 「そりゃまた無茶をなさるこって」 「こういう、」 「うん」 「周りが何かしてるってェのに、俺だけ動けねェのは癪に障る」 「たまには良いじゃない。あんた働き過ぎなんだよ」 「それくれェが丁度だ」 「それはさ、」 佐助は口を開き、それから黙った。 小十郎が不思議そうに視線を寄越してくる。佐助は息を吐き出して、それから「在るものが在るように」と言ってやった。 「在るってことにはならないんじゃないの、そういうのは」 小十郎がすこしだけ目を開いた。 そしてすいと細め、ちいさく笑みを作る。そして、 「俺はいいのさ」 とだけ、言った。 佐助は目を歪めて、意味が解らない、と口から声を絞り出した。小十郎は笑んだまま、見ているものが綺羅々しけりゃそれ でいいんだよ、と続ける。夕日を見ているようだった。その視線はすぐさま佐助へと向き、おまえを見ているのは好きだ、 という低い声が深々と響く。 おまえは在るように在って、綺羅々しい、 「あんただって、」 佐助は呻くように声を遮った。 「「在る」ように在れば良いのに」 「それじゃあ、」 駄目なんだよと小十郎は笑った。 俺は綺羅々しいものが好きなんだ、もっぱら、見るほうがな、 「あの方が在るように在る為に、俺は在ればいい」 十二分だ、と小十郎は笑った。 左ほおの傷が引き攣って、滑稽な笑みだった。 佐助はそれを見て、ちりちりと焦げ付くような痛みを奥底に感じた。醜い女を睨むように見据え、唇を噛み締める。俺はあ んたがきらいだよ、と言うと、小十郎は眉ひとつ動かさず、そうか、とだけ答えた。 佐助は息苦しく、泣きそうになった。 「嘘だよ」 「そうかい」 「きらいじゃない。きらいだったらわざわざこんなとこまで来るもんかい」 「ふうん」 「好きだよ、あんたのこと」 「そいつは、有り難いね」 「女のあんたが、」 好きだよ。 「どうも」 小十郎は夕日を見たまま、佐助を見ないで答える。 また焦げ付くようにどこかが痛む。佐助は小十郎の横顔を眺めながら、その焦げるような痛みが明確に嫉妬であることを息苦 しさの中でうんざりと自覚した。 おわり |