終わらなかった話。 九十九庵にひとの訪れがあることは余り無い。 主の一白翁はすでに隠居の身であるし、ほとんどその小さな庵に籠もりきりである。縁者だという小夜も近所とのつきあ いが深いわけではないから、東京のかたすみにこの庵はぽつんと埋もれているのだ。それで与次郎は、九十九庵がすきだ った。職業柄、誰よりも文明開化を感じる与次郎は、それでも誰より江戸を忘れることを躊躇う男であった。 「あなたも物好きな御方ですねぇ」 そんなことをなにかの折に漏らすと、矢張り笑いながら一白翁はそう言った。 夏である。蝉の羽音が会話を遮るほどにさわがしい。 冷えた麦茶を手に、かたわらの小夜も笑っている。与次郎さんと百介さんは似てますねェ。 りん。 風鈴が鳴いた。 「小夜さん、こんな爺に比べられては与次郎さんがお気の毒ですよ」 「そんな」 与次郎は慌てた。むしろ与次郎こそがそう言いたいくらいだ。 一白翁はあいも変わらずにこにことしながら背を丸めて、その黒目がちな目を細めて与次郎を、否、与次郎ではない『な にか』を、見てる。老人はああ言っているが、与次郎は、おそらくは老人自身も、互いを同じ種類の人間だと認識してい た。性格が似ているとか、そういうことではなくてもっと根本のほうの話だ。 だから、きっと老人が見ているのは与次郎という若い男のうしろの、若かったときのおのれなのではないかと与次郎は思 っている。一白翁は若い頃に隠居して、それからほぼ今のような生活を続けてきたという。話に出てくる怪奇談はすべて それ以前のものなのだ。 与次郎のうしろにはその、老人がなにかを無くして失った時代が見えるのかも知れない。 「与次郎さんは怒りませんよゥ。百介さんも怒らないじゃないですか。ほら、いっしょ」 鈴が鳴るように小夜が笑った。与次郎もつられて頬をゆるます。今日は抜け駆けなのだ。 他の四人が居たらこんな顔はしない。 小夜が庵から出ていくのと同時に、りぃん、と空気を切り裂くように透明な音が響いた。それは、普段であったら気にも とめないのにこの場所では異様なほどに強く影をおとす。九十九庵には冬でも風鈴がさがっている。その訳を与次郎は聞 いたことがなかったし、何故だかこれからも聞く気にはなれないだろうと思っている。 「しずかですね」 「ええ、何もありませんのでねぇ。お退屈でしょう」 「いえ、そういう意味じゃなくて、今は何処も忙しくて姦しくて、騒然としているでしょう。 だから、此処はほっとするんです。いつ来ても、変わらない」 「正しくはありませんがなあ。 ひとも時代も、変わる物です。変わることが当然でございます。私はそれから逃げているのですよ」 だから。 この。 この庵の時は止まったまま。 動かないのでございます。 老人はそう言って、障子の桟に吊された風鈴に目をやった。つられて与次郎も視線を動かす。透明な硝子にはうっすらと 藍色の水玉が映し出されていて、ひどく涼しげだ。 りぃん、りぃん、とまるで一白翁の視線に応えるように続けざまに鳴く。 「小夜さんまで巻き込んでしまって、申し訳ないとは思っているのですがねぇ」 「小夜さんは、好きでご老体のお側にいるんだと思いますよ」 「いやいやご冗談を。 たとえそうだったにしても、ほんとうならば恋の一つや二つ、こんな爺を放ったらかしてしたっていいんですがなあ」 「こい、ですか」 小夜が、恋。 思わず黙り込んだ与次郎に、老人はなにもかも解りきったようにひとつ笑んだ。かあ、と耳が熱くなる。やさしい、春の 夜のような目を細めて老人は与次郎さんは恋をなさってらっしゃるんですねぇ、と言う。 「若いとはいいものですなあ」 そんなふうにしみじみと言われてしまって、与次郎は慌てた。 なにか話を逸らそうと思って、苦し紛れに、ご老体こそ今まで独り身というのは誰ぞ忘れられぬ恋があったのではとしど ろもどろになりながらも言った。ふいを突かれたように、老人は黙る。与次郎は、急に出来た沈黙に押し潰されそうにな る。こんな下世話な質問をするつもりではなかったのだと頭を抱えたくなった。が、すでにあとの祭りである。 「結局」 しばらくしてから老人が口を開いた。 「結局、私は生涯一度も恋をしたことがないのやもしれませぬなあ。 愛しいと思うた女人もおりませんでしたし、未だ慕情も恋情も、解せぬままの朴念仁でございますよ」 「いちども、ですか」 「お恥ずかしい話ですがねぇ。 ――――ああ、でもそうですなあ。あれは、もしやしたら」 老人は、遠い場所を見るような目をすこしだけ伏せて。それから皺の寄った口元をかすかに緩めた。どこか照れたような 青い青年のような笑みである。 そして言う。 あれは、恋であったかもしれませんなあ。 りーん。 百介は急いで障子を開いた。 すでに太陽は沈みきって、あたりは闇である。誰かの訪れを予想するには、すこし夜も更けすぎていた。夜になっても下 がりはしない外の温度が、開かれた障子からじっとりと肌に絡みついてくる。 鈴の音色はひどくかすかで、けれども聞き慣れたそれを百介は決して聞き逃しはしない。 其処には、闇夜にうかぶ白い人影が佇んでいた。 「夜分遅くに失礼しやした。もう、寝ちまッてるかもしれねェとも思ったんですが」 人影は、小股潜りの又市はどこか困ったように頭をさげた。おそらくは、会うつもりはなかったのだろう。百介は嬉しげ に笑う。ならば用もないのに百介のもとを訪れてくれたということだからだ。 「今回は武州での仕掛けだったとか」 窓の桟にひじをついて、乗り出すように問いかける。 本当ならば茶の一杯もと誘いたいが、ただでさえいつも乗り気でない又市のこと、こんな夜半に誘いをかけてもどのみち 乗らぬと其処は諦めた。代わりに、置いて行かれた多少のさみしさを晴らしてやろうと少し笑いながら、本来蝋燭問屋の 若隠居が知るはずもないことをさらりと言ってみた。 「よくご存じで」 案の定又市はすこし驚いたようだった。 「徳次郎さんに教えていただいたんです」 「へェ。なんでまた先生が徳の字なンかと」 「徳次郎さんの旅芸座、今は江戸で興業中なんですよ。 この間平八さんと行ってきたんですが、いやあ相変わらず見事なものでしたねえ」 種を知っているとはいえ、矢張り徳次郎の幻術は息を呑むほど精巧である。仕掛けの途中で見たことはあるが、見せ物と してのそれを見たのは初めてで、今でも思い出すと百介などはうっとりとしてしまう。そんな百介を見て、又市は奥まっ た笑い声をもらした。 「こらァ、先生に先越されちまッたなァ。いえね、奴もまだ見てねェんですよ」 「そうなんですか?」 「へェ。仕掛けン時も見損ねちまいましてね」 「それは勿体ない」 そうだ、と百介はたのしげに手を叩いた。 「では今度ご一緒しませんか。徳次郎さんは、馴染みだからとタダで見せてくださるんですよ」 すると小股潜りは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をして、まじまじと目の前の百介をながめる。百介は居心地悪げに指先 をもたつかせた。 「どうか、いたしましたか」 「あ、いえ。すいやせん。やッぱり先生は変わり者だと思いやして」 「なんですかそれ」 拗ねたように頬をふくらませると、又市は笑ってその頬を包み込む。ゆるく圧されて唇から吐息がもれた。栗鼠みてェで すよという言葉に、今更恥ずかしくなったのか百介はちいさく唸る。 かさついた又市の手が、ゆっくりと頬から離れていく。 「先生は、よゥ御座ンすね」 溜め息のように声がもれた。 百介は訝しげに言葉の意味を追うが、又市は頓着せずにそのまま続ける。 「こう、どろどろと暑いと気分まで滅入っちまいましてね。 今度の仕掛けも、べつにしくじったわけじゃありやせんが、嫌な話だったんで御座ィやすよ。それに」 「・・・それに?」 「武州はあンまり好きじゃねェ」 又市はまた笑う。 それがほんものか、それとも偽物か、それすら百介には解らぬ。 人懐こい笑顔や優しい言葉も、たとえそれが偽物でも百介はそれを受け取ることしか出来ぬ。拒否する、とはかけらも思 いつかない。それがなんであれ、百介は目の前の小汚い小悪党と関わりを持っていたかった。 たとえそれが一方的でも、いつ消えるとも知れぬはかないものであったとしても、だ。 「べつに何があったわけでも御座いやせんが、お目にかかれてよゥ御座いやした。 お邪魔しちまッたかもしれやせんが勘弁してくだせェ」 「そんな、べつに邪魔なんて」 百介は大仰に否定した。 ほんとうは。 ほんとうは、邪魔なんてとんでもないと、いつだって来ていいんだと、そう、言いたかったけれど我慢した。それは踏み 込んではいけないのだと知っている。だから今回の仕掛けでなにがあったのかも、例えば出先が又市の生地と一致してい ることも、知ってはいても百介は言わないのだ。 「良い夢を、百介さん」 又市が笑う。 「――――おやすみなさい、又市さん」 百介も笑った。 きっと今、おのれの顔はひどく醜く引きつっていてそしてそれは海千山千の小股潜りにはお見通しなのだろうと思う。け れど又市はなにも言わぬ。知っていても、言わぬだろう。 去っていく前に、又市は一度だけ振り返って手元の鈴を揺らした。 それは透明に、湿った熱を孕む闇を切り裂くように、 りーん。 風鈴が鳴った。 一白翁はふわりと笑う。 「私は朴念仁で野暮で、今もそうですが昔は尚更でしたから、その時抱えていたはっきりとしない何かを突きつめて考え ることが、そういった感情に繋がるとは思いもよりませんで。 結局、なにも言わぬままでございます。 なにか言っていたら変わっておったやもしれませぬが、今となってはそれも、ねえ。 年寄りの繰り言でしかございません。 後悔ですか。 後悔はしておりませんよ。 だってご一緒させていただいてる間には、そんなこと考えもせんでしたからなあ。 ほんとうに、芯からどうしようもなく野暮でございましたから」 与次郎は、すこし間を空けて話し出した一白翁の話を黙って聞いていた。 この老人が、与次郎にしてみれば生まれたその時から老人であったような気さえ起こさせる枯れ果てた老人が、かつてで あるにしろ恋などという感情を関わりを持っていたという事実は、その話題を振ったのがおのれであるにも関わらず与次 郎を驚かせた。 いつものようにやわらかな口調で語られるそれは、激しい恋の話ではなく、悲恋というほどに悲劇的なものでもない、恋 と言うにはあまりに淡いおもいの話だったけれども、 「忘れ――られぬのですか、その、御方が」 与次郎は問うた。 「どうですかなあ」 一白翁は、すこし首を傾げてそれから苦く笑った。 「忘れるとか、忘れられぬとか、そういった話でもないのですよ。 なにしろ、ほら、恋を終えようにも私は始めることすら満足に出来ませんでしたから」 終わらないのですよ。 老人はそう言って、桟に吊された風鈴に目をやった。与次郎も先程と同じように視線を動かした。 が、今度は風鈴ではなく、一白翁の見ているものを見るつもりで其処へ焦点を合わせる。目を凝らして、透明な硝子を見 つめたが、其処には硝子越しに見える真っ青な夏空が広がるばかりで、他のなにかが与次郎の目にうつることはなかった。 おわり |