『忍の掟』 月が丸い。 まんまるの月のまわりには何もない。雲はない。満月の夜はそのひかりが強すぎて、星のひかりは地上までは降りてこない。縁側で 足をぶらつかせながら真田幸村はその月を見上げ、腹が減った、と言った。 同じく横に座り込んでいた猿飛佐助が吹き出す。 「若にゃあ、情緒もなにもあったもんじゃねぇなあ」 「むぅ」 しかし団子に似ておる、と幸村は言う。 佐助はけらけらと笑いながら、すくりと立ち上がった。 「空の月より地べたの団子ね」 「佐助、どうした」 「団子はありませんがね、たしか飯炊き場に干し柿があったからさ」 月見酒の肴に、と佐助はくい、と猪口を持つ仕草をする。 幸村はきらきらと顔を笑みにかがやかせる。歩き出した佐助の背中に、はやくな、という声が飛んできた。佐助はくつくつと笑いな がらとたとたと縁側を歩く。 角を曲がった。 幸村の視界から佐助の姿が消える。 そこで佐助は腰から手裏剣を抜いた。 刃の部分に頭上の月がうつりこむ。 ばかだな。佐助はつぶやいた。月のあかるい夜には動かぬが定石。それはしのびなら誰もが知ることだ。闇に紛れて闇に一体化し、 おのが姿を消さなくてはしのびの仕事は全うできない。 ばかだな、と佐助はまたつぶやく。 「しのびの掟だけじゃなくやり方さえ忘れちまったのかねェ」 そう笑うと、庭の松の影からくないが飛んできた。 佐助はやはり笑いながらそれをかわす。佐助の顔のすぐ横の柱に五本のくないが縦に突き刺さった。それを一本引き抜き、佐助はく るりと振り返って投げ返す。 闇というにはあかるい夜に、金色がふわりと舞った。 佐助はその色に目を細める。 それから、かすが、とその金色の名前を口にした。 「俺の新しい就職先になんのごようでしょ」 息を吐く。 がさ、と音をたてて金色のしのび、かすが、は佐助の前に立ちすくむ。夜のなかで、その髪だけでなくかすがはあわく光っているよ うに見えた。吐き気がするほどいい女だ、と佐助は思う。 かすがの手にはくないがまだ握られている。避けるのは容易い。が、ここで騒ぎを大きくすることは佐助の望むことではなかった。 しのびは攻めるにせよ守るにせよ、気づかれぬほどの緻密さで事を成す。 佐助はにこりとかすがに笑いかけた。 「そーんな怖い顔すんなって」 「・・・おまえとおしゃべりをするつもりはない」 「そ?俺はかすがと話したいけどねーえ?」 にこにこと笑いながら腰をさする。 帯の結び目にぶらさげてあった針を一本抜いた。 「たとえばー」 たん、と床を蹴る。 佐助の動きに、かすがの体がいっしゅんで庭から消えた。が、佐助はすぐに目を上へと動かし、屋根のうえの金色を見据える。手裏 剣をそこに向けて投げた。かすがはそれを弾き、弾かれた手裏剣は屋根にぐさりと突き刺さる。 ち、と佐助は舌打ちをした。 弾かれた手裏剣を見て、かすがはちいさく息を吐き、 「どうしておまえが此処に居るのか、とかね」 次のしゅんかんに屋根に思い切り体を叩きつけられた。 肺が強く圧迫されてひゅう、とおかしな呼吸音が鳴った。胃の中のものが逆流してきて口の中に酸味が広がった。くつくつと佐助は 膝でかすがの背中を押さえつけながら笑う。かすがが佐助を睨み上げると、佐助の笑い声はさらに高くなる。 きらりと月明かりのしたで、針がひかった。佐助はそれをかすがの首もとにひたりと寄せる。針には痺れ薬が塗ってあり、それに刺 されたなら大の男でも一昼夜は動けまい。 残念だな、と佐助は言う。 「おまえが里から出なければ、これの耐性もついたのにね」 かすががそれに反論しようと顔をあげようとした。 が、佐助が更に膝に重みをかけたのでそれはかなわない。佐助は丸い目を細め、表情を無くしたまま体の下のくのいちの姿を見下ろ す。命は取らない。佐助はつぶやいた。なんで武田に来たかを教えて貰わないと。 ひんやりと冷たい金属が、かすがの首に食い込むしゅんかん、 「佐助」 それはひとつの声で、止められた。 ぴくりと体の動きを止め、佐助は屋根の下を見る。そこには幸村がぱちくりと目を瞬かせながら、屋根のうえのしのびふたりを見上 げていた。佐助はこっそりと息を吐く。そして若、と幸村を呼んだ。 「ごめんねー。あとちょっとで終わるからさ」 「なにがだ」 「んー、敵のくのいちの、処理」 ぐい、とかすがを踏みつけるとかすががかすかに呻いた。 眼下の幸村の顔がちいさく歪む。 「・・・佐助、その者をどうするのだ」 「それはこっちの分野。若には関係ないよ」 「さすけ」 幸村の目がきつく細められる。佐助は困ったように笑った。 くい、と幸村の首が右に振られた。逃がせ、ということだろう。佐助は眉を寄せる。そうはいかぬ。 だが幸村の目のひかりはあくまで強い。 針をかすがの首から離す。 佐助はおおきく息を吐き、それから膝に込めていた力を抜いた。すかさずかすがは佐助の体の下から逃れる。金色の髪がふわりと揺 れて、月明かりのしたでかすがの目が怒りに染まってきらきらとひかる。 佐助はそれを無感動に見つめた。憐れみか、と食ってかかるかつての同郷者に、佐助は鼻で笑い返す。まさか。 「俺はしのびだぜ」 主のことばに従うだけさ。 佐助がそうやって笑うのを、屋根の下で幸村は見ていた。 かすがが去ったあと、屋根から下りてきた佐助に幸村が寄る。 佐助はそれを横目で見て、かすかに笑う。干し柿取ってくるね、と踵を返せば着物の裾を掴まれた。 「先ほどの者は」 問われて佐助は苦笑する。 かすがは同郷者であり、同時に裏切り者だ。あの女に対する里のおもいはやさしくはない。だが、佐助はどうでもいいことだと思っ ている。おろかなおんなだ、とは思うが。 佐助がそう言うと、幸村は顔をくしゃりと歪めた。 「主を選ぶのは、おろかか」 「しのびには許されねーですねえ。しのびと武士は、違いますぜ。若」 「それがしのび、か」 「ん」 「そなたも、か」 そなたも主を選ばぬのか。 佐助は頷いた。幸村がそうか、とやはり頷く。 そしてだが、と笑った。 「だが其は、そなたが其のしのびで良かったと思っておる」 おまえはどうだ、と幸村は問う。 佐助はぱちくりと目を二三度瞬かせ、それからちいさくそりゃあどうも、と呟いた。幸村が問いに応えろとせがむので、佐助はちい さく笑いながら、さあねえと手をひらひらと振る。 「俺様は、しのびだから」 わからないな、と佐助は視線を足下に落とした。 なぜ目をあげられなかったのだろう、と佐助はすこし思う。 (ああ、そうだ) 幸村の目を見ながらは、その言葉を言えないような気がしたのだ。 |